【書籍紹介】日本資本主義論:二つの対照的な本
『日本経済に学べ』ソ連・ミリューコフ報告、朝日文庫 91年2月20日発行450円
『新版法人資本主義の構造』奥村宏著、現代教養文庫 91年2月28日発行640円
最近同時期に発行されたこの二つの書物には、実に興味深いものがある。両書とも、同じ日本資本主義というものを対象としながら、その結論はまるで対照的である。しかしながらその結論にいたる分析の対象、問題意識には、共通のものが存在している。
それは、株式所有と生産の社会化の問題である。論点は多々提起されているのであるが、株式の法人所有の問題にしぼって、この問題を考えてみよう。
まずミリューコフ報告であるが、これは89年11月と90年4月の2回にわたってソ連大統領府から日本に派遣されたソ連経済改革調査団が、ゴルバチョフ大統領に提出した日本経済報告の全訳である。全体の基調を貫くものは、「日本絆済に学べ」という書名そのものが示しているように、羨望とまでいえそうな日本経済への賛美論である。しかしこれは、ベレストロイカがカオストロイカと言われるまでに混迷している中で、いかに現在の困難を克服するかという、きわめて実践的で具体的な問題意識から出発していることからすればやむをえないものであろう。
ベレストロイカにとって、具体的で同時に自らにも批判的な分析を伴わないような、「先進資本主義国の管理システムに対する旧来の月並みで皮相な評価を克服すること」(同報告序文)のほうが重要性を持っているからである。
<十分に高い社会化>
同報告がまず最初に「日本の社会・経済システムの全般的印象」という項目の中で述べており、そしてそのことが日本経済の評価の非常に重要な柱になっていることは次の通りである。
「第一に挙げたいのは、日本の経済では「社会化」の傾向が顕著だという点である。この社会化が見られるのは、何よりも生産の社会的性格の高度化、所有の性格の著しい変容に於てである。
‥日本では依然として私的所有が基本である。しかしながら所有の本質は、外見的な形態だけではなく、質的な変容を遂げているのである。
・・・…わが国にとって何よりも興味深いのは「株式所有」である。今日では株式所有は、形式的ではなく、実際的な生産手段の社会化を意味している。・…・・注意しなければならないのは、われわれが「私有化」「私的企業」という言葉を用いる際に、それを「ある個人の所有」という一面的な理解をしがちだという点である。諸外国の実情から明らかなように「私有化」「私的企業」という言葉は企業が国家に属しているのではないという状態を意味しているのである。
この点で日本経済の特殊性は、株式の70%が自然人ではなく法人により保有されていることにある。このことに注目するのは、こうした事実が、完全に「社会化」された所有形態ではないにしろ、諸条件を考慮すれば十分に高い社会化段階を意味するからである。」
<法人所有の実態>
ところで株式所有の実態であるが、89年度における日本の全上場会社の発行株式についてその所有状況を見ると、金融機関(投資信託を除く)42.3%、事業法人24.8%で、両者を合わせた法人の持株比率は67.1%に達している。これに対して個人の持株比率は22.6%である。ちなみに1949年度においては法人の持株比率は15.5%でこれに対し個人は69.1%であった。個人・法人の持株比率は完全に逆転してきたのである。一方、アメリカにおいては商業銀行は株式所有を禁止されているので、法人所有は事業会社所有の15%だけである。イギリスにおいては7.7%でしかない。(以上、奥村著による)
いかに日本における法人の持株比率が高いかということがわかる。もっともそのために、自然人が株式会社の出資者の座から追放されたわけではない。圧倒的大多数の中小株式会社の出資者は、いまなおそのほとんどが自然人である。中小企業や同族企業のオーナーが実際は個人の所有であるにもかかわらず、税法上の有利さから会社名義にしてあるものも存在しているが、株式所有の法人化という場合の主たる部分は、巨大銀行や金融機関、巨大企業への株式所有の集中である。その結果今では、全上場株式の7割近くがこれら法人によって所有されるという事態になっているわけである。
