【書籍紹介】「砂上の改革-ベレストロイカに挑んだ日々」

【書籍紹介】「砂上の改革-ベレストロイカに挑んだ日々」
                ニコライ・ペトラコフ著 日本経済新聞社 ¥2700

エリツィンのロシアが揺れている。昨年八月のクーデターから一年が過ぎた今、改革の遅れ、経済の危機的状況の進行からまたしてもCISの危機が指摘されている。エリツィンの9月訪日の突然の中止も改めてエリツィン政権の不安定性を示した。
ところで、7月上旬、本屋でこの本に出会った。著者の回想が中心であるため2日間で読んでしまった。読み易い本だと思う。(現在は、「エリツィンの選択」を読んでいる)
著者のニコライ・ペトラコフは、1937年生まれ、1956年のフルシチョフのスターリン批判に影響を受けた当時、モクスワ大学経済学部の学生であり、以後共産主義のドグマを見直し、ロシア史を別の角度から考え直しはじめ、行政的経済管理制度の根本的誤りを知り、市場制経済への信念を持ったと自らを語る。市場制経済論故に批判され、発言の場も狭められたが、1986年以降、制限が解かれる。
1989年人民代議員、ゴルバチョフ共産党書記長経済担当補佐官、そして大統領特別補佐官をつとめ、500日計画のプロジェクトに参加するが、その後の500日計画放棄に始まるゴルバチョフの経済改革路線の後退、右傾化の中で補佐官を辞任、91年のクーデター後、ゴルバチョフ辞任まで大統領経済顧問を務めている。
この本の面白さは、その間の、大統領府内でのゴルバチョフとそのとりまきたちの動きを、克明に描きつつ、ソビエト社会主義がどんな実態であったのか、経済と共産党、官僚機構などソビエト社会主義の根本的な問題を明らかにしていることにある。

<ゴルバチョフは社会主義崩壊の偉大なコロンブス>
「社会主義の民主的革新」をめざしたゴルバチョフのベレストロイカが、どうして彼の目指したものとはならず、皮肉にも社会主義の終焉をもたらしたか。それがこの本のテーマでもある。冒頭ペトラコフは、はたしてゴルバチョフはこの結末を予見した上で、ベレストロイカを進めたのだろうかと自問している。彼は、ゴルバチョフをコロンブスに例える。91年12月辞任の瞬間まで、ゴルバチョフは社会主義の革新を信じていたが、それは全く不可能なことであって、逆にたどり着いたのは社会主義の崩壊であったと。
「ゴルバチョフが本当は偉大な改革者として名を残すだろうが、彼が本当にやりたかったのはソ連社会主義を改造し、共産主義思想を復権して世界の人々に認めさせ、ソ連国民に対しては70年間の血脱い歴史にささげられた犠牲はやはり無駄ではなかったと証明してみせることだった。ところがベレストロイカの歴史は全体主義的共産主義権力システムを改革することが不可能だという事を示した。このシステムはそのまま姿を保つか、もしくは崩壊するしかなかった。その中間で生きながらえる道はなかった。」

<経済改革の試みは1965年から>
ソ連において経済管理型システムを市場型に変えようと言う試みは1965年頃から意識されはじめていたという。経済の全般的な悪化が背景であった。それは成長率の低下となって現れた。コスイギン改革の初期の段階で、改善が見られた。しかし、プラハ事件の衝撃からソ連国内でも市場志向の経済改革に修正主義の烙印が押されてしまう。
70年代は、石油価格の高騰による外貨の獲得が、命令型経済を生き続けさせた。しかし、石油外貨は破綻したシステムの穴埋めに浪費されたにすぎなかった。こうしてチエコ事件とオイルショックは、ソ連の改革を20年間遅らせる結果となった。そして1985年再び改革がテーマに上る。もちろん、さらに深刻な経済の悪化が背景であった。
共産党書記長として登場したゴルバチョフは、ベレストロイカを打ち出すが、最初の2年間は、旧来の社会主義のシステムはそのままに、やり方を変えれば、改革が進むという認識だった。改革は行政的な管理や規律の問題を取り上げた。しかし、経済の好転は見られなかった。
87年の二つの中央委員会では自由選挙による議会制度の導入と競争と商品経済・市場経済の考えをゴルバチョフは選択する。89年市場派経済学者ペトラコフは、ゴルバチョフ書記長経済担当補佐官となり、「灰色の党本部」に入ることになる。
ペトラコフは、「87年6月の改革計画は、競争を作り出さず、独占の効果を作りだした。(問題は)経済管理機関としての部門別産業省が存続したことである。これこそ、スターリン式国家経済管理システムの骨幹であったからだ。89年6月まで経済改革は事実上足踏みを続け、経済危機は加速度的に深まった。」という。
すなわち、89年までの2年間は、かえって旧権限を有する産軍複合体がそのカを強め、競争よりは一層の独占体勢が進んだ。ゴルバチョフは、市場と民主主義を導入しなければならないと、89年選挙制度における民主主義実現をはじめ、政治改革へと進む。

