【書評】『コロナ禍で暴かれた日本医療の盲点』
島田眞路・荒神裕之著、2020年10月発行、平凡社新書、920円+税)
福井 杉本達也
本書は、主に新コロナウイルスへの対応を扱った第1章「山梨大病院での新型コロナウイルス対応と日本と世界におけるPCR検査」と地方大学(大学病院)の困難を扱った第2章「地方国立大学病院と地方医療の苦境」・第3章「山梨大学の模索」に大きく分かれる。第2章・第3章はやや大学(病院)関係者向きであるため、第1章を中心に紹介する。
著者の島田眞路山梨大学学長・荒神裕之山梨大病院医療の質・安全管理部特任教授は、4月時点でも「日本の検査レベルは途上国並みだ」、「PCR 検査体制強化に今こそ大学が蜂起を!」と医療現場から多少過激とも思える表現で政府の無策ぶりに果敢に挑戦しており、第1章は『医療維新』というm3.comのコーナーに掲載された文章を中心にまとめられたものである。
まず「はじめに」において、「積年の脆弱なPCR検査体制を横目に、検査のデメリットばかりを強調して医療後進国並みのPCR検査数で世界の潮流を大きく外れ、クラスター対策に執着して戦略転換のタイミングを見誤った。さらにリスクコミユニケーションの配慮も乏しいまま、過大な推計値で社会を大混乱に陥らせ、蓋を開ければ欧米より被害が小さいからミラクルだと自画自賛する。こんな状態で本当によいのか」という危機感があり、「後進国並みのPCR検査体制は日本の恥」というやや過激な発言を行ったと述べている。
なぜPCR検査が少なかったかについて「件数が途上国レベルに低迷していた最大の理由は、3月下旬まで、地方衛生研究所と保健所がPCR検査をほぼ独占していたことにあった。」とし、「世界各国でほPCR検査体制を増強しており、そういう世界の流れをしり目に、日本でほPCR検査を地方衛生研究所・保健所にはぼ独占させ続ける現状を事実上容認し、その結果、PCR検査の上限を世界水準からかけ離れた低値にとどめ続けることにつながり、果ては医療のレベルが低い国と似た数のPCR実施件数という大失態を招いた」。しかし、著者は、それを地方衛生研究所・保健所をあげつらうつもりで言っているのではない。「PCR検査体制の強化は、従来の地方衛生研究所・保健所のスキームだけでは達成不能であることは明らか」であるとし、「未曽有の国難、それも臨床現場と密接に関わるPCR検査の問題を行政機関のみに依存してきたこれまでの体制がそもそも無理筋」であり、「PCR検査数の大幅な増加に向けたパラダイム・シフトを早急に図る必要があった」とする。
「その担い手として期待されるのが、民間検査会社と大学病院である」。しかし、「3月下旬以降、民間検査会社はPCR検査数を伸ばしてきたが、それに対して大学病院の検査数の伸びほ非常に鈍かった。」が、「大学病院の強みはアカデミズムだ。数多くの研究者を擁する大学は、専門的知識と技術が結集しており、研究施設などにおける機器の種類や数も比較的豊富である。PCR検査機器もその一例であり、大学病院ほもちろんのこと、大学にある研究施設も含めれば相当の数の機器が確保できる。これらのPCR検査の量的充足に加えて、検査精度などの質の高さも欠かすことができない。これこそ大学ならではの強みであるアカデミズムにより実現可能となる。したがって大学病院には、これらの強みを最大限に活かした日本におけるPCR検査体制の構築への貢献が求められる。」と大学病院が積極的に関与すべきであると説く。
次に、日本が感染者数と死亡者数が低く抑えられてきたことをもって「ジャパニーズ・ミラクル」と称していることには、「『ほぼ奇跡』などと表現すること自体がナンセンスで、評価をうやむやにし、非常に危険な方向に国民を導いてしまうおそれが強い。このような聞き心地がよい言葉に踊らされる国民に、『日本はすごいのか。やはり日本の方策は正しかった』『日本の感染はしっかり抑えられているから心配ない』という思いを抱かせ、アジア諸国に見劣りする日本の残念な施策を見直すチャンスを失わせてしまう。」とし、「日本のPCR検査体制が貧弱である事実を巧みにごまかしながら、重症化を前提にPCR検査を検討するという、限定的運用を正当化するためのロジック」であり、「世界の潮流から大きく外れたミスリードを、日本の独自戦略などと言いきってしまうところが嘆かわしい」と述べる。
