日本構造改良派の軌跡

現代革命論としての構造改良論(その3)

 日本構造改良派の軌跡
                     勝部 元
  (初出 季刊構造改良 第5号 1971年10月5日)

  1 はしがき
  2 日本構改派登場の背景
  3 日本構改派の軌跡とその問題点   
  4 日本構改派の解体
  
 1 はしがき

 まず何度も予告しながら、私の構改論の本論たるべき「日本構改派の軌跡」が延引したことをおわびしたい。これは私自身の健康上の理由もさることながら、同時に、絶対不可欠の日本構改派各グループの政治担当者自身による総括が、まてどくらせどほとんどあらわれない、という事情によるものでもある。したがって私はこのほとんどなきに等しい資料にもとづきながら本稿をすすめざるをえない。
 総括のこのような不毛な現状は、まさしく日本構改派を名のる諸グループの政治的解体以降、今にいたるまでみられぬその戦闘的再建の方向の不在の悲しむべきしるしに外ならないだろう。とくに統社同中間派の「構革論総括と戦闘的再生への基本的方向」労働者同盟(準)という一文書は、本誌第三号巻頭言でふれられたように、一政治グループの政治運動の総括とはまったくいいがたいもので、「理論研究会」の討議資料かとみまちがうこの文書を小寺山康雄「構革派解体におけるわたし」(「現代の理論」一九七〇年十二月号)、大森誠人・松葉武雄著「反体制労働運動とは何か」(三一書房)などと併せよむとき、鳴物入りでさわがれた日本における構革派とは一体何であったのか、それはそもそもマルクス主義とどうかかわっていたのかを問わざるをえない。親しい友人であったこれらの統社同中間派の人々にたいして、わたくしが第一章で新左翼の青年たちに投げかけたと同じ問を投げかけずにはいられない衝動にかられる。もっとも「知的道徳的」にすぐれたマルクス主義である構革派を称するグループから、青年たちのもっとも幼稚な「武装蜂起論」への転回、最悪のトロツキズム(というよりその劇画)への接近、さらにはマルクス主義とまったくことなったアナルコ・サンジカリズムへの転落の理由も、これら青少年の教師たち–統社同中間派の指導者たちのさいきんのおどろくべき、あるいは悲しむべき総括によって十分理解できるようだ。そしてこのことこそもっとも雄弁に第一号でのわたくしの結論、「そして日本における『構造改革論』はまちがった勢力により、まちがった形で(あるいは、不十分なという方がよいかもしれぬ)とりあげられ、また徹頭徹尾まちがったやり方で批判され、さまざまな『意匠』の一つとして消えていった」を確証しているようである。
 現代マルクス主義派としての日本構改派—それははじめから存在していなかった。「現代革命論としての構造改良論」—-そんなものはもともとなかったのではないか。
 新左翼解体にひきつづく灰色のペシミズムの全般的支配と「社共統一の勝利」、「日共の変貌」というわたくしの予言したとおりの右傾化ムードの中で、日本構改派の軌跡をたどり、総括するという、このやりきれない仕事ととりくまなければならない。

