【書評】『働き方改革の世界史』

【書評】『働き方改革の世界史』

       濱口桂一郎・海老原嗣生著、2020年9月発行、ちくま新書、840円+税)

                              福井 杉本達也

「働き方改革」というよりも労働組合論、「世界史」というよりも、「世界史」の物差しから見た「日本史」といった方が正解かもしれない。本書では英米独仏の11の古典を取り上げ、第1章「トレードからジョブへ」では、古典中の古典:シドニー&ベアトリス・ウエブの『産業民主制論』に始まり、企業横断的な職業組合を前提とするイギリスの雇用システムを、そしてテーラーの「科学的管理法」・「フォードシステム」が導入され熟練が解体されるアメリカにおいてのトレード(職業・職種)からジョブ(職務)への移行を、そして第2章「パートナーシップ型労使関係という軌跡」では、ギード・フィッシャーの『労使共同経営』などドイツ共同決定に基づくパートナーシップなどを紹介、第3章「パートナーシップなき企業内労使関係の苦悩」においては、G・D・H・コールの『労働者―その新しい地位と役割』などを紹介、第4章「片翼だけの労使関係」と、各国でどのように労働運動が展開し、どんな考え方が生まれたのか、「ジョブ型」とされる欧米の雇用システムがどのような経過をたどってきたかを要約している。

しかし、本書の意図はこうした古典の単なる紹介にあるのではない。底流に流れるのは日本の労働組合の「ガラパゴス的な形態」への批判である。著者は「日本の場合、多くの労働組合が、企業ごとに組織され、他社とは別の団体となっている」とし、「それは世界の中では異端なのです」、「多くの国では、労働組合は企業横断的に作られており、それは職業別に組織されたり、もしくは産業別に組織されたりしています」と序章で告白する。

そもそも、日本において労働組合の存在は年を経るごとに希薄になっている。評論家の佐高信が、長崎大学の集中講義を頼まれ、過労死やサービス残業になどにふれた際、学生から「『先生、労働組合ってないんですか?』 もっともな疑問である。一瞬詰まって、私は、『あるけど、ない』と返し、一応あるけれども…苦しい言いわけ」をしたと書いている(社会新報:2020.10.7)。佐高の話は2000年代のことであるから、現在の学生ならば「労働組合ってなんですか?」という根本的な質問が返ってくるのではなかろうか。新型コロナウイルス対策での「雇用調整助成金」の申請書類に「内容に誤りがなければ、従業員の代表の方に署名してもらってください」と「労働者代表」の署名・押印をする欄がある。労働者代表とは「労働者の過半数を代表する労働組合がある場合その労働組合が、労働組合がない場合は、労働者の過半数を代表する人を選出し、その選出された代表者」とされているが、申請企業の何割が文章の趣旨を理解しているのであろうか。10月13日、最高裁第3小法廷は「バイトに賞与」、「契約社員に退職金」、「不支給『不合理と言えず』」という判決を下した。日経ではコメントを弁護士や労働法学者の水町勇一郎東大教授などに求めたが(日経:2020.10.14)、労働組合の全国組織である連合に求めることはなかった。むしろ、「産別自決」を基本とする連合にあっては、個々の産別が関係する事項へのコメントは避けたかったのかもしれない。

そして、著者の本音は第12講で思い切り炸裂する。「外につながらない労働組合が、社内だけで労働運動を続けるという片翼飛行は、どのような帰結を見せるのか。協調、なれあい、そして組合弱化。そうした将来は、なんと60年近くも前に、もう見えていた」とし、「今ではほぼ完全に忘れられた本」である藤林敬三の『労使関係と労使協議制』を紹介する。藤林は労使関係を第一次関係の経営対従業員関係と第二次関係の経営対組合関係」に分け、第一次関係は「元々が労使の親和、友好、協力の関係」であり、第二次関係は「賃金ならびに労働諸条件、すなわち団体交渉の中心的な事項を対象」とし、「労使は明らかにここで利害が対立している」、「この二つの関係は性格上まったく相異なる」とする。そして、日本の労働組合は「この二つの関係が明確に区別され分離されることなく、からみ合って不分離の状態で存在」し、「その労使関係は、非常に曖昧模糊たる状態にあり、また非常に矛盾した複雑微妙な関係を示す」と洞察した。さらに、かつての総評、現在の連合などの上部団体の意義について、「そのまま放置すれば労使関係の第一次関係に傾こうとする経営対企業内労組関係を、その企業内労組を外部から指導支援することによって、経営対組合関係としての第二次関係の方向に事態を押しやろうとする」ところに存在意義があり、そのために「必要以上の左翼理論」、「イデオロギー」で強引に第二次関係へ引き上げようとしたと述べている。しかし、60年後「イデオロギー」が皆無となった今日、日本の労働社会は「利害対立の第二次関係が限りなく希薄化し、労使協力の第一次関係に埋没」してしまった。

