知識と労働 No43 1987年11月
【講演録】「統一戦線と人民戦線」の問題について
小野 義彦
今日は「『統一戦線と人民戦線』の問題について」ということでお話をします。現代のマルクス主義の最大の課題です。まず関連文献の紹介をしておきましょう。
1、レーニン「左翼小児病」
2、ディミトロフ選集第二巻
3,トレーズ「人民戦線術の諸問題」
4,R ・メドベジェフ「スターリンとスターリン主義」三一書房
5、J ・メドベジェフ「ゴルパチョフ」毎日新聞社
6、ルート・フォン・マイエンペルグ「ホテル・ルックス」晶文社
今日は今までまとまってお話したことがない「統一戦線」という問題について少し理論的・実際的に取り上げてみようと思います。当然もっと早くやっておかなくてはならなかった、現代の我々に取って最大の問題なんです。今まであまりまとめて話していませんでしたので、今日はそのきっかけという意味でお話してみたいと思います。ある意味では今日の労働運動と社会運動全体のひとつの総まとめへの試みもしたいような考えです。
<統一戦線—-マルクスとレーニン>
統一戦線という問題は、レーニンの著作の中では「労働者階級の統一」という言葉では度々出てきます。そして「労働者階級の統一」という考え方の中に、レーニンは非常に広い統一戦線を考えていたのたといえるでしょう。それからレーニンの考え方のなかには労働者階級の中のいろんな派閥の統一、右派もあれば、中間派もいる、左派もいる、しかし、パンのため、生活のために闘うことの上では資本との闘いに於て労働者階級は派閥をこえて手をむすぴあい、労働者階級としての統一をはからなければ資本に対し勝利する事は出来ない、これがレーニンが常に強調していた考え方だと思います。それだけにとどまらず、レーニンにはより広い人民層を労働者階級の周囲に、より広い働く人民大衆の層を結合しなければならぬという考え方がありました。
レーニンは周知のとおり、1920年のコミンテルン第二回大会を前にして、各国共産党のセクト主義的で、独善的な極左的傾向に警告を発し、「左翼小児病」の有害な役割を克服することを呼ぴかけています。そして、1921年のコミンテルン第三回大会では「大衆の中ヘ!」というスローガンを前面に掲げて、統一戦線政策を次のように原則化しています。すなわち、①労働者大衆のできるだけ実践的統一行動を目指し、この見地から全国的にも改良主義者をも含めた具体的協定を結ぴ、②その際、自己の見解を述べる権利を決して放棄せず、③大衆の統一こそ真の統一戦線という立場を貫徹し、④あらゆる政治的傾向をもつ労働者に共通の、真に統合できるような要求が重視されなければならない、というものです。
さらにその後の1921–22年の演説の中でレーニンは、統一戦線にかんして以下の諸点を強調しています。
①労働運動の中に現に存在している政治的潮流や政党を無視してはならないし、これらと交渉し、協定を結ぶことを拒否してはならないし、そういう闘争にますます広範な労働者大衆を引き入れること、
②改良主義上層部との交渉においては、弾力性を発揮し、小さなことから始め、「議論の余地のない、労働者大衆の直接の実践的な共同行動に関係のある問題だけ」を討議し、「総じて絶対に我慢のならない極度の卑劣さがないかぎり」、交渉を決裂させてはならない。
③統一戦線協定が達成された条件のもとでは、「調印された協定を破ってはならない」し、改良主義組織に対する批判には「もっと説明的な性格を与え、激しい言葉で労働者を辟易させずに、特別に忍耐強く、懇切に批判し、改良主義全体とプロレタリアートの要求の相容れない矛盾を説明しなければならない。」
そして、レーニンにとっては最後のコミンテルン大会となった第四回大会で、過渡期政府としての「労働者・農民の政府」のスローガンを提起し、その性格を「広範な社会的基礎を確保する、革命的民主主義的性格の政府」と特徴付けたのでした。レーニンの死後このスローガンは、スターリンらによって「プロレタリアート独裁の政府」に直接的に置き換えられてしまい、レーニンの提起した本質的な意味、すなわち統一戦線政府としての革命的民主主義的性格の政府の樹立に向けて闘うことの意味が無視されてしまったのでした。トリアッティも「コミンテルン史論」で指摘しているように、「しかしこれを実際に適用するときに誤りが犯された。そこでこれについて多くの議論がなされ、このスローガンはプロレタリアート独裁の同義語としてのみ解釈すべきであるという結論が下った。だがこれは、このスローガンからすべての特殊な意義を奪い去るに等しかった」。
1924年の第五回大会になると、労働者・農民の政府は、直接プロ独裁の政府とされ、そして1928年第六回大会では、このスローガン自身もおろされ、プロ独裁への直接の移行のための闘争が必要であるとされる。
