【書評】『賃金とは何か―職務給の蹉跌と所属給の呪縛』―濱口桂一郎著 朝日新書
福井 杉本達也
著者は「はじめに」において、「60年というのはほぼ二世代分に相当します。池田首相の職務給導入論を若年期にリアルタイムで聴いていた世代は、今ではすべて超高齢世代です。言い換えれば、岸田首相の職務給導入論をリアルタイムで聴いている現役世代にとって、かつて政府や経済界が職務給導入論を掲げていた時代というのは、お爺さんの思い出話のような歴史の彼方の時代になってしまっています。そのため、かつて職務給をめぐって政労使が侃々諤々論じ合った経験が全く伝わっておらず、なにやら新しげな商品を売りつけようという人事労務コンサルタントの商売ネタとして消費されるだけという状態が続いているのです」と書き始めている。50~60年前にさんざん議論されたことを、“なんでまた”という妙な既視感がある。
なぜ日本の賃金は上がらないのか。そもそも、2000年以降、ベースアップがなくなり、定期昇給のみになっている。賃金体系の大幅な改変でもない限り、労働組合員はおろか労働組合幹部も賃金体系についてまともな知識を持っているものは皆無であろう。
本書は著者の前著『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)で展開された賃金論を、歴史的に戦前期・戦時期・戦後期・高度成長期・安定成長期・低成長期と分けて解説している。こうした賃金論の歴史的背景は、現在の組合幹部にとっては全く思考の外にある。たぶん、言葉そのものが通訳不能となっている。おそらく今の組合幹部は本書で戦後期の賃金制度として1節を設けている「電産型賃金体系」も知らない。さらに第Ⅱ部の第1章でわざわざ「船員という例外」にふれている。「ジョブ型雇用社会では、労働組合は産業・職種別に結成され、産業レベルで団体交渉を行い、労働協約を締結します。そこで決められるのは企業を超えた職種や技能水準ごとの労働の価格であり、このジョブの値札を一斉に書き換える運動が団体交渉です。そういう労働組合、団体交渉、労働協約は、日本にはほとんど存在しません」と書き、それに続けて「ごく例外的には日本にもそういう労使関係が現実に存在している…船員の世界です」。海員組合は「船員個人加盟の産業別単一組織であり、今日に至るまで産業ㇾべル団体交渉により賃金を決定してきている日本でおそらく唯一の純粋ジョブ型労働組合である」と書いている。この章は他の章と比較すると全く異質であり、ほとんどの組合幹部は海員組合なるものも知らないであろうことを予想してわざわざ紹介している。
ところで、最近の経済情勢と関係するものに、「消費者目線のデフレ推進論」がある。「1990年代初頭を彩ったあるイデオロギーの影響を見ておく必要があります。それは、日本の最大の問題は物価が高すぎることであり、物価を下げることこそが労使双方にとって最重要課題である考え方です」「この消費者目線のデフレ推進論に…結成されたばかりの連合が見事に乗せられていきます」「『安い日本』は、労働者にとっては必ずしも嬉しいものではないのではないか、という(労働組合本来の)疑問を正面から呈することなく、デフレ推進論に押し流されていったように見えます」と書いている。「名目賃金どころか実質賃金も下がり続け…日本の経済力の劇的な収縮に大きく貢献」したと、その後の失われた30年の責任の一端を著者は鋭く指摘している。
著者も「これで終わりにしてしまったら、いくらなんでも希望がなさすぎるのではないか」として、日本における賃金引き上げの処方箋について、何点かを挙げている。「一般職種別賃銀と公契約法案」・「公契約条例」・「派遣労働者の労使協定方式による平均賃金」・「個別賃金要求」・「特定最低賃金」(産業別最低賃金)など、職種別の賃金システムを拡げていく手がかりを挙げているが、いずれも50~60年の既視感はある。
著者は最後に、“官製春闘”といわれるような「国家権力の力を借りなければ賃金を支えられないなどというのは労働組合として恥ずかしいことなのです」とし、北欧諸国の産業別労働組合の最近の事例を挙げ、「イーロン・マスク率いるテスラ社のスウェーデン工場で2023年11月、金属労組IFメタルが労働協約締結を拒否する同社に対して行ったストライキに、港湾労働者や郵便労働者などが同情スト(テスラ車だけ荷下ろし拒否、テスラ車のナンバープレートだけ配達拒否など)で協力した」と述べ、「公共性とは国家権力への依存ではなく、産業横断的な連帯にある」と締めくくっている。
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