【投稿】沖縄で、オキナワを考える.その2

【投稿】沖縄で、オキナワを考える.その2沖縄戦こついて

(1) 沖縄戦の終結の日
敗戦記念日は8月15日で、この日は昭和天皇が玉音放送をした日である(ポツダム宣言を受諾したのは14日である)。では沖縄戦の終結はいつであろうか?
公式には一応、6月23日を「慰霊の日」として沖縄県では行事を行なっている。では6月23日は何の日であろうか。それは、米軍が丘の頂上を征服するにいたって、日本軍指令部は解散となり、軍指令官(牛島軍指令官、長参謀長)は沖縄作戦の責任をとって指令部壕のなかで割腹自殺したと言う日である。これは史実からいっておかしいようである。更に、軍指令官が自殺をしたのは22日という説もあり、また割腹自殺ではなくピストル自殺という説もあるそうである。
沖縄の日本軍の組織的な抵抗が終わった日とするなら、軍指令官が最後の命令電文を発して、作戦の指揮を打ち切ったのは6月19日である。米軍の勝利宣言あるいは作戦終了宣言を区切りとするなら、6月21日か7月2日である。正式の降伏調印なら9月7日である。いずれにしても6月23日を軍指令官の自決をもって「終戦日」とするのは矛盾がある。
なぜなら軍指令官の最後の命令は「爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」(自分の責任を放棄し、かつがんばって戦えとは、とんでもない命令である)というもので、降伏や停戦の意志表示となっていない。そして、何よりも軍本位の記念日となっている点である。もちろん旧軍関係者がこれを”帝国陸軍の最期”とするのは自由であるが。また、『観光コースでない沖縄』のなかでは「沖縄戦の終結日は各人が収容所に入った日とすればよい」としている。
(2)悲劇は読谷飛行場建設から始まった 44年7月のサイパン陥落後、読谷、嘉手納、伊江島、浦添、西原、宮古、八重山など15カ所で一斉に飛行場建設がはじまった。用地確保の為、国家総動員法が通用され、のベ1100平米の土地が強制接収された。工事の為に国民学枚(小学校)の児童まで動員され、住民は県外疎開どころではなくなった。これが、軍民一体となった避難生活、混乱の始まりである。
沖縄戦では、読谷から南側の中・南部地域では日本軍の主力部隊が布陣し“鉄の暴風”が3カ月吹き荒れた。
逆に、読谷から北は住民の避難地区に指定され、ゲリラ戦が関われた。
1941年4月1日朝、米軍は読谷から18万人が上陸し、飛行場はその日の午前中に無血占領した。皮肉なことに、この飛行場は一度も使われる事がなく、住民の強制労働はまったく無駄になった。

(3) チビチリガマ
読谷村の「象のオリ」の近くに、丸木位理・俊さんの作品にも措かれている(そうである。)チビチリガマがある。そばに川が流れており、チビ(尻)のチリ(切れる)にあるガマ(洞窟)という意味で、このガマの中に地域住民141人が避難しており、米軍上陸3日日に「集団自決」で84人が絶命した。
包丁や鎌で、毒薬注射、焼死、煙で窒息・・・・・・と2時間足らずで亡くなったという「集団自決」の様子を電灯を消した真っ暗なガマの中で聞いたがかなりの物があった。孜々がガマに入る時、先に見学していたグループの女性が泣きながらガマから出てきたが、そういう状況である。
国体の野球場から日の丸を下ろした知花さんは、この近くの人で子供の頃は「集団自決」やチビチリガマはタプーであり、ガマに近づいただけでも親に叱られたそうである。このガマは長い間立ち入り禁止地域であり、83年夏で児童文学作家の下嶋哲朗氏の『南風の吹く日』の取材をきっかけに遺骨収拾、調査が始まったそうである。今では洞窟内は整備されてされてきたが、当時の慰留品を少し残してあり、又遺族の了解のもと遺骨も残してある 【写真2】。入り口から10m程は腰を屈めなければ歩けず、なかは幾らか天井も高いとは言え、100人余りが生活するには余りに狭い。ただ避難した生活だけでも大変である。
遺骨収拾後に入り口に「世代を結ぶ平和の像」が建立されたが、国体での日の丸焼き討ち事件の報復として、87年に右翼グループが打ち壊し、無惨な姿をさらし、今でも敢えて修理をしていない 残念ながら知花さんの話は数分しか聞けなかったが日の丸を引き下ろした人というイメージには速い温厚な人であった(日の丸を引き下ろす感情は何も特別な感情ではないのかも)。我々の行った日も知花さんは、スーパー開店の準備を終えて、10時過ぎには弁当を持って出かけ夕方までガイド業に飛び回っていた。