そしてついに1929年第10回執行委員会において「社会ファシズム論」を採択、「社会民主主義は、ファシズムの双生児であり、ファシスト独裁の穏和な一翼であり、ファシズムと社会民主主義は近代資本主義の右手と左手である」とされ、共産主義者はたとえ小さくても自己の労働組合を組織し、直接プロ独裁樹立のために闘うぺきであるとして、統一戦線、同盟の政策が放棄されてしまうのです。
この段階までくると、統一戦線や同盟政策を考えることは全くの右翼日和見主義とみなされ、民主主義のための闘いなど無視されてしまったのでした。これはファシズムとの闘いの重要性、その広範な社会的基盤に目を向けさせなくさせました。
ここでさらに強調しておくべきことは、レーニンは1905年の第一次ロシア革命の時点ですでに、「広範な社会的基盤の確保」ということにかんして、『民主主義革命におけるふたつの戦術』の中で、「ここで問題になっているのは、まさに“プルジョアジー“と区別してのプロレタリアートだけではなく」、「専制、君主制、官僚、軍閥、農奴制のあらゆる憎むべき制度の撲滅」を要求するあらゆる民主主義的変革の積極的な推進者である「下層諸階級」である、と強調していることです。
後にフランスのトレーズやイタリアのトリアッチあたりによって、フランスやスペインに「人民戦線」と言う呼ぴ方がなされるようになるのですが、そう言う考え方の根元はやはりレーニンにあったし、マルクスやエンゲルスの中にもあったといえるでしょう。しかし労働者階級が中核になり、その回りに広い人民層を結集していく、広い人民層と言えば、階級から言えば主として小プルジョアジー層ですね。小プルジョアジーといえば階級としてはプロレタリアートではないが、没落して行けばプロレタリアートに転落して行くわけで、これはプロレタリアートの同盟軍になりうる、という考え方はマルクス・エンゲルスの頃からありました。レーニンは1924年に死んだのですが、20世紀の初めの20年間、これは「帝国主義論」に書いてあるように独占体が形成され、それが金融資本になり、独占の支配が一般化してきます。発達した資本主義国で独占の支配が強まるようになれば、資本家階級の”一般的支配“ではなくなるわけです。マルクス・エンゲルスの考え方は、資本家階級対プロレタリアート、プルジョアジー対プロレタリアート。だから資本家階級自身がまだ分化していなかったのです。だからマルクスの場合には「資本論」になり、プロレタリアートは何万・何十万の資本家階級と対決しなければならなかった。まだ独占資本は出来ていません。1883年にマルクスが死んだ後エンゲルスは1895年まで生きましたから、エンゲルスの時代になると独占資本は形成されてきます。独占の形成は1860年頃からで、その形成がハッキリしてきたのは1880年代だが、決定的な独占の支配が確立し、帝国主義的政策が本格的に出てくるのは1900年代で、20世紀です。レーニンの時代にはすでに独占が形成されていたので、帝国主義の時代の資本論=帝国主義論=独占資本の支配論を今後の本質的問題として展開したのです。この時期にはプルジョアジーが分化してきて、これまでのプルジョアジーの大半は小プルジョアジーにたたき落とされ、大プルジョアジーと巨大プルジョアジーが支配するようになるわけです。この場合、労働者階級はもちろん資本一般に対立しているのだけれども、小プルジョアジーとは敵対関係だけではなく、独占の支配と闘うためにはこの層も同盟軍、あるいは少なくとも中立者に、時と場合によっては味方に引っ張り込まなければならない、そういう中間的な存在になるのです。イタリアやフランス、またアメリカや日本でもひとにぎりの独占資本と金融資本が広範な社会の主要な敵になってきて、労働者階級とその同盟軍になりうる層が独占支配が強まるに伴って非常に広がって行きます。しかしその場合労働者階級自身がまず統一していなくてはこのような配置は生まれない。労働者階級自身が割れていたのでは自分の回りに同盟者を引き寄せることが出来ないのです。労働者階級が自分の陣営を統一する、その場合はじめて中間層・小プル層・その他の雑多な層を、人民大衆のほとんど9割以上を、自分の側に引き付けて独占資本との闘い、反独占戦線、反独占統一戦線を形成することができるようになり、また事実形成するのでなければ、独占との有効な闘いを進めることは出来なくなるのです。
<現代の統一戦線の問題–中小資本ないし中小企業とは何か?>
