【映画紹介】『真実の瞬間』とニッポンのお父さん
『真実の瞬間』は監督アーウイン・ウインクラー、主演ロバート・デニーロで、1950年前後に荒れ狂ったアメリカ映画界の“アカ”狩りをテーマにした作品である。
デニーロ扮する主人公デビット・メリルは人気映画監督で、20世紀フオツクス社社長のお気に入りでたとえ疑惑を受けても“アカ”狩りの圧力をはねのけられるとの評判であった(こんなきつい冗談が語れていた)。一方、家庭を省みず映画製作に没頭する彼は妻ルースと離婚し、息子はルースと暮らしている。
そんな彼にもやがて、昔、顔を出した共産党の集会(論争を挑み追い出されたらしい)のことで疑惑がかけられた。しかし、下院非米活動委員会(HUAC)の諮問は拒否し続けている。結果、信頼されていた社長の保護も受けられずに、撮影中の新作も中止、「あれだけ儲けさせたのに」と嘆くが、あとのまつり。FBIには付け回され、どんな小さな仕事にもありつけない。前借りした映画製作費の返済の為、家を売り払い、離婚した家族の養育費が払えない。ルースと息子は家を出てアパート暮し、ルースは生活のため前の職である教員の口を捜す。
HUACの諮問では、黙秘権や憲法は通用しない(反ソ連と反共産主義の前には全てが許される)。黙秘は議会侮辱罪に問われ、追求を逃れるためには“アカ”に関係する他人の名前を挙げるしかない。結果、密告、内通、中傷、疑心、相互不信が生まれ、真実は曲げられる“人格の暗殺”である。国家に媚びへつらう人々のみ生き残り、まったくの”無実”のでっち上げを受けた人程逃れることが困難な事態であった。
最後は、HUACの諮問会のシーンで、デビットは、真実を曲げて大好きな映画監督を続けるか、あるいは信念にしたがって過酷な試練の道を進のか、の選択を迫られる。結局、デビットは前者を望む弁護士をその場で解雇し、後者の迫を選ぶ。諮問会での1対100位の大論議(単なる言い合い?)が展開される。しかしここでのHUACの論調には目を見張るものがある。これも自由と民主主義の親分を自認するアメリカの過去である。
デビットの主張はHUACの連中は変えられなかったが、デビットの後に諮問を受けた友人バニーを変えた。かつてバニーは「誰かを売らなければ奴らは許してくれない。君の名前を挙げさせてくれ」とデビットに懇願した。バニーはデビットの言動を目の前にして、憲法の言論の自由を主張し抵抗を始めたのである。それを見ながら諮問会を後にするデビッ
トとルースの後ろ姿を高めのカメラアイで映し、レッテルを貼られた人の名前やレッテルが剥されたのが実に1970年代になってからであることが説明され、タイトルバックが映し出される。
ここで人生の選択。自分を偽ってもとにかく、言論主張の武器(多少はできるであろう)であるスクリーンを確保しておいた方がよかったのではないか。少なくとも、デビットはあらゆる仕事から追われていた。ルースもたぶん教壇を追われるだろう。家・族3人はどの様にして暮らしていくのであろう。彼の選択は正しかったのであろうか。また亡命する映画人もいる中でなぜ彼はあえてアメリカに残ったのであろう (ハリウッドは捨てて一時ニューヨークには行ったのに)。作品を観た人は意見を聴かせて下さい。
さて、本題に入ると(崇高な作品のテーマからはずれるが)、私はこの作品を観て、過労死に至る日本の労働者の姿がダプって見えた。家族も捨てて仕事一筋の生活の果てに、自らの死に際しても会社は何もやってくれない事態に。
映画の中に、家族3人が狭いアパートの中で夜を過ごすシーンがあった。ルースは机でテストの採点をしている、デビットはテーブルでやっと見つけた三流西部劇映画用のコンテを青いている、息子はベッドで算数の勉強をしている。ここで息子がデビットにわからないところを質問する。ルースは「パパは仕事をしているから邪魔しないで」と言う。ここでかつてのデビッドは、ルースのこの言葉のように、息子を邪見にし映画の仕事を続けているかあるいは家族の邪魔を受けない場所で仕事をしていたであろう。しかし、今のデビッドは違っていた。仕事の手を休め息子の世話をするのである。映画をもぎ取られ、社会や友人速からも追われたデビッドを受け入れてくれたのは、結局ルースと息子のいる狭いアパートだけであったことを、デビットは理解できたのであろう。
もう「真実の瞬間」のロードショウは終ってしまったが、機会があったら、24時間頑張っているニッポンのお父さんと一緒に是非観ておきたい1本だと思う。(東京 C)
【出典】 青年の旗 No.170 1991年12月15日