10月27日、ANAは4,000億円の経費削減のため、「雇用は維持しつつ、人支件費を抑制するため、来春には400人以上の社員を外部に出向させる。家電量販大手のノジマや小売りの成城石井など企業や自治体を予定している」(日経:2020.10.28)という。キャビンアテンダントなどとして採用された職種が家電の売り場に立つのであろうか。
職務や勤務地、労働時間などが限定されない純粋なメンバーシップ型雇用が続く日本の特異さと、今後の先行きを考えさせられる。斜め見からは、「働き方改革」ができないのは日本の労働組合にあるというのが本書の趣旨なのかもしれない。

ところで、本書は第2章で「労使共同決定」を取り上げている。「1918年11月のドイツ革命では、前年に起きたロシア革命でボルシェビキ(共産党)が唱えた『すべての権力をソビエトへ』に倣って、『すべての権力をレーテへ』が唱えられました。ソビエトもレーテも労兵評議会という意味です」、ところがドイツ社会民主党指導部は軍部と連携し、急進派の反乱を鎮圧するが、この混乱の中で労働組合と労働協約の承認、事業所委員会の設置などの協定が結ばれる。この企業の意思決定への参加は、ワイマール共和国では実現できなかったが、第二次世界大戦後の1952年、監督役員会への3分の1の従業員代表制、1976年の共同決定法では労使同数とされ、従業員の代表が経営に入り込み、労働側の意思を反映させる仕組みが出来上がった。著者は「ここで面白いのは、『ソビエト』のドイツ語版であり、ドイツ共産党のシンボルであった『レーテ』」を「『ラート』として(見事に換骨奪胎されて)受け継がれたことです(『レーテ』は『ラート』の複数形)。その後の社会民主党や労働組合はまさにナフタリ流の『経済民主主義』路線を歩んでいき、共産党とは敵対関係になりますが、その中核に革命期の『レーテ』という言葉が残っている」と書いている。

本書に「レーテ」という懐かしい言葉が出てくるとは思わなかった。かつて、若き日の吉村励大阪市大名誉教授の『ドイツ革命運動史』(1953)や「ドイツ経営協議会の発生・展開」(「大阪市大経済学部『経済学年報』第8集」1958)などの血沸き肉躍る文章をよく読んだものである。教授は「ラート」(経営協議会あるいは工場委員会)と労働組合の役割の違いについて「労働組合は、あくまでも個別企業の枠をこえて、各企業にわたって共通の問題を統一的にとりあげる組織である。この共通の枠からはずれた企業特有の問題や最低労働条件にプラスする問題をとりあげるのは工場委員会である。…したがって労働組合は、本来企業外組織であり、企業内組織としての工場委員会とは、組織的に別個の組織である。…工場委員会は企業特有の問題や職場の特殊問題をとりあげながら、企業内に埋没して終局的に個別資本の労務管理の補助機構に堕してしまうことを防止する外枠、その横の連帯によるブレーキを、その企業内における活動の出発点、基準を、労働組合に見出す」と書いた(『労働組合と戦線統一』1972)。したがって、わが国の企業別組合は、厳密な意味における組合ではなく「半組合」であるとし、この「半組合」を労働組合に変えるために教授は生涯闘ったといえよう。

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1 Response to 【書評】『働き方改革の世界史』

  1. 佐野 秀夫 のコメント:

    杉本さんの【書評】『働き方改革の世界史』について、この本の著者である濱口桂一郎さんが、ご自身のブログ(Hamachanブログ=EU労働法政策雑記帳 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/)に、「紹介記事」(11月14日)を掲載されました。興味深い内容です。ご参考まで。(佐野秀夫)

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