以上を少しまとめてみますと、統一戦線について、マルクスでは、労働者階級の自身の諸派の統一、労働者階級内部の統一が第一に考えられてきました。しかし独占が成立し帝国主義の時代になってくると、労働者階級自身の統一はもちろんすべての前提だけど、その上にさらに他の人民層、ひとにぎりの独占資本を除く圧倒的多数の人民層を労働者階級の回りに結集していく、こういう統一戦線、人民の統一戦線と言いますか、略して人民戦線と呼んでいる、そういう同盟形態が必然的になってきます。
その場合に一つ注意して欲しいことは、私は先ほど小プルジョアジーといいましたが、その理解の仕方が問題なのです。プルジョアジーが分化してきて独占査本主義の時代には巨大プルジョアジーが支配するようになり、他方では中小資本が大量に再生産されます。その際、中小プルジョアジーの中にも労働者を何十人、何百人も使っているところがあるでしょう。そこでは労働争議は勿論起こります。しかし数十億を文配しているものとその対応は違ってきます。今で言えば大ブルジョアジーというものは少なくみても資本金10億円以上でしょう。二、三億では中プルジョアジーですね。あるいは小ブルジョアジーかもしれない。そこで資本家階級の中の分化と言うことは、労働者階級の統一戦線に取って考えてみるとやはりこれは階級間の問題であり、小プルジョアジーといえども、一面でプロレタリアートと基本的に対立するプルジョアジーでもあるわけです。
だが、今度の日本の売上税の問題を見てもわかるように、あれはやっぱり巨大プルジョアジーだけが支持したんですね。大部分の中小プルジョアジーは反対の側に回りました。プルジョアジーにはいろんな複雑な利害や機能があり、単純ではありません。大プルジョアジーは、法人税を下げてもらうことと引き換えに売り上げ税を飲んだという訳でしょう。そして中プルジョアジーも法人税を下げてもらうことには賛成なのですが、彼らの立場は、かならずしも売上税でなければならんというわけではなく、その一般的購買力への影響をより重視したのでしょう。
だから彼らは動揺的でした。従ってあの場合、プロレタリアートの陣営が強力に統一しておれば、中プルジョアジーの層をも大局的に味方にし、中立化することが可能でした。もうひとつ下の層があります。小プルジョアジー、小プルジョアジーという階層もなかなかむつかしい階級で、理論的にもその整理が難しい。どこからどこまでを小プルジョアジーと呼ぶのか?資本金二億、三億円程度が中プルジョアジーだとすると一億円以下を小ブルジョアジーとするということにもなりましょうか?一応そうしてもいいとおもいますが、数百万円から数千万円までの資本金しかないようなものまでも小プルジョアジーの範疇の中に入れられています。実際には資本とはいえなくて資本の召使のようになっているようなものもその中には多い。本質的にはプチプルといっていいインテリ、官僚、教師などの層もあるでしょう。大学教授なんて言うものにはプチプルもいれば、プロレタリアートに近いものもいる。大プルジョアジーから金をもらってその利益に奉仕しているものもいるのです。このように小プルジョアジーという層はなかなか規定がむつかしいんです。―つだけハッキリしていることを申し上げます。それはいわゆる零細査本の問題です。親父と家族だけでやっている町工楊のような。これははたしてプルジョアジーなのでしょうか?
プルジョアジーと言うのは、何十人かを搾取する、彼らの不払い労働を占有する、そういう者でなければプルジョアジーとは呼べないのです。町工場の主人は、多少の資本を持っていても、それはプルジョアジーなのでしょうか、それはプルジョアジーではなく、零細企業で、基本的には家族労働だけでやっている、忙しいときだけ、若干の人を雇う、家内工業者なのです。零細企業は勤労者の仲間にいれるべきです。また零細”資本"と呼ぶべきでなく、零細企業と呼ぶべきでしょう。彼らの正体は家内工業者です。大阪近郊は家内工業の多い所ですが、西成、大正、東成など特にそうです。彼らはプロレタリアートそのものの同盟者です。プロレタリアートは、かれらの利害を代表してやらなければならない、彼らは自分自身の利益を守る組織らしい組織を持っていません。部落企業の多くは部落解放同盟に組織されていますが、これは労働者との同盟形態です。
中小企業と言うのは非常に曖昧な概念でして、その中には資本金何億と言うものもはいってくる、そして下の方には家内工業者・零細企業がいる。これまでの「中小企業」という概念は今日では中小プルジョアジーと零細資本とに分けて扱わねばなりません。その際小プルの中に零細企業が含まれていることが問題なのです。中プルジョアジーは大プルジョアジーの側によくつきます。彼らはひじょうな動揺層です。しかし零細工業者・家内工業者は、そのほとんどがプロレタリアートに近い家内工業者で、或は労働者の熟練工より収入は悪いかも知れない。零細企業の中には、労働者よりもミゼラプルなものもた<さんいる。だからそこをはっきりと区別して対応しなければならないと思います。
