【投稿】「南北問題を中心に捉える」とはどういうことか

【投稿】「南北問題を中心に捉える」とはどういうことか

(この原稿は9月号掲載の「ソ連・東欧の激変と先進資本主義国の特権的繁栄について」と題した投稿文章と一緒に送られてきた奈良の石田さんのものです。紙面の都合で今月号の掲載となりました)

原稿にある「南北問題を中心に捉える」とはどういうことかについて補足します。

a 「特権的繁栄」の事実を、労働者はみんなよく知っているのです。つまり(先号でどなたかが書いておられたように)「過労死するまでコキ使われて、家も持てない」ことに不満を持つより、東南アジアやアフリカに比べれば、いや、ソ連東欧なんかに比べれば、日本はよほど住みよい所だ、いい国だ、とみんな思っているわけですよ。だから、決起なんかするはずはない。決起したって、ロクなもんじゃない。日本の労働者は、今でも十分に特権的なゼイタクなくらしをしているのであって、「もっとゼイタクをさせろ」と叫ぶ労働運動なんて、やってもしょうがないんじゃないのか。
b では、どうするのか。「プロレタリア国際主義」という言葉があったでしょう。これの今日的な内容は、「日本人だけがこんなにいい暮しをしていいのか。もっと低開発国に、無利子、いや無償の援助をすべきではないのか」という問いかけだと思うのです。また、日本国内においても、老人、障害者など、不利な立場にある人々に対する手厚い福祉が必要です。これらのためには、増税もやむをえない。
「我々はもっと恵まれない国々、恵まれない人々に目を向けるべきだ。自分たちだけがいい目をしているのは罪悪だ」という正義の叫びが必要なのです。そのために、増税も、きちんと位置づけるべきだ。エゴの運動はもうダメです。労働組合も、組合費を上げてでも、国際連合(ユニセフ)への寄付でもやって、「我々は世界の労働者(貧しい人々)に手をさしのべるのだ」という姿勢を持つべきです。そうしてこそ、資本(金持ち)に対しても、自分勝手な金儲け主義を批判して包囲していけるでしょう。「バブル」で儲ける輩に対する怒りも、一層とぎすまされるでしょう。
c 甘ったれた博愛主義だと嗤うのは勝手です。しかし嗤う人は、プロレタリア国際主義の今日的な内容は何なのかを示してください。「家を持つ」ことが何ですか。賃貸でも何でも便利に住める場所がありさえすれば十分ではないですか。「持ち家」の要求なんて、小ブルジョア根性でしかない。そんな要求の運動で革命的な意識なんて育つはずがない。 過労死寸前まで働くのだって、一面では好きでやっとるわけですよ。少しでもいい暮らしをしようと思ってね。その結果、今日の繁栄があることも事実なわけでたとえ資本家は労働者以上に儲けているにしても、労働者も儲けているのは否定できないのです。)この点、労働者が一応組織されていて、議会制民主主義や自由な報道がかち取られている今日においては、マルクスの言った「絶対的貧困化」というのは阻止されてきたようですね。マルクスが生きてきた時代とは、色々な条件が変わっていて、ことに帝国主義国の特権があるから、労働者もそう貧乏クジばかり引かされる立場ではなくなっているわけでしょう)
だから、今、本当に資本に対する怒りを労働者が心底感じるためには、労働者にしか持てない「プロレタリア国際主義」の今日的な発現としての、南北問題の提起、国内でも弱者---差別されている人々---を解放するための正義の闘いの提起が、何よりも必要なのです。そして、口先だけでなく、自らの腹を痛めて、つまりカネを出して、正義の実現のために献身すべきなのです。これは、労働者階級が中心になってこそやれることであり、この闘いを通じて「なんで資本は自分が儲けることしか考えないか」「なぜ金持ちはもっとカネを出して我々の闘いに協力しないのか」という意識が組織できるはずです。
d こういう質の運動は、自分の物質的利害と直接合致しないだけに、きわめて困難なものだと予想できます。しかし、「24時間テレビ」だの郵便局の「国際ボランティア貯金」だの、資本の側、権力の側にさえこのような正義の要求を反映した企画があり、一定の反響を得ている事実があります。
高福祉国家、国際貢献をする国家、世界において正義を実行する国家という主張は、少なくとも誰からも後ろ指をさされる事のない(正面から反論できない)、説得力のある主張だと思うのです。誰よりも高い理想を掲げ、人類全体の幸福を正面から主張するのが共産主義者であるとすれば、たとえ最初はウケは悪くても、勇気を持って主張すべきでなのではないでしょうか。少なくとも、「過労死寸前なのに家が持てない云々」と語りかけるより、よほど胸を張って語れることだと思うのですが。それに、言い落としていましたが、核戦争の危機が遠退いた今、全世界的な視野からみて人類全体の幸福を課題とした場合、この南北問題こそが最大の懸案となっている客観的事実があるのではないか。これにこたえることが先進国の労働者の世界史的な責務ではないか、ということを付け加えます。 この観点から、現在人々の口によくのぼる「国連中心主義」と言うのは、正しい問題意識ではないかと思います。政策全体の中に位置づけて,PKOだろうが何だろうが、やってもいいのじゃないか。憲法改正をやって、国連軍の一翼の性格をはっきりさせていく考え方があってもいいのじゃないか。(田辺社会党の自衛隊容認は、戦略的な構想なしに「自衛隊違憲では票がとれない」という発想からの、なしくずし路線変更のように思えるのですが)ただ、このへんは、何となくそんな気がするだけですから、聞き流してください。             (奈良 石田)

【出典】 青年の旗 No.168 1991年10月15日

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