2 日本構改派登場の背景

 日本構改派(中村丈夫氏のことばをつかうなら「日本型構革論」グループ)は、第一号ですでにのべたような国際的背景のもとで、イタリア共産党によって仕上げられた「社会主義へのイタリアの道」に触発され、その日本版として導入されたものであることはうたがいない。
 しかしそのさいに注目すべき日本的特徴としてつぎのことを指摘しておかねばならない。すなわち主体となるべき二大左翼政治組織、日本共産党と日本社会党の歴史的構造的特質にねざす特徴をあげねばならない。すなわちまず第一に日本共産党のもっていたぬきがたいスターリン主義的官僚主義的体質と理論的立ちおくれ—たとえばコミンテルン七回大会の反ファッショ統一戦線論や、人民民主主義革命論にたいする無理解(これは、裏返せば党と大衆団体間のスターリン的ベルト論と国際的にもとうに克服ずみの赤色労組主義)つまり反独占民主主義=「新しい民主主義」の意義と「新しい型の党」の無理解-があげられる。そこで日共における党内民主主義の欠如とスターリン主義的官僚主義の存在は、日共内部での公然たる討論と勢力拡大を不可能にし、形成された構改派グループに日共内部よりの少数派の離党という形をとらざるをえなくした。さらにこの場合戦略路線における社会主義革命論者と構改論者がむすびつき、分離は先ず戦略的差異にもとづいておこったことも顕著な特徴である。すなわち「五〇年徳田テーゼ」論争のさいのブル民革命派--徳田トロイカ論にたつ主流(所感)派プラス宮本、袴田派、植民地革命論派–神山派とことなる社会主義革命論派—春日(庄)亀山派らの三つの潮流のうち五〇-五一年の大分裂をへて六全協による主流派、国際派の合同指導部形成ののち、同じ国際派反対派中の宮本顕治氏らのヘゲモニーが確立し、民族・民主革命(新しい民主主義革命)戦略論に対立した社会主義革命論者として春日(庄)氏らの構改派が結集されてくるところに日本的特殊性があった、と思われる。
 第二に問題となるのは日本の社会民主主義とくに日本社会党の特異な性格である。労農派学者ブロック・議会主義的議員団・総評幹部より構成されるこの党は、一面近代的革命政党といいがたいおくれた側面–最大の野党でありながら党員数わずか三万で党としての下部組織が確立せず資金も選挙も大衆連動もすべてを労組組織=総評におぶさるという側面をもつと同時に、労働者階級を代表する政党として、欧米の社会民主主義(イタリアなど僅少の例外をのぞいて)が反ソ反共のアメリカ型社会民主主義(もっともよい例がバードゴーデスベルグ綱領下のドイツ社会民主党、ここではマルクス主義はおろか国有化スローガンさえ下されている)に退化しているときに、公然とマルクス主義を名のり、その内部に革命的左翼をもっている、ということである。のちにのべるようにこのゴチゴチのスターリン主義的日本共産党と、左翼社会民主主義的日本社会党の特殊な性格が、日本における構革派の誕生を特徴づけた。すなわち中共路線をより深めつつあった日共主流にたいする社会主義的反対派の離党という形で、または構改路線が日本社会党の大きな部分(主流を形成する部分)の公式路線として一時とりあげられたという特殊な過程をとらせたのである。そしてこの日共を離脱した構改派小グループの一部が、自らの主体と運動形成に努力するよりも、むしろ社会党内の構改派と癒着し、大衆運動的基盤をそこにもとめるという結果をもたらした理由もここにみったといえよう。
 第三には、六〇年初頭よりようやく明らかになりはじめた中ソ論争の影響も忘れてはならないだろう。六六年までますます中共よりにそのコースを定めていた宮本主流にたいする反発—日本構改派の一部のソ連依存の傾向もみのがすことはできない。

 3 日本構改派の軌跡とその問題点

 日本共産党内グループとして、日本構改派が形成されたのは、階級分析と現状認識において根本的に誤っていた日共の五一年綱領とその極左冒険主義的方針(いわゆる火焔ビン時代)によって、運動が完全に挫折し、党の孤立化が誰の眼にも明らかになった時点における北京主導の総括=五五年七月の六全協以後のことに属する。この六全協はまた主流派内の志田派と反主流派中の宮本・袴田派の密約による野合の結果であったといわれている(註1)。この六全協後、五八年秋の第七回大会より、六一年の第八回大会にいたるごく短期間の党内民主主義と自由な討論のカツコつき存在期を通じて構改論は主として党内の社会主義革命論者によって、現代先進資本主義国日本の革命戦略として研究され、となえられ始めた。それは「平和移行」と「社会主義への民主主義的道」を中核とするもので、党章草案に示される、宮本主流派の民・民革命論に鋭く対立するものであった。それは片山さとし、石堂清倫、増田格之肋氏ら都委員会の多数派と春日庄次郎、内藤知周、西川彦義、亀山幸三、内野壮児、原全五、山田六左衛門氏ら中央部の少数派、また春日、山田、原、西川氏らの影響下の関西地方とくに大阪地方と内藤、松江澄氏らの影響下の広島地方が拠点であった。それに五九年四月党中央により禁止された第一次「現代の理論」、講座「現代マルクス主義」などによる理論家(佐藤昇、井汲卓一、大橋周二、長州一二、今井則義、力石定一、小野義彦氏ら経済学者や石堂清倫、前野良氏)がさかんに構改論的理論とそれにもとづく日本の分析を唱え始めた(註2)。また山崎功、代久二、西川一郎氏らによってトリアソティ・グラムシらイタリアの新資料がどんどん日本に紹介され始めた。日本構改派の形成が主として綱領問題—-社会主義革命か民・民革命かという戦略論争を中心においていたが故に、この時代にさかんに行なわれた日本帝国主義復活論争(佐藤、力石、小野、勝部対日共主流)もせた形をかえた戦略論争として、この日本構改派形成の序曲とみなすこともできよう。

