<<主役は、金融・投機マネー>>
2/22、225銘柄で構成される日経平均株価が史上最高値を34年ぶりに更新した、バブル経済期の1989年12月29日につけた終値の最高値(3万8915円87銭)を、34年ぶりに上回った(3万9098円68銭)と、大手メディアは大騒ぎである。
2/26、週明け、東京株式市場は続伸し、135円03銭(0・35%)高い3万9233円71銭で取引を終え、さらに2/27、0.01%高の3万9239円52銭終値の史上最高値を3営業日連続で更新している。
しかし、この株価史上最高値更新は、極めて危ういものである。最高値を更新した前日の2/21、米ニューヨーク株式市場で、AI(ArtificialIntelligence 人工知能)関連の米半導体大手・エヌビディア(NVIDIA)の好決算(前四半期比で売上が 22% 増加、利益が 33% 増加)を受け、同社株価が一夜にして時価総額2,500億ドルという記録的な額に達し、アマゾンとアルファベット、イーロン・マスク氏の電気自動車メーカー・テスラを上回ったのである。
このNVIDIA株の上昇により、市場前取引の段階で他のチップメーカーの株価が上昇、アドバンスト・マイクロ・デバイセズ社は6%上昇、アプライド・マテリアルズ社は4%上昇、インテル社は2%以上上昇している。これが、ニューヨーク市場でのダウ工業株平均とS&P500指数が史上最高値につながり、このあわただしい動きが連鎖し、欧州株もAIフォリアとも言える恩恵を受け、Stoxx 600(ストックス欧州600指数)が史上最高値を更新、2/22、日本にも波及したわけである。
日本でも株価を押し上げたのは、半導体製造装置の東京エレクトロンとアドバンテスト、SCREENホールディングス、半導体設計会社を傘下に持つソフトバンクグループ、この4社で日経平均を約2300円押し上げているのが実態なのである。
そして押し上げた主役は、1ドル=150円台という日本株の「割安」さに付け込み、7週連続、日本株を買い越した海外の投機マネーである。東証プライム市場の売買代金の7割近くを占める海外マネーにとって、日本は、マネーゲームの格好の足場となり、1月月間の日本株現物の買越額は2兆693億円と昨年5月以来の高水準に達し、2月第1週(5-9日)の海外勢の買越額は3664億円と勢いを増している。日経平均の年初来上昇率は17%と、4%台の米S&P500種株価指数を大きく上回っている。海外の投機マネーが日本に狙いをつけたわけである。
<<米株高騰は「カジノ的」>>
世界の時価総額の伸びの52%が、NVIDIA関連の半導体銘柄が主導という異様な実態は、AI関連の集中リスク、AI関連株を中心としたバブル形成の危うさを浮き彫りにしているとも言えよう。
2/27、そうした警戒感が早くも浮上し、史上最高値を牽引してきた半導体株が売られ、東京エレクトロンが前営業日比580円(1・59%)安、レーザーテックが880円(2・15%)安を記録している。日経平均は年初から6千円弱上昇しているが、ほんの一握りの銘柄が市場を左右する、集中リスクの増大に直面しており、すでに強い警戒感と過熱感が漂い始めてもいるのである。
2/24、米著名投資家ウォーレン・バフェット氏率いる米投資会社バークシャー・ハザウェイは、恒例の「株主への手紙」を公表し、米国の株式相場の高騰は「カジノ的」であり、「カジノは多くの家庭に浸透し、人々を日々誘惑している。」と警鐘を鳴らし、より広く目配りをし、日本の5大商社の株の保有比率を9%にまで高めたと明らかにした。
この報道によって、三菱商事、三井物産、住友商事の株価が上場来の高値を記録している。投機マネーも、右往左往である。
日本が現在、世界の投機マネーにとって格好の投機対象となっているのは、日本経済の構造的改善・ファンダメンタルズが改善され、向上してきているからと言うものでは全くない。むしろ、逆に昨年の日本の名目国内総生産(GDP)は591兆円(約4兆2106億ドル)と景気後退に苦しむドイツにさえも抜かれて、世界第4位に後退しており、インフレで実質賃金は1996年比74.1万円も減少している。この苦境を脱出するには、金融緩和政策をやめるわけにはいかない、続けざるを得ない、マイナス金利は解除したとしても、米欧との金利差はこれからも続く、あるいは拡大さえするであろう、当然、円安も続行するであろう、日本株の「割安」も続く、絶好の投機対象として存在するであろうという期待感から、うまみのある投機対象となっているにすぎないのである。潮目が変われば、こうした投機マネーはいつでも一斉に引き上げるものである。
岸田首相は、株式市場最高値の更新について、「国内外のマーケット関係者が評価してくれていることは、心強く、力強さも感じている」と語っている(2/22)が、とんでもない見当違いである。
(生駒 敬)