【報告】街頭日記
「青年の旗」編集部から湾岸戦争勃発以降の平和運動に関する報告を依頼された。
しかし、私個人の範囲では参加できる集会は首都圏の、しかもごく限られたものにしかなりえない。また参加した行動でも特に屋外のものでは、雰囲気は伝わってきてもとても一人で全体を把握することは不可能である。
発行されている市民団体の通信などを参考に、できるだけ手を広げた報告としていきたいのだが、実際に参加しなければ、その場の雰囲気は分からないだろう(伝えきれるほどの筆力もない)し、そんな文章を「青年の旗」に掲載すること自体意味のないことである。故に以下の報告は私個人が参加した集会の中で、典型的だと思われるものをピックアップて報告し、その後で総括的に意見を述べていきたい。
●1月23日(WED)
「日本l主戦争をやめさせるために何ができるか緊急集会」(主催:日市連、ピースネットニュース他参加者:約300名)
開戦一週間で市民運動が本格的に動き出した。これはベトナム反戦闘争よりも反応が速いらしい。
内容は、高橋武智(わだつみ会副理事長)、国弘正雄(社会党・参議院議員)、堂本アキコ(社会党・参議院議員)の各挨拶、色川大吉(日市連代表世話人)の講演、他。
集会のタイトルそのとおり、今後の課題は、日本の90億ドル軍事援助阻止であるということが強調される。そして、国会でのキャスティングボードを握る公明党を世論で包囲する行動が提起された。
また、「PeaceNow!戦争に税金を払わせない市民平和訴訟の会」から、90億ドル援助差止め訴訟を広く一般市民から原告団を募り、市民平和訴訟として展開していこう、と呼びかけが行われた。
●1月26日(SAT)
「緊急反戦集会-デモ」(主催:市民団体諸派、参加者1200名)
会場である防衛庁裏の公園の脇の道がビッシリと機動隊で埋められる。いよいよ運動への弾圧が強化され始めたようだ。
集会そのものは屋外集会でもあり、各団体アピールで終始。様々ないでたちの人々で会場は入り乱れ、ヘルメットにマスクの集団が独自集会を開いたりとあまり整然とした状態ではない。ふと学生時代に参加した安保デーの集会を思い出す。
集会後、六本木-アメリカ大使館(抗議行動)日比谷公園までデモ。
※この日、ペルシャ湾の原油流出が発表される。この世界がいまだに軍事優先思想に支配されていることを痛感する。
●1月27日 (SUN)
「Peace in 渋谷」(主催:日市連、参加者:300名)
集会と渋谷駅周辺でのデモ(このパターンは以降毎週くり返されることになる)。手作りのゼッケン、プラカードとラジカセを持参して参加。ラジカセで「Give Peace a Chance」と「Imagine」を流し、おもちゃのハンドマイクでがなっていたら、いつの間にかデモの中心になってしまい、シュピレッヒコールをやらされてしまう。
デモ終了後、渋谷駅ハチ公前に移動、他の市民団体と合流して全員でダイ・イン。数百人もの人間がハチ公前広場を埋めつくして寝ころぶ様子はなかなか壮観であった。
●1月31日(THU)
「池袋反戦集会」(主催:非核豊島の会、参加者:50名)
池袋駅頭でビラ撒き情宣後、中池袋公園で集会、終了後池袋周辺をデモ。
このような地域での集会、企画は各地で行われていたらしい。画家の丸木夫妻も、地域の活動家たちと一緒に東松山周辺で毎週デモ行進を行っていたそうだ。
●2月3日(SUN)
「市民アクションデー」(主催:市民団体諸派、参加者:2500名)
2月2日に行われた「国会包囲行動一人間の鎖」の際もそうだったらしいが、かなり権力の弾圧が強化されてきている。今回も、デモの最中に日市連の活動家2名がねらい打ち逮捕されるというハプニングが起きてしまった。これに対する市民の怒りはすさまじく、集会終了後渋谷警察署に100人をこえる市民が抗議に集まった。また、釈放されるまでの2日間、警察署に抗議の電話が殺到し、警察署の機能が一時停滞するほどであったという。
集会には、各地で活動している市民運動の活動家や、歌手の山本コータロー、高木仁三郎氏、弁護士の福島瑞穂氏などがアピール。神奈川県で基地闘争を行っている主婦から、反戦の意志を黄色いリボンをつけることで示そうと呼びかけられる(この呼びかけに共感したK君は、翌日早速黄色い布を買いに行き、平和運動に使うのならとお店の人に割り引きしてもらうという貴重な体験をしている)。私もその日から終戦まで黄色いリボンを帽子につけて歩くことにする。
以上様々な行動のごく一部をピックアップして報告したが、2月3日の行動がある意味でピークとなり、以降残念ながら集会・デモとも動員は頭打ちとなってしまい、集会での行動提起も、「次は××に集まりましょう」といった形に終始してしまう。
リアルタイムで戦争が報道されるという今までなかった今回の戦争が人々に与えた影響もかつてなかったものであっただろう。しかもその戦争に対して政府が憲法解釈をねじ曲げてまで直接にお金を出し、軍隊まで派遣しようというのである。国論が二つに分かれての大論争が展開されも不思議ではない状況であったはずである。しかしそうはならなかった。戦争に、日本の戦争加担に反対する市民の闘いを支援する勢力はこの国のどこにも存在しなかったのではないだろうか。90億ドル援助を阻止するカギを握っていた公明党は早々に賛成を決めてしまい、次に市民団体がターゲットとした小沢一郎をたたき落とす行動も、都知事選での社会党のもたつきにより集中するべき環が見いだせず、運動になっていないのが現状である。しかも社会党の一部から、戦後復興のためなら自衛隊派遣もやむなしという意見が出るに至っては、市民運動は首を絞められたのと同じになってしまう。
ただでさえ今回の戦争では、本来先頭を切って動き出すべき団体がなかなか腰を上げなかった。私が市民運動と行動を共にしたのも、他に身を寄せるべきものがなかったからというのが直接の動機である。戦争勃発当初から、マスコミの大騒ぎをよそに平和勢力の反応は実に鈍かったというのが私の印象である(開戦当日の昼休み、私の勤める会社の組合委員長一某前衛政党党員-は、号外を囲んで浮き足立っている私たちをよそに、「な-んだ始まったのか」とつぶやいて部長代理と将棋をうっていた)。
・・・・いつまでも愚痴をいっていても冗長になってしまうだけで何もならないのでそろそろこの駄文を終わらせようと思うが、最後にもうひとつ私見を述べさせてもらえば、今回の戦争で巻き起こった運動を収斂し、さらに広げていくひとつの展望は先に述べた90億ドル援助差止訴訟闘争にあるのではないだろうか。法廷内外の闘いを支援する平和勢力の今後の闘いを願い、また微力ながら私も行動に参加していこうと思っている。
【出典】 青年の旗 No.161 1991年3月15日