註1 片山さとし「日本共産党はどこへ行く」三一書房、二九八ページ
註2 上田耕一郎、不破哲三兄弟がこの形成期の構改グループと非常に近かったことは興味ふかい。当時のかれらの業績–上田耕一郎氏の 「戦後革命論争史」(大月書店)上・下や「大衆社会論とマルクス主義」(講座「現代マルクス主義」Ⅰ)不破哲三氏の 「社会主義への民主主義的な道」へ講座「現代マルクス主義」Ⅲ)は、今読みかえしてみても立派な業績たることはうたかいない。上田兄弟が、井汲、佐藤、内野、勝部らと決定的にはなれ、宮本主流の番頭化していったのは、帝国主義復活論争において官本主流派の代弁者として立ちあらわれた以後のことである。興味をもたれる方は、第二次「現代の理論」第二号、六四年第三号の拙稿「上田耕一郎」論–理論の変貌とその動機–を参照されたい。ただし編集委員の一人であったわたくしの小論は、どういうわけか、編集担当者の間では不評で(「下品である」!?由)、大いにその後書きまくろうと思った欠先に、この「人と思想」というコラムが廃止きれてしまい、わたくしとしては残念であった。少しくどいかもしれないがこの小論のむすびにつかった上田耕一郎氏自身の十五年前のことばを再録しておきたい。現在の幹部会員上田氏の心境はどうあれ、わたくしはこのことばは今なお正しさを失っていないと考える。
「(政策や理論の)こうした立ちおくれの原因が……善意と党派性の結果とはいえ、現実よりも公式や共産党の決定を重んじ、現実にたいする敏感な感覚と創造的な分析を欠き、副次的問題については精緻な論理を展開することはできてももっとも決定的な問題については追及をみずからあきらめがちだった隠病な御用学者的態度にあったことは否定できない。個人崇拝の問題はたんにスターリン個人にたいしての問題ではなく、日本ではもっと一般的に、共産党の指導的幹部および指導理論にたいする無批判的な追従の傾向としてとりあげられなければならない。したがってわれわれはまず・・・われわれ自身のなかに根ぶかく巣くっている事大主義の精算に真剣にとりくむ必要がある。この反省なしには、日本のマルクス主義はその前に提出されているあまりに多くの理論的課題を解決することにまたもや失敗するであろうし、たとえどんなに異論のある問題でも実践の過程で正しい解決を生み出していくという自主的な保障の体制を築きあげることもできないのではないだろうか」(上田耕一郎『戦後革命論争史』上、大月書店、四-五ページ)

 ここで注意しておかねばならないことは、日共よりの日本構改派の分離が、六〇年安保・三池闘争以後のことであった点であろう。
 経済不況も戟争もない時期に大衆的昂揚が生まれ、日本の各大都市がデモの大波でうずまり、激動が日をおうて激しく、幅広く、大衆の中に浸透していった六〇年安保闘争と、それをうけた三池大闘争にたいする日本構改派の寄与は如何なるものであったか。一言にしていうなれば、個々の非マルクス主義的理論家、たとえば清水幾太郎氏らに比し、決して芳ばしいものではなかった、といえよう。この新しい理論とグループは、突如としてまきおこった政治的激動に対処できるほど自らを整備していなかったし、また日共という枠に妨げられ、有効な実践的処方箋をさし示すことができなかった。こうして「行動の指針」としての新「理論」を実証するさいしょの機会はむなしく失われた。「前衛喪失」が誰の眼にも明らかになったこの時期に、最大の障害としての日本共産党の「鉄の枠」の存在があったとするならば、大衆指導と実践の障害というこの時点で日本構改派の日共よりの分離が何故おこらなかったのか。浅田光輝民らの日本構改派にたいする鋭い問題提起はまずこの点にしぼられる。
 ところで現実の分離は、綱領問題をめぐって六一年七月の第八回党大会直前に行なわれた。春日氏「日本共産党を離れるにあたっての声明」はそれをつぎのように明らかにしている。宮本氏ら党主流幹部は「党内外の批判反対を押えるために党内民主主義を破壊し、いま第八回党大会を前にして、自ら規約をふみにじり、反対意見の代議員の進出を組織的に排除し、少数意見の中央委員の意見書も発表させず、代議員の獲得も妨げ、一方的なやり方で大会を開こうとしています……こういう状態は党内民主主義に依拠して原則的な党内闘争によって事態を改善してゆく余地はほとんどありません。」「分派は五〇年の経験が示すように非生産的で、不毛です。」「原則的立場を堅持して破局の来るのをまつか……」、それともー「わたくしは熟慮の結果離党の道を選びました」 (一九六一年七月七日)。
 中央統制委員会議長春日庄次郎氏につづき七月十四日には中央委員山田六左衛門、西川彦義、亀山幸三、内藤知周、中央委員候補内野壮児、原全五氏らが同じく離党声明を出した。旧都委、大阪その他の地方の反主流派分子がこれにつづき春日氏や党員文学者グループが「正規の第八回大会とは断じて認めない」とした第八回大会はこれらすべての離党者を反党分子として除名処分に付した。
 しかし同時にここに第二の問題点が出てくる。片山さとし氏や増田格之助氏のいうように第七回大会後党中央の集中攻撃が都委員会にかけられたとき、中央部の社会主義革命派は十分援護せず、各個撃破にまかされてしまった。こういう形で宮本スターリン主義(註3)に対し、批判派は党内で有効な政治的反対闘争を組織できなかった (片山、前掲二七〇~三〇七ページ)。こうした政治的反対闘争の政治的拙劣さと加えて、宮本主流の党内民主主義の侵犯、自由な討論の抑圧が如何に巨大であろうと第八回大会を前にして 「離党」という形式をとったことの可否である。第八回大会を「正規のものとは認めない」という旗印の下に、それより以外に道はないとされたこの道以外に方法はなかったのであろうか。O氏やわたくしは、この離党形式に反対を唱え、第八回大会で除名をかけて闘うことを離党派主脳部にといたが、時すでにおそかった。

