【書評】『所有論』鷲田清一著(講談社:2024年1月30日)
福井 杉本達也
1 「水や空気のように」
東京新聞に「水が出ない―。水道料金の催促状は来ていたが、都の職員らからじかに「止めますよ」と言われたことはなかった。『生命に関わるのに。本当に止めるのか、とショックだった』。東京都板橋区の男性(64)は振り返る。」「都水道局が、料金滞納者への催告の仕方を変えたのは2022年度。それまで東京23区では、訪問による催告と徴収を民間に委託していたが、多摩地域と同様に郵送での催告に変更した。」「水道の停止件数は21年度の10万5000件から、22年度は18万件に増加。」したとの記事がある(2024.6.25)。能登半島地震では被災自治体で断水が続き、5月末でも「水が出ないので、家庭の食事も制約があります。食器を洗わないで済むようラップで包んだり、油を使ったメニューは避けたり。トイレや風呂が使えない人も多く、入浴支援も欠かせません。」との記事が目に入る(福井新聞:2024.5.29)。いかに人間の生活において水は大切かである。
一方、温室効果ガス(GHG)を削減するとして、鳴り物入りで導入された排出権(量)取引制度は「高度成長を追求しながらGHGを削減しようという虫のよい彌縫策の矛盾の集中的な現れで…大気という社会共通資本―代替不能な気候―を将来世代へ引き渡すこと…その社会共通資本を私的な利益のための投機の対象にする」と批判されている(赤木昭夫「気候売買は可能か―排出量取引の戎め」『世界』2008.9)。人間が生きるうえで絶対に必要な「空気」をも投機の対象としている。かつては「水や空気のように」ほとんど意識せずにタダで手に入るものと思われていた「水」や「空気」も「所有権」が設定され、「商品化」され、タダではなくなりつつある。
また、農業分野では2018年4月には「種子法」が廃止されてしまった。これまで、共有物とみなされてきた種子が「商品化」され、特定の民間企業の寡占状態となり、種子を含む資材価格は高騰する、海外資本の企業の参入を許せば遺伝子組み換えの農作物が食卓に並ぶことにもなる。視点は異なるが、最近のAIでは、「知的財産権」ということで、デザインなどの意匠は商品やサービスに使われることで権利侵害が生じる。一方、著作物も原則許諾なく学習できるが、創作的表現をそのまま出力する目的で学習させるのはダメだなどという所有権を巡る議論も盛んである(日経:2024.5.29)。
2 『私的所有権』の過剰という近代市民社会への疑問
鷲田は「近代社会になって『自由な主体』はなぜ『所有する主体』として規定されることになったのか」と問い、ロックは―「自然の諸物は共有物として与えられているが、人間は自らのうちに所有権の偉大なる基礎を持っていた」―と高らかに宣言した、「個人それぞれの身柄を『法』の下で保護するものとしてロックは市民社会を構想していた」と述べる。―「自由とは、ある人がそれに服する法の許す範囲内で、自分の身体[身柄]、行為、所有物(possessiones)、そしてその全固有権[所有権]を自らが好むままに処分し、処理し、しかも、その際に、他人の恣意的な意志に服従することなく、自分自身に従うことにあるのである」―(鷲田注:ガブリエル・マルセス『存在と所有・現存と不滅』)。
しかし、この高らかな宣言の「『(私的)所有権』という縛りが、人びとが長年にわたって積み上げてきた『良い習い』を潰えさせつつある」とし、「《所有[権]》という法的権利が過剰なまでに社会を覆うようになってきた」「『だから所有者はそれを意のままにしてよい』」という「『だから』の根拠は必ずしも自明ではない」と書く。
3 暴力による「占有」を<社会契約>による法律上の「所有権」にしたルソー
〈社会契約〉というかたちで近代市民社会の政治原理を最初に提示したのがルソーである。ルソーが社会構造の基底に据えるのは、自己以外の何ものにも服従しない「自由」であり、その条件は生存の維持(自己保存)に不可欠なものとしての「身体」と「財産」の保全であるとし、「一般意志」と呼ばれ、人びとがその共同生活のなかで交わす理性的な「約束」であり、「共同体の各構成員の権利と身柄すべての共同体への『全面的な譲渡』…各個人がその自由を護るために、総じてそれぞれの自由を譲渡する(=おのれの自由を差し出すべく強制される)という逆説である。」「共同体は…彼らにその合法的な占有を保証し、占有者は公共財の保管者とみなされ…彼らの与えただけのものを、すっかり手に入れたことになる」(ルソー『社会契約論』)。これは共同体に属する各個人が「自己自身との契約」をなすことであり、譲渡は放棄ではなく、最終的に何かを喪失することはないということである。
鷲田は「ルソーのいう自然状態においては、そもそも他者との関係は偶然的なものであって、共同性という契機はそこに内蔵されていない。」「共同体が『契約』の主体でありうるとすれば、諸個人が自然状態において潜在的にはすでに社会的・共同的な存在であったと想定するほかない」。ルソーの『社会契約』は「起源の偽造、つまり自然状態に『社会』を遡行的に投影する議論」であるとする。「《社会契約》とともに、『最初にとったものの権利[先占権]あるいは暴力の結果に他ならぬ占有』が『法律上の権限なくしては成り立ちえない所有権』へと変換されたのである」と書く。なお、ヘーゲルは所有論において、〈他〉に先行する〈自〉は存在しないとしている。
4 〈共有〉への指向
近代市民革命以降、国家・政府の役割として求められてきたのは私有財産の保護、その前提となる、《所有権》の確立であった。「しかしそれは、資本主義的な市場原理とあいまって、ほんらいは私的所有のなじまない領域にまで浸透し、過剰適用された。つまり「商品」という、売買や投機、譲渡やレンタルの対象となっていった。ひとは生活物資はいうにおよばず、知識や資格、交際や快楽も『買う』ことができると確信するようになった。もはやこの世界には商品化できないもの、消費の対象とならないものはない…遺伝子情報や臓器、…国籍さえ『買う』…お金さえあればじぶんもあそこまで行ける」という「軽い存在である。」市民的主体は「主体の内部がまるで鬆のように空洞化していく過程」でもある。「『自己所有』に見いだすこの過程は、いうまでもなく《共》(コモン)の瘦せ細る過程でもあった。」
そこで、鷲田は宇沢弘文が提唱した「社会的共通資本」という考えに依拠しつつ、「近代の市民社会がその基礎単位として前提にしている『自立する個人』は、いうまでもなく他者に依存することのない存在ではない。…分業と相互扶助の仕組みなしには個人の自立した生活もおよそありえない。…強大な権力も富も武器も持たない民が、いわば素手と丸腰で蓄え、伝承してきたのがまさにこの〈共〉(コモン)の力だということになる。」と述べる。
「『もつ』の対象は、孤立的なモノではないし、特定の人に匿し持たれるものではないし、だれかが貯め込むものでもない。モノはそれよりもむしろ、他者に分け与えたり、共有したり、譲り渡したりというぐあいに、人のあいだを巡るものである。そういう観点からあらためて《所有》という関係を考えなおそうと提案する」。