統一戦線の問題に帰りますが、統一戦線と言うのは、今日では人民戦線にならざるを得ない、そういう趨勢の中にある。即ちそれは、労働者階級の統一を中軸とし、その回りに零細企業者やプチプル、広範なサラリーマンその他の雑多な層を引き付けて巨大資本と闘っていく、これが今日の統一戦線であり、人民戦線なのです。
統一戦線という言菓も、労働者階級の中だけを統一する内部の統一戦線と、統一した労働者階級のぐるりにプロレタリアート以外の小プルジョアジー層や零細企業者や雑多な人民層を結集して反独占統一行動をやる、この二つの場合に分けて考えなければなりません。そしてこの二つは現在益々重なりあってきており、ますます結ぴ付いてきていくのだと思います。
<統一戦線の歴史—ファシズムの登場と人民戦線>
次は、この問題の歴史的なとりあげですが、統一戦線の問題や人民戦線の問題がでてくるのは労働者階級内部の統一という問題が先行しています。それだけなら独占資本の形成以前、労働運動の発生以来の古い問題です。労働運動はヨーロッパでは200年以上も前から始まっています。労働者は資本を持った強い敵と闘うためにその力を統一しなければならない。労働者の大衆団体は労働組合が主なものですが、それはいろんな思想や宗教や歴史などから様々な色合いの労働組合か生まれました。
しかし資本との闘いに、パンのために、飢死しないために、生活向上のために闘うと言う必要の前には、思想や宗教やいろんな色あいの相違を越えて手を握りあって、団結して闘わねばならない、これは労働運動の発生と共に古い課題です。だから労働組合の統一という問題は労働運動と共に古い問題なのです。
けれども労働者の回りに労働者以外の層をも引き付けていくという問題は新しい問題です。これは独占の形成・帝国主義の形成によって新たに呼ひ起こされてきた問題です。1920年代にその根元は形成されてきました。その基礎が形成されてきたといっていいでしょう。けれどもイデオロギーというものは現実の必要や行動からとかく立ち遅れる、すなわち人間はあることに気が付いても、それをひとつの思想体系に形成するには、相当行動から遅れるのです。思想とか理論とかは遅れるが、行動は先行する。マルクスは言ったでしょうー「初めに行ない有りき」と。行いがあってその後に頭がそれについてくる。統一戦線の行いは部分的には1920年代から反独占的な労働者とそれ以外の人民層とが手をつなぐという形をとっていたのです。
しかし、やはり、反独占人民戦線、反独占統一人民戦線というように思想化され理論化されてくるのは1930年代になってからです。それはある社会的・歴史的な行動を伴いながら形成されてきました。その最初は、1933–34年のフランスとスペインにおける反ファシスト統一戦線、反ファッショ統一戦線の形成であり、以来世界各国の人々の間にこの思想が新しい姿をとって現れてきました。これも初めに行い有りきで、理屈から始まったわけではありません。ファッショが台頭してきて、それが独占資本と結び付いている。そのファッショと闘うにはファッショに反対なもの全てが力を合わせなければならないと、スペインとフランスと、やがて全ヨーロッパの労働者が気が付いたのです。まず一番初めは、フランスで労働運動に反対するファッショが反労働者のデモをやったり、街に火をつけたり、人を傷つけたり、殺したりし始めた。それに対してパリの労働者が自然発生的に抵抗を始めた。そしてファッショの暴力行為を止めさせるためにゼネストをやった。このストライキをやっていた労働者達が気がついたことは、パリの下町で労働者を顧客にしている多くの商店主逹が赤旗を店に掲げ始めた。「労働者がちゃんと働いて物を買ってくれないと食べて行けないから」というわけで、労働者と小商店主達が手を結んだ。多くの知識分子がそれを支持し、そのことが理論化される、そこから人民戦線の考え方が生まれてきたのです。それまでは自然発生的な反ファッショ行動だったものが、統一労働人民戦線になった。そこから「ピープルズ・フロント」・「フロン・ポピュレール」という言葉が生まれてきました。1934年の事です。ファッショに金を出しているのは独占資本です。彼らはもう法律を無視し、直接行動で労働組合をやっつけろ、共産党・社会党をやっつけろと、ファッショ団体を暴れさせ、乱暴狼藉をやらせた。こうしたファシズムに自然発生的に反対する運動から人民戦線運動が出来てきたのでした。