註3 スターリンはレーニン死後、ジノヴィエフ、カーメネフと結んでトロツキーを追放し、ついでブハーリンと結んでジノヴィエフ、カーメネフを倒し、さいごにブハーリン自身をも粛清し、権力サークルを自己に忠実な派閥でかためた。のちに自己の愛弟子キーロフがレニングラードによって、大衆的支持の下にスターリンに反抗の気配を示すと秘密警察の手でキーロフを暗殺し、これをスパイの手によるものとして、例の血の大粛清裁判を行ない、党内やコミンテルン内のめぼしい革命家を全部抹殺した。
 宮本主流派は、六全協直後に志田重男の逃亡・除名によって権力を握ると第八回大会で春日氏ら構改派を、一九六四年の第九回大会では志賀、鈴木氏らソ連派を、さらに一九六六年第十回大会では西沢(隆二)、安西氏ら中共派を追放し、主として、知識人出身の人々(岡、西沢(富)、米原、蔵原、上田兄弟ら)からなる自己に忠実な派閥で中心をかため、今日にいたっている。

 離党したグループは「一、党外において党の革新のためにたたかうこと。二、大衆運動のなかにマルクス・レーニン主義の指導性をうち立てるために協力すること。三、ひろく革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進するために力をつくすこと。四、日本の内外情勢、大衆運動の諸経験を分析し、社会主義への日本の道を明らかにするとともに、マルクス・レーニン主義の自由な研究の舞台をつくり、その創造的発展をはかるために奮闘すること。」(春日庄次郎「日本共産党を離れるにあたっての声明」『社会主義への日本の道』新しい時代杜、二〇〇ページ)という活動目標の下に「新しい運動」をすすめようとする。そのために八月二八日に「新しい路線」という機関紙が発行され始める。新しい運動は同年秋に「社会主義革新運動」の名前の下に結成される。しかしその内部には、松葉武雄氏によると、三つの違った指向グループがあらわれていた。「一つは西川内藤氏らに代表される、みずからを直線的に単一前衛党の主体たらしめようとする『党建設派』グループ。二つは元日共東京都委員会メンバーを主体とする『反体制運動内部の反官僚主義、民主化』『共産主義者の思想確立運動』コース、『反官僚主義派』グループ。いま一つは民主主義革新・構造改革の政治路線の実践をめぎす『構革派』グループである」(『構造改革』一九六二、十二号、十三ページ)
 あるいは片山さとし氏によると、「この派は、六全協後の民主的潮流、それに社会主義革命論を中心にする党内批判派の主流であったし、代々木から別れた最大の勢力でもあって、代々木の全面的批判による社会主義革新の本命らしい要素をいくらかもっていた。しかし、この派は下手くその民主主義即下手くそな官僚主義という性格のもので、代々木とわかれる主因も官僚主義・民主主義の問題におかず綱領問題においたし、その官僚主義批判はよわく、民主主義の理解は底があさく、じっさいには代々木の派閥的官僚主義的な体質からほとんど抜けきっていなかった。それで、官僚主義的代々木にさえはるかにおよばぬ無能さを露呈し、大きな組織的統一と思想的統一を民主的にやる能力をぜんぜんもたず、のっけから組織重視の官僚主義のつよい結党(主義)派と戦術重視の自由主義的傾向のつよい『構改派』に分裂し、分裂に分裂をかさねて、なすこともなく衰退していった。『社会主義革新運動』などというのは、まったくの名前だおれであったし、その名に値しなかった。」(『日本共産党はどこへ行く』三一書房、一八七ページ)