<500日計画の準備と破産>
その後の経過は、「上からの革命」を「下からの革命」が追い越す事になる。グラスノスチによって民主主義を獲得した民衆は、ゴルバチョフよりもエリツィンはじめ、改革派を支持した。90年春民主ロシアをはじめとする民主ブロックが、ロシア新議会の代議員選挙で前進をする。エリツィンはモスクワで復権し、ゴルバチョフと共産党の妨害にも関わらず、ロシア最高会議議長となる。国民の意識はゴルバチョフから離れていく。
情勢の変化を感じた政治家ゴルバチョフは、むしろエリツィンとの同盟を選択する。それが「500日計画」推進の背景だったと、ペトラコフは語る。
500日改革の骨子は、連邦を維持しつつ、市場経済を導入するため、共和国の経済同盟を確立する事、過剰流動性の排除を目的とした厳しい通貨財政政策、国有資産の私有化と斬新的な価格統制の撤廃、などを通じて市場経済の移行期に国家の資源を最大限に導入することであった。さらに、自由価格の導入、土地私有化、軍民転換の促進など。
出来上がった「500日計画」は、共産党、軍産特権層を代表する勢力から反撃を受ける。エリツィン批判も加わり、ルイシコフ政府は500日計画に対抗し、価格値上げを中心とする「改革案」を迫る。ゴルバチョフも1歩ずつ後退していく中、改革への躊躇にいらだつエリツィン演説があり、90年秋、エリツィンとゴルバチョフの同盟に終止符が打たれる。90年秋ペトラコフも大統領補佐官の辞任を決意するのである。

<共産党員コルパチヨつの限界>
ソ連共産党第28回大会もまた、転換点であった。90年には憲法第6条が削除された。一方、大統領会議が設置され、国内政治での重点は共産党から大統領府に移ったかに見えた。この年第28回大会が開かれた。ペトラコフなど他の大統領補佐官も、ゴルバチョフが複数政党による民主政治にむけ、社会管理勢力としての共産党の役割をさらに弱める措置をとるものと期待した。しかし、ゴルバチョフは党書記長の地位から離れなかった。
一方、ペトラコフは、特権と旧体制にしがみつく党官僚や特権層と、一般党員、国民に意識のずれが生まれており、ゴルバチョフが大会などをつうじて直接一般党員やソ連の民衆に改革を呼びかけることこそ必要だったのに、ゴルバチョフは最後までできなかったとペトラコフは指摘する。「このような状況下で唯一正しい道は、党を分裂させ、保守的、反動的な古い党官僚層と袂を分かつことだった、と今でも私は思っているが、ゴルバチョフは党の分裂を恐れただけでなく、名称の変更にさえ踏み切る勇気がなかった。・‥・・・もしゴルバチョフが去っていたならば、党の反動層は社会に対する影響力を失っていただろう」と。
それこそが、共産党員ゴルバチョフの限界であったと。その後、党の反動層は社会のリベラル層と党書記長その人に対する攻撃の準備にかかっていく。

<社会主義の「思想」と「制度」>
著書では、91年のクーデターまで筆を進めた後、最後の章では、社会主義経済制度そのものについて展開する。「社会主義体制は歴史的敗北を喫したが、体制の危機の震源地は経済の分野にあった」と。そもそも社会主義経済制度は成立するか、とペトラコフは、所有の平等をめざす社会主義の思想は間違っていないが、それを社会の原理にまで高めることは、誤りだったと。
最後の10章は、そうした問題提起の章でもある。これを簡単に紹介することは私には少々荷が重いので、省略する。ともあれ、この本は、ソ連邦の解体とベレストロイカを理解する大きな助けとなる。一読に値する著作であろう。(大阪:佐野 秀夫)

(参考 :「砂上の改革」目次

1最初の出会いから大統領顧問就任まで
2灰色の党本部での仕事
3大統領の経済プログラム
4イントナショナルのメロディでポロネースやを蹄れ
5共産党の再生をはかるゴルバチョフ
6「500日計画」・・・コやがチョフ・エリツィン同盟への期待
71990年秋 壊走状態のゴルバチョフ
8KGBの罠に落ちたゴルバチョフ
9八月クーデター
10共産主義信仰の終焉

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

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