<法人化現象の根源>
さて、ミリューコフ報告でいう株式所有の法人化=社会化について、奥村氏はどのように見ているのであろうか。結論を図式化すれば、日本においてここまで法人化が進んできた基本的な理由は、系列ないしはグループの会社同士が相互に株式持ち合いを押し進めてきた結果である。それは、系列間取引とその中での支配力を高めるため、さらには乗っ取り防止策としての安定株主工作が広範囲に行われたことによるものである。
さらにこうした法人化を助長する独占禁止法の骨抜き(持株会社禁止規定の死文化、金融機関の株式所有の容認等)、法人所有を促進する税制(配当金に対する法人非課税原則等)が政府・財界の主導で執拗に行なわれてきた。奥村氏は次のように言う。
「そしてこの法人所有の増大は戦後日本の企業集中運動、独占化の運動から説明されるべきものである。“法人資本主義”といわれ、“会社国家”といわれる現在の日本の企業王国時代は、まさに戦後の野放しにされた集中運動、独占化の進展による大企業の支配体制の確立によってもたらされたものである。そしてまたこのことこそが株式所有における“法人化現象”の根源であった。」
<日本企業の努力目標>
ミリューコフ報告は、この法人所有が日本経済にたらすものとして、次のように述べている。
「日本の企業は、その所有者たる株主に最大の利益を保証するためにだけ活動するのではない。
日本の企業は、株主に対して義務を負う一方、自らの企業で働くとともに、広い意味では国家と社会のために勤務している労働者・職員の利益をも最大限に考慮すべく努力している。日本の企業は、短期的に利益を上げなければならないというプレッシャーの下に置かれながらも、長期的な展望をもって活動している。収益のかなりの部分が、投資や職員養成の資金として、また企業の将来の発展・成長のために留保されるのである。日本の経済関係の社会化は、分配システム(労働者の個人収入格差の縮小、社会保障の基金など)にも現れている。」
こうしたことがまさにソ連経済に欠落し、また直面している負の要因と対照的なものとしてとらえられている。
<「会社本位」資本主義>
ミリューコフ報告によれば、日本の法人化現象は民主的社会的に見えるのであるが、果たしてそうなのであろうか。奥村氏はこの点について次のように指摘している。
「他の資本主義国では見られないほど法人による株式取得が盛んに行なわれ、これによって企業間結合はおそろしいほど進行してしまった。このように企業間結合が進むとそこにはもはやビジネス・デモクラシーの原理はかけらもみることができない。銀行と企業は結合してしまって、そこでは特殊な取引が行なわれ、プライス・メカニズムも市場原理も働かない。・・・・こうして法人による、法人のための「全面的操作」が行なわれる時代になった。・・・・法人資本主義は一見強大な権力を持ち、極めて安定したかにみえるが、それはもはやローマ帝国末期と同じ状況にある。それは基盤のない砂上の楼閣である。
法人資本主義とはひと口でいえば「会社本位」の資本主義ということであり、その体制のもとでは富と権力は法人である企業に集中し、自然人はその法人に寄生することによってカを発揮する。それは株主本位、あるいは資本家本位ではない。・・・・・・それはまた従業員本位でもない。
企業は「日本的経営論」のいうような、従業員による共同体ではなく、「会社本位」のシステムのなかに従業員が丸ごと組み込まれ、内部化されているのであるが、「日本的経営論」者はこれを共同体と錯覚しているのである。」
<民主化と社会化>
以上、両書の問題提起をごく要約して紹介してきたが、これと関連して日本的な企業別労働組合の果す役割など重要な問題がどちらにも触れられている。
いずれにしても生産の社会化、さらには国際化が以前にもまして急速に進展している中で、それと両輪をなすべき民主化がまったく立ち遅れている、あるいは逆行していることは否定しがたい事実であろう。
そうであればこそ、両者の問題提起はいわば時代的な要請ともいえる。 (生駒 敬)
【出典】 青年の旗 No.164 1991年6月15日