 いづれにせよその内部に異質なものをふくんで発足した社会主義革新運動は、翌六二年五月、たちまち分裂にみまわれる。直接の契機は「東京における共産主義青年同盟の一方的発足と社革東京都委員会の前衛党建設の方向決定、および社革第三回全国委員会における参議院選に独自候補の多数決定など一方的な固定化の進行」(松葉、前掲)によって六二年五月二、三日の結成総会をへて社革より統一社会主義同盟が分離・独立する。春日庄次郎、山田六左衛門、原全五、村田恭雄、大森誠人、安東仁兵衛氏ら、大阪派の政治家とかなり多数の知識人がここに結集し、結成総会時の同盟参加人員は六〇九名(「構造改革」六二年五月上旬号)といわれた。こうして社革と統杜同、この二つの日本構改派グループが生まれたわけである。(両者ともその最盛期においてさえ七〇〇~八〇〇名の小グループを出なかった。)今からふりかえってみて、この分裂が正しかったかどうか。ここに、第三番目の問題点がある。
 「党内外にひろく革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進するために力をつくす」という当初の目標とは逆に近親憎悪と細胞分裂という反対派小グループの宿命の第一歩をここにみることができるのではなかろうか。
 他方、日本社会党においても、この時期にマルクス主義の国際的潮流と「現代マルクス主義」派知識人の触発もあって「構造改革派」といわれる派閥が形成された。教条主義的旧左社綱領をおしすすめようとする社会主義協会派(向坂派)に対立して、江田=成田ラインとその若手たる加藤宣幸、森永栄悦、貴島正道氏らを中心とする構改派新主流の形成である。それは一九六〇年九月の中央委員会声明、十月の臨時大会、つづく六一年三月の党大会における構改コースの勝利という道を辿り、一躍ジャーナリズムや一部労組活動家の注目するところとなった。その構改コースの内容は「次の三つのスローガンに集約されているとみていい。すなわち、①生活の向上(貧困と失業の解消、二重構造の打破)②反独占(独占の権力とその活動の制限)③中立(貿易構造の変革)これである。そして、このスローガンのもとに闘われる闘争の性格については、『この闘いそのものは資本主義的生産関係の一掃を目指すものではなく、その任務は資本主義のワク内で実現しうるものである。これが実現されていく過程で独占資本の経済的支配を弱め、その基礎をほりくずすものである』(加藤宣幸)といい、また、社会主義政権への移行については、『護憲民主中立の過渡的政府』がそれへの媒介項として構想されている。」(池山重朗著『現代革命論争』青木書店、二一〇ページ)