(4)チビチリガマとシムクガマ
チビチリガマから東に1キロ“象のオリ”の近くに全長3キロのシムクガマでは避難していた住民1000人は米軍上陸1日日に全員が生還している。
シムクガマでは、ハワイ移民帰りで、英語を話せるアメリカの事情にも通じている人おり、「中には民間人しかいない攻撃しないでほしい」と米軍と交渉したのである。一方、チビチリガマでは、竹槍で武装した男達がいた。確かに英語が話せるか否かは大きいが、決定的な瞬間に軍隊が押し付けた“死の論理”が支配するか、民間人の“生の論理”が支配したかとの違いであった(この点は『観光コースでない沖縄』に詳しく記載されている)。
(5)嘉数(かかず)高地 この嘉数では住民の半分以上が戦死し、3分の1の家で一家全滅している。嘉数周辺では、日本軍の司令部のある首里城を目の前にした、沖縄戦最初で最後の組織的な銃撃戦が行われたのである。沖縄の土地は隆起サンゴ層の上に、土が堆積したものであり、「あたりは、真っ白だった」と言うくらいに土が吹き飛び、地形が変形し、サンゴ層が露出していたのである。
また、この隆起サンゴ層のおかげで沖縄にはたくきんの自然のガマができた。
また、この嘉数高地は地域の人たちにとっては、ノロ(沖縄の地域宗教?の女性神職)以外は立ち入り禁止の神聖なる場所で、ここに日本軍のトーチカが築かれ、銃撃戦が展開されたのである。

(6)ひめゆりの塔
ひめゆりの塔は、あまりにも有名な(きれいに整備された)観光コースである。ここは、第三外科壕跡に建てられており、4~5mの穴の底に濠の入り口があり、穴の周りには柵があり、入り口を見ることはできない。ここから100mほどの所に、第一外科壕が畑の脇にひっそりと当時のままで残されている。では、入り口から中の様子も若干見える。
第三外科壕では、脱出できず、壕内にガス弾を投げ込まれほほ全員死亡している。また、第一外科壕では脱出に成功したが、多くのひめゆり部隊は南部の海岸で手りゅう弾自殺していったのである。
また、筆者も82年の今井正の『ひめゆりの塔』を見ているが、ひめゆりが余りにも有名だが、女子学徒隊はひめゆり部隊だけでない。ひめゆり部隊は沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の部隊の通称であり、表の様に他にも多くの学生が動員され、彼女らの多くは前線の野戦病院で働かされていたそうである(ひめゆり部隊は後方の陸軍病院で働かされていた)。

学 校 名       通称      動員数  戦死者
沖縄師範学枚女子部   ひめゆり     149   114
県立第一高等女学校   ひめゆり     148    96
県立第二高等女学校   白梅       67    36
県立第三高等女学校   名護蘭      10     1
私立積徳高等女学校   積徳       55    28
県立首里高等女学校   瑞泉       83    50
私立昭和高等女学校   梯梧       80    31
県立宮古高等女学校
               合 計 592 356(『沖縄戦とは何か』大田昌秀より)

ひめゆりの塔の周りも“霊域整備”のもとに観光地化している。同時に各地の戦跡に、海洋博や国体を前後して、戦争を美化する「八紘一宇」の塔や軍人遺族の記念碑が増えて来たそうである。

(7)韓国人慰霊塔
「1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年達は日本の強制的徴収により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵・徴用として動員された1万金名があらゆる難難を強いられたあげく、あるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰ざるこれらの冤魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り、風となって吹くであろう。この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。願わくぼ安らかに眠られよ。1975年 韓国人慰霊塔建立委員会」これは、平和公園に隣接して(公園の外)建てられている饅頭型の碑の碑文である。日本文のほかハングル文、英文で書かかれているが、沖縄の数ある戦碑のなかで唯一「虐殺」の文字が刻まれている。碑の周りには韓国から運ばれて来た石も並べられている。
沖縄戦では日本軍側軍人の戦死者の記録はあるが、この中に韓国人関係者の記録はない。また住民戦死者の公式な調査は一度も行われていなそうであり、正確な死者数すら分かっていないので、強制連行きれた韓国人の死者数も分からないそうである。
しかし、この稗を見学に来た元従軍慰安婦の方々は、自分達のことが碑文の中に一切記載されていないことに、たいへんな怒りを吐いていたそうである。戦争を巡る重層的な差別構造を垣間見た感じである。
(参考資料 『観光コースでない沖縄』高文研発行、『沖縄TODAY』柘植書房他)

前号では校正に参加できない間に、何とトップになってしまい驚きました。今回は然るべき位置に戻れました。
次回は、沖縄戦の残りと沖縄文化について考えてみたい。

【出典】 青年の旗 No.180 1992年10月15日

カテゴリー: 平和, 沖縄 パーマリンク