最初はフランスでしたが、その後スペインでは、36年2月の総選挙で人民戦線派が勝利し人民戦線政府が樹立されました。当然これは軍隊にも波及し、軍隊だって労働者・農民ですから軍隊が赤くなってきたのです。そうするとフランコという極右将校が現れて右翼の将校達を結集し、軍隊どうしの内乱に火をつけた。それがスペイン内乱です。これは人民戦線派とファッショ勢力が武力をもって閥う内乱になりました。このころから「人民戦線運動」というものがマルクス主義のポキャプラリーの中にはっきりと理論化されるようになってきたのです。そのスペインも36年秋以後は政府軍が敗北に追いやられます。それが敗北したのは訳を話すと長くなりますが、はじめは人民戦線が優勢でした。フランコは36年7月スペイン領モロッコで反乱を起こしスペイン本土に上陸したのですが、初期には人民戦線政府軍に殆ど鎮圧されそうな状態でした。それが力を盛り返し攻勢に転ずるようになったのは、全くヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアの政府による国外からの直接の軍事援助・軍事侵略の支援によるもので、36年10月には干渉軍は首都マドリードを包囲しスペイン全土の三分の二を占領する優勢に転じてしまいました。ドイツ・イタリアはフランコ軍に大量の武器、物資、兵員を供給し、スペインに侵入したドイツ軍は3-5万、イタリア軍は5-10万とも見なされています。それに対して人民戦線側には、それに同情を寄せた世界中の知識人・労働者達が国際義勇軍として参戦し、国際混成旅団なども結成されたのですが、内乱戦を闘う人民戦線政府への国際的支援は案外に弱かったのです。フランス人民戦線のレオン・プルーム内閣は、イギリスの圧力の下で、スペイン両派の何れをも援助しない不干渉主義を取り、同年9月には独・伊両国とソ連を含む27ヵ国が、ロンドンでスペイン内戦不干渉委員会を設立しました。しかし独伊はそんなことには全く拘束されず、フランコヘの直接援助を増強しました。この情勢の中で10月になってソ連とメキシコが人民戦線政府側へ武器、物資の援助を開始することになったのですが、それとて上述の不干渉主義の立場を守ることが独伊両国の侵略を“自粛“させるという建前の範囲内で行われたものであったために、人民戦線側の不利は免れませんでした。
当時スターリンが何を考えていたかは分りませんが、どうも人民戦線派への直接援助よりは、ヒトラーとの妥協–後に39年8月に独ソ不可侵条約調印という形をとって現れる–に狙いをつけていたのではないかと思われます。こうして強まる不利な国際惜勢下に人民戦線政府は36年11月にはマドリードを撤退してバレンシアに移らねばならなくなり、さらに37年10月には最後までファシストヘの抵抗線を止めなかったカタロニアのバルセローナに中心を移しました。しかし、英、仏、ソ連の不干渉主義の建前は、その後も変わらず、ついに39年1月にはバルセローナも陥落してファシストの手に落ち、英雄的なスペイン人民戦線は壊滅させられてしまったです。フランスの人民戦線政府はそれより前38年9月のミュンヘン会談後11月に崩壊していました。
<スターリンと人民戦線>
こうしてヨーロッパの人民戦線は1939年末迄には、ファシストの攻勢により潰されてしまいます。英仏両国は同年9月のミュンヘン会談により露骨にヒトラーと妥協してしまうのですが、社会主義のソ連もまたファシスト・ドイツに対して強い姿勢を取らなかった点でこの妥協を助けたことになります。この点では、社会主義にもまた責任があったと思います。しかしスターリンのソ連にとっては、ヨーロッパ全体が右にいくか左にいくかは大問題であったわけで、もしヨーロッパで人民戦線が勝利を持続していれば、西欧と社会主義との関係は大きく改善されたことは間違いありません。当時のアメリカはルーズベルトのアメリカで反ファシスト的であった。だから西ヨーロッパで、スペインとフランスの人民戦線が没落しないで、もし政治権力を維持し続けることができていたとするならば、ドイツとイタリアのファシスト政権はもっと早く孤立させられ、つぶすことも出来たはずです。そうなれば第2次世界大戦は起こらなかったかも知れない。おそらく防ぎ止められていただろうと思います。第2次世界大戦はどうしておこったか。スペインとフランスの人民戦線が葬りさられたことが大きな原因であったと言えるでしょう。そこでヒトラーとムッソリーニは猛威をふるい西欧での人民戦線打倒の成果の上にオーストリア・ハンガリーを侵略し、チェコスロバキア攻撃、ポーランドをも制圧していった。なぜその前に止めることが出来なかったのか。問題はここまで行くと思います。だから人民戦線問題と言うのは、現代の歴史を左右する大きな問題になっていたわけです。
中心的な問題はスターリンの支配したソ連がなぜ本気でスペインに対して効果的な扱助をしなかったという間題にあるように思われます。