 のちに社会党は、綱領問題をめぐって全党をあげての構革論争を行ない、成田氏が脱落して、佐々木・成田ラインを構成し、若手構改派は社会主義運動研究会に結集する。このような社会党の構革派形成発展にたいし、理論家集団とくに佐藤昇氏の果たした役割は大きい。
 日本構改派中とりわけ統社同が、自己独自の運動の形式よりも、社会党構改派とその運動の中に大衆的基盤をもとめ、それと癒着(「社会党なだれこみ」方式)したのは当然であろう。すなわち 「みずから独自的行動・実践・活動をおこないつつ、社会党、とくにその構造改革推進勢力と協力し、相互交流をはかる、……労働組合、大衆団体レベルでの構革路線にもとづく左派集団のなかで、推進的中核的任務をはたしながら、日本の運動における正しい統一勢力の基盤をきずくものとして設定されなければならないだろう。」(松葉武雄『構造改革』一九六二年十二月、十一号二一ページ)
 大衆的基盤をほとんどもたず、綱領主義で小さく固った社革(機関紙「新しい路線」、機関紙「マルクス主義」)にくらべ、若干の大衆的基礎(大阪の労働組合運動と平和運動)にもっていった統社同(はじめに機関紙「構造改革」のちに機関紙「平和と社会主義」)は、まず、平和運動において、社会党・総評と癒着し、若干の知的道徳的へゲモニーを発揮することによって、一定の成果をあげた。すなわち、日共系の人々がますます中共よりにかたむき、「平和の敵を明らかにする」ことを強調して、「あらゆる核実験反対」のスローガンを下し、また「部分核停反対」というように日本の現状と大衆感情から遊離した方向に原水禁運動を指導しようとしたことにたいして、理論的・実践的に正しい方針を対置し、一定の成果を収めることができた。(六二年十二月の広島大会、六三年八月の第九回原水禁大会)
 また炭労政策転換闘争や日教組、主として大教組の闘争に一定の影響力を与えることに成功した。しかしそれとともに「人類的理念」とか「複数前衛」または「機能前衛」といったわたくしには理解できぬ怪しげな概念や理論もまた現代マルクス主義の精髄としてさかんにおう歌されたことも忘られてはなるまい。しかし池田内閣の所得倍増、高度成長政策の展開、「マイホーム」主義のまんえんといった日本独占資本主義の高度化・成熟とともにちっぽけな日本構改派の勢力はますます分散し、影響力も衰えてくる。とりわけ社会党内の江田ヴィジョンの敗北と江田・成田ラインの崩壊、構改派が主流派よりはずされ、江田派が「構改派」のメッキをはがし、「政策討論不在の派閥抗争に徹した」という二七回大会の状況を前に、すべてのオプティミズムは消えうせ、自己閉そく的セクトや、理論活動を主とする評論家、理論家集団と化してゆく。(主として統社同と密接な関係をもつ第二次「現代の理論」が六四年一月に発刊され、今日にいたっている。)日本構改派を名のる社革、統社同両派のジリ貧状態がつづき消滅の一歩手前においこまれつつあったとき、必然的に生まれた動向が六六年初頭より顕著になった 「総結集問題」である。それは第十回大会で除名され、一九六四年七月十五目より機関紙を発行しはじめ、十二月一日には組織的結集をはかった志賀、鈴木、神山、中野氏ら(註4)「日本のこえ」その他小グループとの合同問題である。

 註4 もっとも中野重治、神山茂夫氏は、一九六七年十月十日の声明で「その内部生活に民主主義は絶無となり、批判・自己批判は無視され、その組織的性格は、出発当初とちがい個人の私党的なものに転化している」 という理由で、志賀氏の「私党的性格」をもつ「日本のこえ」と断絶している。

