【感想】「社会主義をめぐって」を読んで
吉村さんの講演の記録「社会主義をめぐって」をあらためて読んでみた。「我々は人間を一面的にとらえ過ぎていたのではないか」つまり「我々は生産手段が社会化すると(タイムラグがあるとはいえ)意識も社会化して皆が規律をもって社会のために働くように考えてきた」しかし「東欧ETC.の敗北は結局人間に対するこうした理想主義の敗北ではないのか」と半ば嘆きつつ、半ば発想の転換を訴えておられたと思う。
理想主義が敗北したとして落ち込む必要はないと思う。むしろ人間を当り前のようにみれるようになってきたのではないだろうか。かつての理想主義は多くの人達を社会変革へと駆り立てたが、一方で社会変革、土台の変革こそが重要であって、そこにつながらないならば結局のところ人間は解放されないし全て土台の変革に従属するという考え方が、かつては支配的であったような気がする。その結果、土台の変革に無縁とみられていた環境問題や人権問題などをはじめ多くの民主主義的な運動が軽視されてきた。とりあげられたとしても、無理やり土台の変革の「りろん」と結び付けられたりしたものである。
確かに土台が社会意識に与える影響は非常に大きなものがあるだろうが、人間は土台だけに規定されて生きているわけではない。個々人の人格と人権を尊重することが社会的に確立あるいは訓練されていない社会の土台だけが変わったとしても、そこからは官僚的で非効率な社会しか生まれないのは必然であろう。
これは、社会主義社会だけに言えることではない。資本主義社会の中の「革新」と言われる政党や労働組合などの組織が、内部でどれだけ多様な考えや意見を吸収し、実現してきただろうか。多くの人が党などの組織を、人間性を閉じ込める罪悪だとみているのは事実としてはあたっているのではないか。民主主義とは訓練であると思う。一時的な情熱や特定の思想だけで実現できるものではない。人間相互の関係をどう作っていくのかと言うことは訓練によって積み重ねていくしかない。土台を変革するための「指導」ではなく、多様な価値観と個々人の人格と人権を尊重し合う自立した市民社会のシステム作りのための共同作業が必要であると思う。ドイツ社会民主党の「ベルリン新基本綱領」では、「われわれは人間が理性的および自然的存在であり。個人的並びに社会的存在であるという共通の理解を持っている。・・・人間は性善でも性悪でもなく、みな学ぶ能力と理性を持っている。民主主義が可能なのはそのためである。人間は誤りを犯すものであり、間違ったり、非人間的行為を行ったりすることもある。民主主義が必要なのはそのためである。」と言っている。こういう発想が以前より受け入れられやすくなるならば、社会主義諸国の「崩壊」は、決して悲観すべきものではなく、むしろ、大きなステップにもなるのではないか。(大阪 A)
【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日