ソ連人民は多数スペインに行き、人民戦線軍に加わりました。スターリンはそれを止めるようなことはしなかった。そして36年10月にはスペインヘの武器援助の方針を決めましたが、それは遠慮勝ちなもので、人民戦線軍にとって決して十分なものではありませんでした。なぜか?訳は分かりません。
これは歴史的な問題で、将来明らかにされるでしょう。それだけではない。スターリンが人民戦線を余り好きじゃなかったことは事実です。そのことをこれから問題にしたい。
好きでなかったどころか、スペインに出かけて言った何千人ものソ連人や東ヨーロッパ諸国の労働者や知識人達に対して極めて冷淡な姿勢を取った。当時はコミンテルンがありましたからスターリンは全世界の共産党を動かせたはずです。なぜあのときに政治権力を握っていたスペイン、フランスの人民戦線政府と同盟関係なり援助協定でさえも結ばなかったのでしょうか?スターリンはそうしたものをいっさい結ぴませんでした。
なぜか、はっきり言えば嫌いだったのでしょう。そうとしかいいようがありません。スターリンはほんとに訳の分からない男です。それどころか反対にコミンテルンの線を使って、スペインで実際に武器を持って闘っていた連中を次々ひっこぬいてモスクワヘ連れ戻したり、牢屋に入れたり、しばしば暗殺したりさえもしました。いわば人民戦線に参加した連中を反スターリン派とみなして決めつけていたのでしょう。そのためにソ連やコミンテルンから参加した連中の間に内紛が起きてくる。もしあのときソ連が表向きでもこっそりとでも、かなりしっかりした「赤い」戦車や飛行機を大量に送り込んでいれば人民戦線軍はもっと強い抵抗が出来たはずです。私は当時京都大学の学生でした。なぜソ連はスペインを援助しないのか、もどかしくてしかたがなかったのです。スペイン人民戦線は日に日に負けていくんです。あのとき戦車や飛行機を十分にスペインに送り込んでいれば、人民戦線政府軍は勝利し、ヒトラーやムッソリー二は第二次世界大戦を起こせなかったはずです。スペイン内戦の当初、ヒトラーはそれだけの力をもってはいませんでした。人民戦線をやっつけたことによって、ファシズムは西欧での勝利を我がものとし、東への侵略を開始したのです。そしてソ連に侵攻していきました。もしあの時スペインに戦車、飛行機の数千台でも送り込んでいれば、戦局と政局を左右することが出来たはずです。そうすればソ連は第二次世界大戦で数千、数万の戦車や飛行機を使わなくてもすんだはずです。人民戦線問題と言うのは、これほど大きな問題だったのです。スターリンは、人民戦線よりも独ソ不可侵条約の締結を過信していたのではないでしょうか?
そこで統一戦線の問題に帰りますが、統一戦線の一般的問題はレーニンの「左翼小児病」が基本的な点を述ぺています。これは労働者階級自身の統一の問題と労働者階級の周辺の貧しい階級を統一していく問題、共産主義者はセクト主義を無くさなければならないということや幅広い統一戦線を作らねばならない問題など、その基本思想が述べられています。
次に人民戦線問題は、ディミトロフの選集の第二巻統一戦線、あるいは人民戦線の理論の諸問題ということで非常に詳しく論述しています。これも基本文献です。
人民戦線を内部から攪乱したソ連のスターリン主義の問題については、あまり系統的に書いた本がまだあまり出ていませんが、これから続々出てくると思います。それは世界的に大きな問題として、近い将来共産主義とマルクス主義の見直し上のもっとも重要な問題となるでしょう。部分的にはすでにいろいろな文献に、そのことが語られています。
人民戦線の問題をフランスの立場で書いたものがモーリス・トレーズの「人民戦線戦術の諸問題」ですが、私はこれを1936年頃に英訳で読み、終戦直後に翻訳して非売品で出したのですが、後にこれは大月から出版されました。
スターリンと人民戦線派との関係については、オーストリー人のルート・フォン・マイエンプルグの書いた「ホテル・ルックス」が詳しくふれています。ルートと言うのは女性ですが、御主人もいっしょにコミンテルンに勤務していました。当時モスクワに外国人の共産主義者の合宿所がありました。現在の「インツーリストホテル」(ゴリキー街10番地)、昔はホテル・ルックスと言っていました。このホテルに全世界の共産党から派遣されたコミンテルンの役員達を集めて住まわせていたのです。何も集めることはなかったのではないかと思います。火事や災害にあったり、またもしファシストの襲繋でもあったら、みな殺しになりますから、―つのホテルにいれておいたのはおかしいと思うのです。これはやはりスターリンの政策だったのでしょう。そこヘスパイをおいて、いつも目を光らして、誰と誰が会ったか、誰が面会にきたか、などを監視していたようです。