 ところでこの日本構改派の軌跡の第三の山場にはいる前に、一九六六年一月号の 「新世界」誌上で行なわれた中村丈夫、藻谷小一郎氏の批判的論旨にふれておこう。それはこのときいちはやく日本型構革論の本質を見きわめ痛烈な批判を行なったという点において、またその論旨の大筋において筆者が一致するという意味においてである。(「構造改革論」の構造改革および中村丈夫・安東仁兵衛氏の「構造改革派組織論の再検討」)
 一九六六年一月の時点で中村・藻谷論文はいう。「『構造改革』とは、イタリア共産党の場合は、反独占の階級同盟、統一戦線、ひいては民主主義的多数派および権力ブロックを形成するためのもっとも重要な政策、闘争形態のひとつであり、通常の要求獲得をこえて体制変革に転化すべき、生産関係を中心とする改良を内容としていた。この改良は、民主主義の徹底をつうじて社会主義に前進する媒介項、結節点として位置づけられていた。『日本型構革論』は、ひとくちにいって、この構造改革を革命路線全体の論理とそれを推進する主体形成の論理からきりはなし、民主主義的介入一般の可能性を安易に強調して、『構造改革主義』のイデオロギーにまで昇華していったと考えられる」(中村丈夫・藻谷小一郎「『構造改革論』の構造改革」『新世界』一九六六年一月、十五号五五ページ)
 問題は「独占の側が資本主義の成熟に対応して、ブルジョア的構造改良を推進し、国家独占的統制を全面的に強化してきたのに対して、わが方が労働者を中心とする多様な要求闘争の発展と構造的闘争の結合によって対決できるか否かである」(中村・藻谷、前掲論文五六ページ)
 そして戦後の日本の労働運動の基本的動向、その危機との闘いにおいて「日本型構革論」が積極的役割を果たしえなかった理由としてつぎのようにいう。「反対派自体に、民主主義・社会主義路線とこの任務を担う新しい党にたいする理論的一致にもとづく統一がなく、したがって党内工作の説得力・浸透力を欠いていた。派閥対派閥では主流派の権威に抗し得なかったのはむしろ当然であった。またかかる反対派に、党が頑固な派閥に掌握された場合におこなうべき、きわめて高度な政治工作を求むべくもなかった。したがって反対派は、党規約に規定された党内闘争を形のごとくにおこない、形のごとくに破れ去ったのである。規約外の公然非公然の政治工作では、むしろ主流派の方がすぐれていたのである」(中村・藻谷、前掲五九ページ)
 それは情勢と運動の把握—-「具体的なものを具体的に分析して行動方針を見出すこと」—-に失敗した。「反対派理論家集団は、この形式的党内闘争に際し反対派幹部に対して、概して中央委員会その他の機関内の論争のために党綱領に関する批判的構想案を供給するにとどまり、すすんで情勢と運動の大局的分析による当面の基本方針の確立への寄与は意図しなかった。…‥・理論家集団は、自己をそれ自体として限定し、あえて真の有機的知識人としての責任を果たそうとはしなかった。また政治家集団の側は、理論家集団を統制し、両者のあいだに有機的統一-本質的な党壬を形成する能力と実質を創りだせなかった。」(前掲、五九ページ)
 このような出発点をもった「日本型構革論」は、「構造改良を民主主義・社会主義の構成要素としてとらえ、これを中間項とする戦略路線の総合的発展を推進するかわりに、構造改良を部分的に切りはなして拡大解釈し自己目的化したことである。
 したがって、ありふれた日常要求闘争の革新と強化を基礎として構造闘争を発展させるなどという発想は、『日本型構革論』からみれば、興味も価値もみとめられなかった。なにか目あたらしい新分野の開拓が『理論の切り売り』のために必要だった。こうして構造への介入をそれ自体として推進することによって構造的闘争を実現しょうという、子供じみた衝動のとりことなり、たびかさなる失敗と非難攻撃によって政策提起から運動論へ組織論へと転変した。……要するに『日本型構革論』 の諸理論は、一貫性がなく有機的統一がない。このような理論的分散傾向は、『日本型構革論』が内にもつ主体の喪失、労働者党の問題の放棄こそ決定的原因であることは、ほぼ理解されることと思う。以上のすべてを通じて、『日本型構革論』の本質は、民主主義・社会主義の道の解体であり、日和見主義的修正であることはいまや明らかであろう。」(前掲六〇ページ)
 そして、その理論内容・構造の欠陥として、客観的分析の方法論や古典の引証から無媒介に現実の革命的戦略論をくみたてたところにあるという。そこには民主主義・社会主義革命の政治理論がなく、また革命の主体形成の理論がなかった。また民主主義的介入から構造改革への可能性一般の論証にとどまり、政策提起に終る理論は革命理論とはなりえない、としてつぎの三点をあげる。①国家の二重性(公的機能と政治的機能)から労働者階級の介入の可能性をひきだす点(すなわち公的機能の民主主義的利用の安易な強調でなく、支配階級の国家的ヘゲモニーにたいするねばり強い「陣地戦」の強調の必要)②一般民主主義の評価の強調はあっても革命の政治理論としての民主主義論をかく点(「新しい型の民主主義」と工場、自治体内でのプロレタリア的ヘゲモニー装置の不断の建設の必要性)③構造改革および民主主義的経済計画化がヴィジョン、プランに止る点(プランニングには同時に必ずそれを実現するのにどれだけのエネルギー、武器装置を要するか、どのような阻害条件が横たわっているかを対象としなければならない)。中村氏はまた別の討論で、複数前衛政党論をとなえる安東仁兵衛氏にたいし、それは消極的現状肯定になるのではないかと批判し、つぎのように総括している。「構革論は唯一の現代革命論あるいは先進国革命論として、あれほど期待を集めて登場しながら、実践的力量に転化できなかった。構革論のその多産性を多くの階級的活動家たちに実感させえなかったといいたい。それは、主として、構革という要素を民主主義・社会主義革命の全体の論理と、それを推進する主体形成の論理から切り離して、ストラクチエラル・リフォーミズム、つまり、資本主義の現代的な構造変化への対応を含みながら、やはり改良主義的な偏向に陥ったと考えるわけです。」(対談中村丈夫・安東仁兵衛「構造改革派組織論の再検討」『現代の理論』六七年二月号二一ページ)
 この批判的論文の結論として中村・藻谷氏はいう。「『日本型構革論』は死して生きなくてはならない。生命がけの飛躍がせまられている。」(前掲「新世界」論文六五ページ)と。主体–新しい前衛党形成への努力の欠如と現代社会主義革命論としての構革理論の欠如、中村氏の指摘したこの二点について、わたくしもまた賛成であり、ここに日本構改派の基本的欠陥があったと思う。

