【書評】『人新世の「資本論」』

【書評】『人新世の「資本論」』

           斎藤幸平著、2020年9月発行、集英社新書、1020円+税)

                               福井 杉本達也

ベルリンの壁崩壊が1989年、ソ連邦の崩壊が1991年末であるから、1987年生まれの著者はマルクス主義とはほぼ無縁の時代に育ったといってよい。それが、150年間見過ごされてきた新しいマルクスの史料を発掘し、果敢に新しいマルクス像に挑戦したのが本書と言える。

著者は既存のマルクス主義を「進歩史観」=「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」であるという。これは若き日のマルクス像であり、晩年のマルクス像とは異なるという。若きマルクスは「資本主義が早晩、経済恐慌をきっかけとした社会主義革命によって乗り越えられる…資本主義の発展は過剰生産恐慌によって革命を準備してくれる。だから社会主義を打ち立てるために、資本主義のもとで生産力をどんどん発展させる必要がある」と考えていた。しかし、人間の活動の痕跡が地表を覆い尽した「人新世」に突入したといわれる中で、生産力至上主義は「生産が環境にもたらす破壊的作用を完全に無視」し、「資本主義のもとで生産力の上昇こそが、環境危機を引き起こしているという厳然たる事実」を過小評価しているという。

もう一点の「ヨーロッパ中心主義」からの決別は、マルクスが亡くなる2年前の1881年に書いたロシアの革命家『ザスリーチ宛ての手紙』であるとし、「この手紙にはマルクスの思想的到達点が秘められている」という。ザスリーチの「ヨーロッパ中心主義的な進歩史観は、やはり正しいのでしょうか」という問いを突きつけられたマルクスは手紙の中で、「近代化を推し進めることで、わざわざロシアに残っている共同体を破壊してしまう必要はない。むしろ、ロシアにおいては、これらの共同体が、拡張を続けて世界を飲み込もうとする資本主義に対する抵抗の重要な拠点となる」と書いている。晩年のマルクスは共同体研究に熱中し、ゲルマン民族社会のマルク協同体の分析では、共有地(コモン)が「誰のものでもなかったがゆえに、所有者による好き勝手な濫用から守られ…土地の持続可能性を担保」、「強い共同体的規制によって、土壌養分の循環は維持され、持続可能な農業が実現」したとする。著者は、この「持続可能性」と「社会的平等」は密接に関係しており、「共同体社会の定常性こそが、植民地主義的支配に対しての抵抗力となり…資本の力を打ち破って、コミュニズムを打ち立てることさえも可能にする」とし、「生産力至上主義」とも「エコ社会主義」とも違った「脱成長コミュニズム」が晩期マルクスの将来社会像であるとする。

著者は、資本の無限の価値増殖としての「無限の成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重き置く」というが、果たしてそのような対抗軸は可能なのであろうか。「脱成長コミュニズム」の柱として、①「価値」ではなく、「使用価値」に重き置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する。②労働時間を削減して、生活の質を向上させる。③画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。④生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。⑤使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視 によって経済成長をスローダウンさせることであるとし、国家が押しつける新自由主義的な政策に反旗を翻すバルセロナが呼びかける「フェアレス・シティ」や食料主権を取り戻す「南ア食料主権運動」、飛行場の新設禁止、自動車の広告禁止などを提案する市民議会(特にフランス)など、実際にこの共同体づくりに動き始めた実例を紹介している。

ところで、本書で気になる点は「気候正義」という言葉に代表される気候変動問題への前のめりである。はたして地球は温暖化しているのか、温暖化しているとしても化石燃料の消費のみが主要原因なのか、原因だとしても2030年までに半減することは可能なのか。そもそも、気候変動問題には「グローバル・サウス」を無視した「ヨーロッパ中心主義」の匂いはしないのか。人為的に「半減する」という目標に自然循環に人間が強制的に介入していく「生産力至上主義」の匂いはないのか。16世紀に神をその地位から引きずり下ろし、乗っ取ったヨーロッパ「科学」に対する根本的批判が必要と思うがどうだろうか。

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