【書評】 樋口英明『南海トラフ巨大地震でも原発は大丈夫と言う人々』
(2023年7月、旬報社、1,300円+税)
本書は、2014年5月、関西電力大飯原発3,4号機の運転差し止めを命じる判決を下した元福井地裁判事による原発訴訟の核心を衝く書である。(ただしこの後、執行停止のまま行われた名古屋高裁の控訴審で運転差し止め命令は取り消された。)
そこでは「問題の所在」は次のように述べられる。
「皆さんは、原発の運転差止裁判で何が争われていると思いますか?
多くの人は『住民側は、強い地震が原発を襲った場合に原発は耐えられないと主張し、電力会社側は、強い地震に原発は耐えられると主張し、裁判所はそのどちらの主張が正しいかを判断している』と思っていることでしょう。これは極めて正常な感覚だと思います」。
「ところが、現実の裁判の争点は、皆さんの正常な感覚とはかけ離れたところにあります。たとえば、私が担当した大飯原発の訴訟では、関西電力は1260ガルを超える地震に原発が耐えられないことを認めていたのです。それにもかかわらず、関西電力は『大飯原発の敷地に限っては基準地震動(註:設計の基準となる模擬計算で作られた地震の強さ)である700ガルを超えるような地震は来ません。ましてや1260ガルを超えるような地震(註:1260ガルは事故が起こる危険性を電力会社も認めざるを得ないクリフエッジ【崖っぷち】と言われる数値)は来ませんから安心して下さい』と主張していたのです」。
ガルとは、地震の揺れの加速度に用いる単位で、速度が毎秒1cmずつ速くなる加速状態が1ガルとされる。従って数値が大きいほど地震動も大きくなる。熊本地震では1580ガルが記録されている。車で例えるならば、シートベルトも締めず心構えもなく突然の急発進で加速度に見舞われるというのが大地震である。
つまり当事者双方とも、原発が強い地震に耐えられないことを認めている、ところが電力会社側は「原発敷地に限っては強い地震は来ませんから安心して下さい」と主張している。「この電力会社の主張を信用するか否かが原発差止裁判の本質なのです」と本書は、問題を明確にする。
本書はこの主張に対して、次のような極めてシンプルな理由から運転停止の判決を下した経緯を述べる(「樋口理論」と言われる)。
その論理とは、①原発の過酷事故のもたらす被害は極めて甚大で、広範囲の人格権侵害をもたらす。②それ故に原発には高度の安全性が要求される。③地震大国日本において原発に高度の安全性が要求されるということは原発に高度の耐震性が要求されるということにほかならない。④しかし、わが国の原発の耐震性は極めて低く、それを正当化できる科学的根拠はない。⑤よって、原発の運転は許されない。
これが極めて常識的で納得できる論理であることが理解できるであろう。
この理論に基づいて、2020年3月に住民側から、広島地裁に四国電力伊方原発の運転停止の仮処分が提起された。
この裁判では上記と同じく、「クリフエッジ855ガルを超える地震が来れば伊方原発は耐えられない」ことについては争いがない。しかし四国電力は「伊方原発の敷地には基準地震動である650ガルを超えるような地震は来ませんし、ましてやクリフエッジである855ガルを超えるような地震は来ませんから安心して下さい」、しかも、南海トラフ地震については伊方原発には181ガル(震度五弱相当──気象庁にによれば、棚から物が落ちることがある、稀に窓ガラスが割れて落ちることがある)の地震動しか来ない」と主張した。
これに対して住民側は、地震観測記録をあげて181ガルがいかに低水準の数値であるか──例えば2000年以降の20余年間で、伊方原発の基準地震動650ガルを超える地震は30回以上、181ガルを超える地震動を記録した地震は優に180回を超えていること等々を考えれば、南海トラフ地震による地震動が181ガルであると主張することは合理性に欠けると主張立証した。
しかし判決は、広島地裁も高裁も、この四国電力の言い分を採用して、住民側の申し立てを却下した。
特に広島高裁の決定は次のようなものであった。
「四国電力は規制基準の合理性及び適用の合理性を立証する必要はなく、原子力規制委員会の審査に合格していることさえ立証すれば足りる。他方、住民側は規制基準の不合理性及び適用の不合理性を立証しなければならないし、具体的危険性についても立証しなければならない」。
要するに電力会社は、原子力規制委員会の審査を通っているから問題はなく、危険というのであれば住民側が調査して証明しなさい、ということである。原子力問題や地震の専門家がいる国や電力会社に命じるのでではなく、素人集団の住民側に問題を押し付けた形の決定であると言わざるを得ない。まさしく広島高裁がどちらの側に立っているかを如実に示したものである。これについて本書は、「広島高裁決定は、公平性も、論理性も、リアリティーも、感性も、科学性も、責任感もないものでした」と手厳しく批判し、「この決定は、訴訟が正義を実現する場であるために、数十年にわたって全国の裁判官、弁護士、学者が積み重ねてきた努力を一夜にして台無しにするものである」とまで言い切る。
これについて本書は述べる。「『南海トラフ181ガル問題』をめぐる双方の主張については、その主張を理解するに当って何ら専門的知識を要しないのです」として、裁判所が国民の側に軸足を置くのか、国や大企業の側に軸足を置くのか、の問題であるとする。
その上で、下級審が上級審の判決の結論を推測して判決を書く忖度的な傾向や上級審の裁判官がいわゆる「五大法律事務所」と呼ばれる法律事務所(これらは東京電力から原発問題に関する弁護活動の依頼を受けて多額の利益を得ている)とつながりがあることなどの利権構造の一部が指摘される。
そしてこれに対して、「原発の問題は、本来、利権とか、忖度とか、圧力とか、しがらみとか、出世とか、左遷とかという問題とはかけ離れたところにある問題なのです。原発事故はわが国の崩壊に繋がるからです。わが国が崩壊すれば、現在の司法制度も、社会機構も人間関係もすべて崩壊するのです。原発の問題は他の全ての問題と次元を異にするものです。『私たちが生き続けることができるかどうか』の問題なのです」として、「裁判官は、『国策に関わる事項が、憲法と法律に照らして正当性があるのかどうかを判断しなさい』と憲法に命じられているのです」、「これが法の支配です」と裁判及び裁判官本来のあり方の再確認を強調する。骨のある裁判官の良心からの叫びの書である。(R)