【書評】『その後の福島──原発事故後を生きる人々』
(吉田千亜、2018年9月刊、人文書院。2200円+税)
福島第一原発事故から10年を経て、政府は「復興の加速化」という言葉を「早期帰還」や「福島再生」とセットで使用している。しかしこの状況を本書は、それは「実態としては原発事故の支援制度や賠償の終了も意味している」。そしてその中で、「『復興』、すなわち政府の思い描く原発事故の収束への流れの中で、被害を受けた一人ひとりが翻弄され続けてきた」と指摘する。
本書はその一人ひとりの声を届ける。例えば次のように。
「『私たちは原発事故後に、何度も、大きい選択、小さい選択を繰り返してきたけれど、選びたいと思う選択肢なんて、いつもなかった』と、ある女性は話している。原発事故の被害を受けた者としての実感であろう。それにもかかわらず、『でもあなたが選んだのでしょう』と無理解な言葉を投げつけられることもあったという」。
またこうも語る。
「『原発事故後の施策には、(判断を)待つことへの』支援がないんだよ」/原発避難の問題に悩む人に出会うたび、この言葉を思い出していた。まさにその通りだと思うことの繰り返しだったからだ。『待つ(=待機する)ことへの支援がない』ことは避難支持区域内避難者(強制避難者)に対してだけではなく、区域外避難者へも同じだった」。
すなわち「国の原発事故後の政策はいわば国の方針に従うか、それとも従わずに自力で問題を解決するかを迫るものである。そのうえ、進路の選択は期限を切って決めさせ、待ってはくれない」。「国は被害者に決めさせているのに、住民が自主的に選択したことに仕立てて、必要な施策を打ち切り、選択の責任を被害者に転嫁し、自らの責任を放棄する」のである。
それ故「被害者たちが追い込まれて仕方なく選択していることは、外からは見えにくい」という現実が生まれている。
そして同様のことは、「不安」、「不信」という言葉をめぐっても生じているが、その構造を本書は次のように解明する。。
安全だと散々言われていた原発が爆発し、放射性物質が原子炉から飛び出て放射線量が事故直後、数百倍、ひどいところでは数千、数万倍にまで上がった。ところがこれと同時に、これまでの公衆の被ばく線量限度の年間1ミリシーベルトという基準が、20倍の年間20ミリシーベルトまで引き上げられて、それ以下に地域は「安全」とされた。その後「除染」も行われたが、ホットスポットは点在し、生活環境の中にある。しかも廃炉作業、汚染水問題、使用済燃料プールの問題、デブリ(溶け落ちた核燃料)の問題等が山積していてその危険性や解決に要する期間などについては不確定なままの要素に満ちており、国・行政への「不信」は根強い。
「では、それを察した国はどうしたか。『不信』に基づいた『不安』の問題を、住民たちの『理解力』の問題にすり替えてしまった。つまり、人々は大したことのない被害に対して過剰に反応するほど、『勉強不足』である、ということだ。これは、『不信』を抱えた被害者を見下す態度といえる」。
こうして「国・行政側が、放射能汚染に対する住民感情として用いる『不安』という言葉は、『不安を抱える人の側の情報や性格に問題がある』というように、その責任を個人に転嫁する意味で使われている」。
あるいはまた「健康影響」ということについて、本書は次のように憂慮する。
「今後起こりうるのが『原発事故の健康影響はない』という主張が『差別』の語と一緒に語られることで、『差別はいけない』という一般的な感覚を持つ人の眼前に、正義の顔をして立ち現れることだ。/つまり、『差別』という言葉が用いられることによって、差別以外の被害すなわち健康影響の側面が隠され、それへの『不安』や『懸念』を示すのは『差別』を助長する『悪』であるという印象づけがなされる」。
しかし考えてみれば、「『不安』を差別の助長につなげる人々や、開き直りを続ける事故の加害者こそが、悪事を働いているのだ」という批判こそが言われなければならないが、こうした状況は本書の「3 除染の事実」、「4 賠償の実態」、「5 借上住宅の打ち切り」等の各章で具体的で切実な問題として述べられている。
しかもこのような状況のつくり上げに加担している住民の存在や自治体の対応という現実もまた深刻である。
ある母親は、「原発事故直後には触ったことのなかったSNSを、情報収集のために使い始めた。そして目についたのが、『放射脳』という言葉だった。それは、放射能汚染を気にする人たちを揶揄する表現だ。そんなひどいことを言う人がいる、しかもそれが、どうやら自分と同じ町の母親のようだと知ったときも、驚き、傷ついた」。
また別の主婦は、福島県郡山市の説明会場で、除染で出た土の処理について「埋めた場所を表示しないといけないのではないでしょうか」と質問した。ところが尋ね終わる前に「その男性職員は立ち上がって怒鳴った。/『どうしてあなたたちに教えなきゃいけないんですか!風評被害が出たら、どうするんですか。不法投棄されたらどうするんですか』」。その主婦は「呆気にとられ、思わず『すみません』と言って、その場を立ち去った」。
あるいは原発事故から7か月後の2011年10月、同じく福島県郡山市で町内会による除染事業の説明会で──この頃にはまだ「除染業務に従事する労働者の放射線障害防止のためのガイドライン」(2011年12月)は制定されていなかったが──ある女性が、「若いお母さんやお父さんなどは、できれば被ばくしてほしくないので、年配の方にお願いしたのですが・・・。たとえばお父さんがいなければ、お母さんは子どもをおんぶして除染作業をしなくてはならないかもしれませんよね・・・」という至極当然の質問をした。
しかしこのとき「会場内は『何を言っているんだ』とザワザワし始めた。/そのとき、壇上にいた市の女性職員がマイクを取り、そのざわめきを制するように言った。『長靴とね、マスクと、合羽を着ていたら、大丈夫なの!みんなでやるの!こんなに大変なときに、みんなで頑張らないでどうするの!』」。質問した女性が「呆気にとられていると、会場のあちらこちらから、パチパチと、拍手が湧いた」。
この様子を見ていた主婦は後になってこう語っている。
「私ね、放射能の怖さよりもずっと、こんな風に空気を変えていく人のほうが恐ろしかった。お国のために奉公しない国民は『非国民』だって言われた時代は、きっとこんな感じなんだろうって。そのショックが大きすぎて」。
かくして「原発事故のこと、放射の汚染のことを語れない、放射線による健康影響に対する不安や、原発避難で引き起こされた生活の苦しさについて語れない」という状況が広がっている。しかし「その語りにくさもまた、政府がつくり上げたものである」。
本書は最後にこう語る。
「同じ原発事故被害者であっても、一人ひとりの現在地は違う。『寄り添う』と言いながら、その一人ひとりの抱える現実に、国が真っ先に目をつぶった。国と東電の起こした原発事故が、被害者の『自己責任』にされつつある。明るい、希望のある復興の報道だけを見て、原発事故は過去の話と思わないでほしい、と願っている」。
一人ひとりの生活を引きずる重い書である。(R)