この本には、そんなことをこまごまと書いてあります。スターリンは国際共産主義運動を支配する、自分のコントロール下におくことには強い関心があったけれど、国際的な共産主義運動が、統一して手を握って、強力になることは実は恐れていたのではないでしょうか。世界の至るところの共産党が本当の意味で強力になって、自分の言うことを聞かなくなることを恐れていたのだといえるでしょう。その点では、全く権力主義者だったのです。だから本当の意味でコミンテルンが強力になることを邪魔したのです。各国の共産党は優れたメンバーをモスクワに派遣していました。そういう連中が横の連絡を取ることにスターリンは目を光らせていた。だからそう言う連中の中で人民戦線や統一戦線の議論が沸騰してくることを、喜んではいなかったようです。
<コミンテルン第七回大会と人民戦線派>
国際共産主義運動では1928年のコミンテルン第六回大会がスターリンの指導下に極めてセクト的で独善的な方針を決めて以後、それへの反省から33年頃から国際的な統一戦線・人民戦線をつくろうという動きが盛り上がってきました。その大きなエレメントは、上記のスペインとフランスで人民戦線の政府が生まれた事、人民戦線運動が遂に政府を握ったということです。次に中国です。毛沢東や周恩来が、まだ権力を握っていない江西省などのソビエトで地方権力を握っていて、それに対して蒋介石が討伐をかけてきたために大迂回の長征戦術を取って、四川省、陝西省迄移動して延安中心のソビエトを樹立しました。この過程で各地の共産主義者を雪だるま式に糾合して、陝西省に都を構えたときには既に何十万の勢力になっていました。それが数百万の大衆に影響を与えるようになると蒋介石はこのソピエトにも討伐をかけたのですが、同時に日本軍が1931年以来満州事変をはじめ、37年からは日中戦争になって中国への全面侵略を始めるに至りました。こうなると蒋介石もやっばり抗日的になり、日本軍と闘わざるを得なくなります。蒋介石は民族主義者ですから、日本と闘う。共産軍も日本と闘う、敵を共にするものですから‘蔣介石と共産軍はなかよくなった訳ではないけれど、自然敵が共通ですから共産党だけを虐めると言うわけにはいかなくなり、こうして抗日統一戦線が結成されてきました。これはついに百万でなく、千万単位で中国人民の中に広がっていき、数億の人民を統一させる動きになって行きました。中国共産党の民族統一戦線という、非常に幅の広い、武装した統一戦線が生まれ、それはヨーロッパにも大きな影響を与えました。だから毛沢東・周恩米などのコミンテルンの中での発言力は強くなってきました。
それから東ヨーロッパ。ドイツと東ヨーロッパでは政治権力を握ると言うところまでは行きませんが、力強い反帝反独占の人民戦線が生まれてきました。その中でも一番強く盛り上がったのは、プルガリアです。ディミトロフは非常に優れたリーダーでした。ディミトロフはドイツの刑務所につながれていたのですが、反ヒトラー統一戦線の力で監駄から抜け出ることが出来たのです。イタリアではトリアッティ(別名エルコリ)。共産党は地下組織になっていましたが、反ファッショの運動か強かった。トリアッティは地方の共産党の握っていた飛行楊から飛行機でソ連に行き米していたといわれます。人民戦線や祖国戦線で武力をもっていた者はおおかったのです。中国共産党は紅軍を、フランスでは軍部内に人民戦線派が影響力を持っていた。スペインも軍隊と政権を握っていた。
1935年(昭和10年)コミンテルン第7回大会。ここで「人民戦線戦術」を国際的に承認しようと言うことになってきました。7回大会というのはいわば人民戦線大会で、人民戦線戦術を採用した大会となりました。主役はディミトロフ、トリアッティ、毛沢東、周恩来、トレーズ。このあたりが火をつけて、世界大会まで持って行くことに成功したのです。スターリンは直接にはこの動きにかんでいませんでした。スターリンは後から考えるとこの動きを自分の指導力にとって危険視していたのではないでしょうか。そこでディミトロフやトリアッティに接近するソ連や東ヨーロッパの共産党員に対して絶えずスパイをつけて目を光らせていたのです。
ところが、人民戦線派の影響力が急速に高まり広がって、7回大会を圧倒し「人民戦線戦術の諸問題」という画期的で統一的な決議を採択して終りました。ところがこれに対して、それは「ホテル・ルックス」の中に詳しく書いてあることなのですが、スターリンはこの大会にスパイを送り込んで、大会で誰が一番おしゃべりをしたか、一番熱心にディミトロフや周恩来やトリアッティを支持したか、それを克明に調べ上げていたのです。そしてこの大会がまだ終らない間から、その中のめぽしい者を、こっそり一人ふたりと引き抜いていたのです。そのことについてマイエンプルグはこう書いています。「あの大会が解き放った感激は、全ての参加者を酔わせて、実際の出来事を見えなくさせてしまった。あのときすでに、舞台の後ろでは、最初の粛清が進行していた—-そして会場に座って喝采していた人の多くが、わずか数ヵ月後にはもはや声を上げられぬ身となった。彼らは監獄へ、追放の地へ消えて行き「抹殺」されてしまったのである。」(「ホテル・ルックス」大島かおり訳、昌文社P219)
