青年の旗 1985年4月1日 第98号
【主張】 臨教審・誰のための「教育改革」か
–教育権を奪う「自由化」論–
臨教審の動きがここにきてが然活発になってきている。第一部会が提唱した「教育の自由化」をめぐって、総会で決着をつけんと勢いこんでいるし、香山健二をはじめとする「京都座会」(座長・松下幸之助)派(独占資本の意図を露骨に代弁し、世論の切り崩しと力関係の瀬踏みを行う先兵として中曽根が期待をもって送りこんだグループ)は「臨教審ニュース」等あらゆるマスコミを動員して、論争のイニシアをとろうとしている。
設立当初、臨教審に村し「中曽根の点数かせぎ」「教育改革なぞ本気でやる気はない」と独占の意図を軽視し、委員構成や審議非公開(これ自身もおおいに批判すべきことだが)といった形式面での批判に終始し、独占資本が本気でやろうとしている「独占のための教育改革」の中味について有効な批判と運動を対置してこれなかった労働運動と野党諸党(共産党もこの域を出ていない)にとって、被らの積極攻勢が寝耳に水の奇襲のように見えてはしないだろうか。
「画一化反対」「個性尊重」「自由化」「多様化」と大衆うけのする耳ぎわりの良いスローガンに、むしろ改革の内容面において自己区別することさえ困難な者の多いことが、臨教審反対のたたかいを困難にしている主要な原因なのである。
従って、今求められていることは、「自由化」「「多様化」の反動性を正しく暴露し、臨教審答申への盛りこみを如何にして阻止するか、また労働者階級側の対案をいかに運動化していくかなのである。
<誰のための「自由化」か、何からの「自由化」か>
臨教審は、校内暴力や「いじめ」、登校拒否等の深刻な教育問題を解決するかのようなポースをとって登場したが、中曽根や「京都座会」派、つまり独占資本はそれらの問題を解決するつもりは毛頭ない。被らにとって国民の深刻な問題も単なる「きっかけ」であり、「表面的問題」(京都座会の『提言』より)にすぎないのである。彼らにとって重大なことは、二十一世紀というハイ・テク時代の国際競争にうち勝つため、財政に負担をかけずハイテク・エリートをいかに養成するか、そのための教育システムはどうあるべきかなのである。これこそ至上命令なのだ。
「自由化」論もこの基本路線に沿って提起されている。独占資本家は誰も彼もが高校・大学教育を求める、国家が平等にそれを保障しなければならない、等という「画一主義」に反対しているのであって、すべての学校で「日の丸」を掲げ「君が代」を歌う「画一主義」は求めこそすれ反対はしていないのだ。教育権の平等的保障は彼らにとって膨大な財政負担を要する桎梏なのである。
そこで御用学者の堺屋太一や渡部昇はこう言う。「今の教育問題は教師が親方日の丸意識に安住して腐敗している所から発生している。学校設立も自由にして、子どもと親に学校選択の自由を与えれば、悪い学校は人が集まらなくてつぶれる。そうすると教師も必死になって努力するはずだ。」「そもそも教育はサービスなのだから、親は金で教育を買うという考えに立つへきだ。いいものはいくら高くても手にしようとする。」と、まるで教育をブティックのブランド商品か何かのように扱っているのだ。
この論法が自由になるのは、資産家だけである。それも「いい学校」は人が集中する訳だから、資産のより大なる者がより優位なのだ。どの学校でも自由に選べるといいながら、金を持たない労働者にはそのような自由はないのである。その上、誰が「いい」「悪い」を決定するのか。選択側の親が決定する、つまり資産家が決定する、そうすると労働者階級が求める「平和と民主主義の砦」のような「いい学校」は捜しても見当らないのである。彼らのいう「良貨は悪貨を駆逐する」という思想の中味はここにあるのである。
独占資本が押し進めようとしている「教育改革」は「独占資本のための教育改革」であって、そのためにはこれまで日本資本主義発達の源動力と自負してきた公教育の広がりさえかなぐり捨て、国民の教育権を奪おうとしているのである。逆に言えば彼らはそこまで追いつめられているのだ。
教育矛盾の爆発で政府は失政を露呈し、独占資本は窮地に立っているのである。しかし労働側が正しくその点を攻撃し切れていないが故に「京都座会」派のような乱暴なむき出しの反撃を許しているのである。我々が今すベきことは、国民の教育権を徹底的に保障する政策を提起する中で、現下の教育問題を克服する運動を大衆的に組織することなのである。