【投稿】自治労における展望なき日本共産党の分裂策動
この数年、日本共産党は、自らの影響力と資金源を確保し、選挙戦でのこれ以上の後退を食い止めようと、様々な大衆運動、とりわけ労働組合運動において組織分裂を進めてきた。
特に日本最大の単産である自治労では熾烈な組織攻防が展開された。
結果として、日本共産党の「一大攻勢」は惨散たる敗北に終わりつつあるが、日本共産党は例の如く「大本営発表」を繰り返している。
こうしたことから、ここでは、主戦場となった東京と大阪の経過をたどってみたい。
自治労内の日本共産党のフラクションは、愛知、京都、などの7県本部を始め、政令指定都市市職、県職のほかいくつかの単組、および自治労主流派の県、単組内の公然非公然の組織をもって構成され、その数30万と公称していた。
日本共産党の指導部は、連合の発足に照準を合わせ、第2の自治労を結成せよ、と総攻撃を命じた。 この中で、首都であり、組合員12万人を要する東京都職員労働組合の動向が最も注目され、「首都決戦」の様相を呈した。
もともと東京都職員は、本分庁(都庁職員各支部)と特別区職員労働の連合体であり、実際の労働条件の交渉はそれぞれに「権限」が存在していた。また基本貸金確定や、一時金闘争などは交通労組や水道労組を合わせた都労連単位で行われていたので、いわば「中2階」的存在であった。
日本共産党は、長らく、都職の執行部を支配していたものの、自治労主流派や、新左翼も抱えた運営であり、強引な分裂策動は行えず、一定の妥協路線を取ってきた。
しかし、先にも述べたように連合の発足、「全労連」の旗揚げ、という急展開の情勢の下、もはや城内平和に安住しているわけにはいかなくなったのである。
もっとも、それまでの作風にのっとり、「中立化」というまやかしの選択を揚げた。
しかし、大阪や全国の戦線で「戦場離脱、玉砕」が相次ぎ、開戦間無しに30万以上の組織化という目標の達成は到底不可能なことが明らかになり、二の足を踏む部分も出てきた。
これに慌てた日本共産党指導部は、主力である都職の突撃を厳命したのである。これを受けて、都職執行部は、一方的な自治労脱退を大会で決定しようとしたがかなわず、その後の支部単位の役選では勢力の後退が続き、強行策は裏目に出てしまったのである。
こうしてついに、昨年全支部で一票投票となったわけだが、これも予想を上回る日本共産党の敗北となり、組織勢力は自治労7万、日本共産党5万と逆転してしまった。
もっとも前提として、都職は分裂させずに、自治労系支部連合、自治労連支部連合を作り、それが上部団体一産別加盟単位-になるとの了解があったので看板だけは残ったことになる。
こうした結果となったのは、日本共産党が無茶な作戦を強行したことにつきるが、自治労主流派の大衆運動と組織問題をリンクし、自治労運動の優位性を示していった(10.21,横田基地包囲動など)努力がある。
大阪では、既に80年代の初めから、自治労主流派と日本共産党「衛都連」の組織戦が展開されていたが、全国状況を先取りする形で前面戦争に突入した。
戦線はこれまでの衛都速から、大阪市内に一気に拡大し、89年には1万4千人の大阪府職労が分裂し、自治労府職が再建された。
そして、これと前後して、「衛都連」の少なからぬ単組で、自治労への結集を目指す単組が誕生した。
このような反転攻勢ともいえる自治労主流派の動きに対して、日本共産党は大阪市職・大阪市従で分裂を強行、「大阪市労組」をデッチ上げた。しかし、その組織力量は、市職・従、合わせて2万6千人に対して、わずか600人であり、その幹部は圧倒的優位の敵に対する切り込みを、無能な指揮官から命じられた下級将校のようなものだ。
また、衛星都市のいくつかの主流派単組でも組合の10%に満たない人員で日本共産党が第二組合を形成したが、何らの庁内的、社会的影響力も持ち合わせていない。
大阪の場合も、賃金闘争や労働時間短縮などの取り組みで、自治労運動の優位性が明らかになり、組合員は、的確な判断をしていったわけである。
こうして、組織戦において自らが分裂をしかけたにもかかわらず、各所で戦線が崩壊してしまった日本共産党は、少数分裂の単組をもって、「○○市でも自治労連結成」などを宣伝しているが、その実は、インパール作戦における帝国陸軍「師団」と同じである。
それでも、日本共産党指導部は、「進軍ラッパ」を吹き続ける。東欧「社会主義国」で起こったことが、自らの支配する組合内でも起こっていることにも気が付いていないまま。 この進軍ラッパは最前線で疲れ果てた下級カードルには、レクイエムに聞こえるに違いない。(大阪 0)
【出典】 青年の旗 No.160 1991年2月15日