大会の終わり頃には、そのことにトリアッティやディミトロフなどみな気が付いていました。そこでこの大会は統一大会として画期的な人民戦線戦術を決定したのだけれども、実はこの大会そのものが人民戦線戦術を主張する広範な国際的共産主義者とスターリン派との闘争の場だったのです。スターリンは人民戦線派の台頭を抑えることに必至の努力をしました。最後にはトリアッティとディミトロフはどちらも夜逃げをするような形で、自分の国に帰って難を逃れます。しかし多くの各国の人民戦線派は多数がスターリンのいわゆる"粛清“の対象にされました。スターリンの「粛清」と言うのは、35年に始まってそのピークは37、38年で、いわゆる「スターリンの大粛清」となりました。これは何万人ではきかない、何十万人でもきかない。この「スターリンの大粛清」によって、殺されたり、牢屋に入れられたり、シペリヤ送りになったりした人は‘その家族達を含めておよそ何百万人とも言われています。まだこの調査は全部済んでいません。だってスターリン時代がほんとに終ってからまだ10年も経っていないでしょう。プレジネフの時代は、半分スターリンが生きていたようなもので、スターリン批判は出米なかったのです。プレジネフの時代が終って、アンドロポフの時代になって、はじめて公然とスターリン批判が出来るようになった。その前にフルシチョフの時代があり、スターリンを暴露し、批判したけれど、それは中途半端に打ち切られてしまいました。フルシチョフはスターリン派にひきずりおろされたのです。スターリン時代の検討とその犠牲者の調企はまだ本格的になされてはいないのです。
ゴルバチョフも先ずそこからは手をつけないでいるようです。ソ連の政治経済にまずい点のあることを先ず取り上げ、最後にはスターリンのイデオロギー批判に行かざるをえないでしょう。
現在でも部分的にはスターリンに触れていますが、本格的な批判まではいっていないようです。「個人崇拝」の「あの時代」とか「あの忌まわしい時代」とか「あのソ連の苦しい時代」とか言って、はっきりスターリンの時代とは言い切っていません。ほんとの意味でのスターリン主義の克服と言うことはまだはじまったばかりの状態にあるようです。しかしいずれそこに行かねば本格的な解決にはならないでしょう。
そこでスターリンの「大粛清」はコミンテルン7回大会に続く時期に始まって、37年の7月にピークに達した。38年以後は戦争準備が激しくなり、それと「粛清」が重なります。ソ連の一番暗い時代は35年から38年なんですが、これがスターリンの「大粛清」の戦前版です。そのために折角コミンテルン第七回大会が、人民戦線戦術という世界の人民運動に取ってもっとも重要なことを決めておきながら、スターリン主義がそれ以後はぴこることになって、それと対立をしたため、この戦術は各国共産党の基本方針には完全にならなかったのです。人民戦線戦術は各国共産党の物置きの中にしまいこまれてしまいました。ただヨーロッパの党だけは、ファシズムに支配されているもとで反ファッショの地下統一戦線、反ファッショ民族統一戦線という形で地下組織の中でかなり大きな影響力を持つようになります。それは祖国戦線から全人民的な反ファッショ解放運動に拡がって行きます。中国ではも毛沢東主義として。しかし中国の場合は非常に民族主義の色合いが濃い統一戦線、だから統一戦線戦術としての理論的深化は中国では余り行われず、むしろ民族主義に押し流されていったといえるでしょう。
<統一戦線と我々の任務>
そこで本当の意味で統一戦線戦術、人民戦線戦術をスターリン主義から離れてそれを克服しながら、社会運動・人民運動の中に真の統一を作り上げていく仕事は我々の課題となり、それは今や最大の課題となっているのです。もう私は余り仕事ができません。そこで、これは皆さん自身の課題になっているのだと言うことを今日の結論にしたいと思います。そう言う意味で上述の書物を良く読まれて統一戦線とはなにか、人民戦線とはなにか、それは如何なる形で実現しなければいけないか、ということを勉強するだけではなく、それを運動に適用し、拡大し、少しでも成功を遂げられる事を強く念願しています。
(以上は、1987年6月に開かれた労働胄年同盟準備会の大阪での合宿の講演に加箪したものである。)