さらに、大学病院が民間検査会社と比較して大きく水をあけられたことについて、「検査体制の大幅な拡充に向けた動きの中では、大学病院は完全に蚊帳の外で、今もその傾向か続いている」背景に『縦割り行政』と『大学側の費用負担の問題』があるとし、「大学の主務官庁は文部科学省であり、一方の医療は厚生労働省である」「大学病院の医療資源を活用する方向に動くべきところ、厚生労働省主管の医療の対策の中では、文部科学省主管の大学病院は蚊帳の外だった」と官僚機構の中での立ち位置を指摘する。もう一点が新型コロナウイルス対応の費用負担であり、医師や看護師の専門チームの形成に伴って手術を制限したことなどで、「2020年4月から9月までの上半期の見込みは、外来収益で前年度比約6億円、入院収益で約15億円の合計21億円の減収が見込まれており、これほ年間稼働額の10%に相当する。一方の費用負担についても、新型コロナウイルス対応の直接の関連費用だけで2月から3月にかけて約3000万円、4月単月で約4500万円であり、県からの補助金事業の分を差し引くと、単月当たり約1600万円の費用負担を強いられている」という。感染症患者を受け入れれば受け入れるほど病院経営には負担がかかる。まともな感染症対策の予算措置を怠ってきた政府の無策が浮かび上がる。
6月24日に突然廃止された専門家会議については、「これまでの専門家会議の問題点を専門家が感染症領域に偏っていたことだけに矮小化するのは、実態に照らせばあまりフェアではない。PCR検査体制に関する大失態やクラスター対策ばかりに傾倒してきた姿勢、議事録も残さず事後の検証すら容易でなくなった会議体の運営など、これまでの所業を踏まえれば、新たな分科会からは、全員外れていただくのが本筋ではないか。仮に、余人に代えがたいほど引き継いだ8人に頼らざるを得ない状況があるのだとすれば、人材育成を怠ってきたことそのものに問題がある。あるいは、人材は豊富なのに登用されていないのだとすれば、政策決定に関与する専門家の選択方法そのものに問題がある。政府に対して直言できる専門家を登用しなければ、政策決定の都合に合わせて、そのたびごとに専門家の見解がぶれて、専門家への信頼を失墜させてしまう。御用学者と揶揄されるような政策のちょうちん持ちは、時に国民の生命や財産を脅かすことにもつながりかねない。これは、今回の新型コロナウイルス感染症対策に限られた話ではなく、日本に根深く存在する問題点であり、根深さの故に解消が容易でない。」と切り捨てた。10月に入り、学術の立場から政策提言する日本学術会議が推薦した新会員候補105人のうち、松宮孝明立命館大教授・宇野重規東大教授ら6人の任命を、菅義偉首相が見送ったが、“俯瞰的活動を確保する観点”から「御用学者と揶揄されるような政策のちょうちん持ち」ばかりを集めれば、「国民の生命や財産を脅かす」ことになることは目に見えている。第1章はなぜ欧米よりも死亡者数が少ないかについて「中和活性」等の多少専門的用語はあるものの、大学病院への新型コロナウイルス感染者の受け入れを含め時系列的で読みやすいものとなっており、一気に読んで欲しいものである。
ついでに地方国立大学の苦境についての第2章にも若干ふれておこう。「最も深い底の部分に浮かび上がってくるものは何か。それこそが中央省庁の問で繰り広げられている確執だ。医学部を含め、国立大学全体の運営などの資金に関する問題では、財務省と文部科学省の間に軋轢が生じている。そして、大学病院に関する最も根深い問題は、厚生労働省と文部科学省の間のすれ違いだ。新型コロナウイルス感染症への対応では、かたくなに大学病院の活用は避けられてきた。」「かつて中国の秦の時代に始皇帝によって行われた言論、思想、学問の弾圧である、焚書坑儒にも似たアカデミズムの甚だしい軽視が中央省庁の間に存在している。とりわけ、地方の国立大学とそれに附属する大学病院は、内閣府、財務省、厚生労働省により、徹底的に人と金の両面から弱体化させられてきた。科学技術創造立国を目指しておきながら、反アカデミズムの台頭を許した現在の状況こそが、苦境を迎える今の日本を招来したといっても過言ではない。」と財源による締め付けからくる今日の大学の苦境を説明する。10月23日の日経新聞には「日本学術会議は廃止せよ」という“公益財団法人”(?)国家基本問題研究所(理事長:櫻井よしこ)の意見広告が出されていた。名を連ねる御仁の中に、福島第一原発の放射能汚染水の海洋放出を声高に叫ぶ奈良林直氏も見られたが、専門家と呼ぶにはふさわしくない原発企業である“倒産企業”東芝の元社員であり、原発推進のちょうちん持ちである。幸い、10月23日の関係省庁でつくる対策チームの会合では海洋放出の判断は先延ばしされたが、このような御仁ばかりのエセ専門家で政府の周辺を固めれば「焚書坑儒」と「国民の生命や財産が脅かされる」ばかりである。
「劣悪な環境からいいものは育たない。貧困が健康を害するように、大学の貧困は知の衰退を来す。2004年以降、国立大学の法人化とそれに伴う運営費交付金の削減によって、若手を中心とした人材登用か困難になり、研究機器や設備の修繕にも窮していることを指摘する声は枚挙に暇がない。国立大学の法人化に国庫支出の削減を抱き合わせたことは、他の知識人も指摘する通り明らかに失敗だった。」菅首相は「言葉が貧困」だと揶揄されるが、反アカデミズムの「劣悪な環境」からはまともな政策など出てくるはずはない。