【投稿】損失補填と市場経済

【投稿】損失補填と市場経済

<汚泥の中の日本>
ソ連に市場経済のなんたるかを教えてやろう、財政支援よりも技術支援だと叫んでいた日本の政府・財界の化けの皮がはがれてきている。市場経済そのものをまったく無視し、むしろそれを破壊する行動が、証券会社の損失補填問題を通じて大きく浮かび上がり、世界的にも問われているのである。英エコノミスト誌は、「役人、銀行家、証券マン、それに彼らが買収した政治家たちは、日本を汚泥の中に放置した」と報じている。

<全部、ご承認>
証券大手四社が控えめに発表した損失補填だけでも総額1283億円の巨額に上る。補填先リストにはトヨタ自動車、松下電気、日立製作所といった「財テク御三家」をはじめ、大企業、金融機関のほとんどが顔を出している。そして野党の抱込みを狙ったのであろう、忘れずに公立学校等の共済組合、創価学会等が出ている。リストに載った多くの法人は「認識していない」「どうしてそれが悪いのか」「証券会社が勝手にやったこと」などという反応だ。証券取引法では、有価証券の売買で損失が出たら補償することを前提に取り引きさせることは違法となっているにもかかわらず、大口顧客、あるいは同金融系列に対してはかなり以前から半ば公然と習慣として行われてきたのである。最大手の野村は、大蔵省の行政指導の名の下で処理済みであるとして補填の事実さえ否定していたが、隠しきれなくなると「結論的に申し上げれば税の問題です。全部、大蔵省にお届けしているもので、ご承認も頂戴しています」(田淵義久前社長)と開き直った。暴露されて驚いた大蔵省は、「行政に責任を転嫁することは、モラルを世間から問われることになる」と反論したが(橋本蔵相)、同じ穴の狢である。

<腐敗と不正の温床>
日本の場合、投資家保護の名の下に証券会社は免許制となっており、しかも業界育成と監督・監視が一つの行政機関=大蔵省で行われ、国際的にみても非常に高い株式手数料をはじめ、証券会社の業務の承認から決算の内容にいたるまで大蔵省が事実上の決定権を握って、証券会社保護行政を行なってきた。
一方、それに対応して証券会社の方は、免許制の下で、野村証券を筆頭とする上位四社の市場シェアは著しく高く、寡占状態である。株式引き受け業務においては八割にも達する。しかも株式の発行の引き受け、売買の仲介、自己売買をすべて一つの会社の中でやっている。もともと利益が相反する法人相手の株式発行引き受け部門と個人相手の株式売買仲介部門とを同一の会社が兼営すること自体が腐敗と不正の温床であり、市場とは無関係にインサイダー取引が容易に実行でき、事実またそれによって圏外の一般投資家を犠牲にして損失補填を行ってきたのである。

<バブル崩壊の一端>
まさに市場経済とは似て非なるものである。しかも株式市場の参加者は、ますます法人、機関投資家に傾き、いまや個人の持株比率は22.6%(89年)にしかすぎず、市場は事実上大手証券会社の「管理相場」の舞台と化している。しかしそれにもかかわらず、資金はあの手この手で市場から吸上げなければ証券会社は成立たない。事実、日本の個人株主数は昨年だけでも150万人増加し、延べ2560万人を越えているという。これら株主の9割以上に当る圧倒的多数の個人株主、庶民の預貯金、資産を食い物にして、その犠牲の上に大口投資家に対する損失補填が行なわれてきたわけである。
しかしバブル経済の崩壊は、そのような実態の一端をさらけださせてしまった。庶民の怒りをなんとかして静めなければならない。

<時代遅れの抵抗>
国会で野村、日興等にたいする証人喚問がおこなわれたが、政府・財界はこれをあくまでも「証券不祥事」、あるいは暴力団との取引問題に矮小化しようとしている。この際、引合に出される米国の証券行政は、登録制を取っており、業務と垣根が分離した日本の何十倍もの証券会社が存在し、これらの不正行為に対する捜査権、行政処分権を持ち、スタッフ2000人をかかえる独立した行政委員会・証券取引委員会(SEC)が存在している。それでも不正行為の横行に対してSECの一層の強化が叫ばれている。これに対して証券会社の分割や日本版SECに大蔵省が執ように抵抗している姿は、市場を公開と平等を基礎とする経済における民主主義実現の場ととらえることのできない、もはや時代遅れの政府・財界の姿勢を如実に示しているといえよう。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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