 4 日本構改派の解体

 日本構改派が 「死して生きる」べき機会が六六年初頭におとずれる。積極的な要因からではなく、しだいにじり貧におちいり、このままでは消滅の危機にさらされた、各セクトの「総結集」の形で。
 「日本のこえ」志賀義雄氏の提唱にかかるこの総結集は、かなり長期のすったもんだの末、六七年十二月、かろうじて実現した。社革の主流(中村氏らは社会主義労働者同盟を結成して、この総結集に加わらない)、六一年春に社会主義統一有志会を結成していた、春日庄次郎、原全五の諸氏、及びいいだもも氏など非「構改派」を自称するもと日共官僚理論家をふくむ「日本の声」の一部(肝心の提唱者志賀氏らは、この総結集に加わらなかった。けだし六六年二月~四月、宮本代表団の訪中と毛沢東との決裂によって「自主独立」コースにきりかえた日共の情勢とこの情勢をみこして政策を変化させたモスクワよりの指示に従ったものであろう。因みに日・ソ共産党の接近はそのご七一年において実現した)によってである。前衛党アレルギーの統社同ははじめからこの総結集には冷淡だった。
 こうして六七年十二月共産主義労働者党が誕生した。しかし、それは「虚妄の『正統主義』を基調に派閥連合を再編成しようとする不毛の試み」(中村、前掲)といわれてもしかたないような弱い組織的側面と理論的弱点-社会主義革命論としての構造改良論を真正面からかかげない~をもつものであった。
 そうこうするうちに、六七年十・八羽田闘争、フランスの五月、チェコ事件と相ついで国内外に大激動があらわれ、それは六八年~六九年の全国をゆるがす大学闘争と新左翼の大量な進出にひきつがれる。そして統社同も、共労党も社労学同でさえその傘下の学生大衆(フロント、プロ学同、等)につきあげられ、解体してゆく。これらの学生青年たちはやがてマルクス主義を捨て去ってエセ・トロツキズム、アナルコ・サンジカリズムの小ブル急進主義にとらえられてしまう。もともとマルクス主義の原理的把握もまして真の構造改良論もなかったこれら小ブル学生指導者が、心情的なラジカリズムのまま内ゲバのテロリズムと大げさな権力への武装闘争論にとらえられ、学園闘争より権力闘争へと暴発し玉砕してしまったのは必然的であった。
 この学生新左翼の「政治的熱病」の「まんえん」によって、統社同、共労党の指導部はのっとられ、構改派は追放された。かくて日本構改派は、完全に瓦解してしまったのである。社会党でもまた情勢は同様だった。江田派は、構造改良をすてて純粋社民として現代革新研究会を結成し、社青同の青年たちの一部は新左翼へ突進し、また若手党官僚もまた、社会党内の真の革新グループ・構改派たる自己に自信を喪失し、日本構改派はここでもまた、解体蒸発直前の情況にある。(「現代社会主義」誌の廃刊、社連研の停滞)
 もっともすぐれた先進国現代革命論者たるべき日本構改派が、かくもバカバカしい即時武装蜂起をとなえるアナルコ・サンジカリズム的新左翼にかんたんにのっとられ、解体させられてしまったのは何故か。ここにさいごの問題点がある。
 それはさきに指摘した日本構改派自体の体質と理論的弱体に求められねばならないだろう。もっとも、さきにのべたように、いち早く日本型構革論の欠陥を指摘した中村丈夫氏自身もまた、この激浪にまきこまれてしまったのは遺憾であるが。ことほどさように学生青年大衆をとらえた激動が大きかったし、指導者たちが、この「狂気」の激流におし流されてしまった、といえるのであろう。ファノン・ドプレ、マルクーゼに理論的源流をもつ世界の学生反乱も現在ではフランス、西ドイツ、アメリカともに台風一過の如き沈滞と分裂の状況にあるといわれる。わが国の場合新左翼は欧米のようなはっきりした理論的確信よりもよりムード的心情的なものにもとづくため、また告発された問題が何一つ片づいていないという理由によって、時折のけいれん的大衆的「暴発」や小グループの「玉砕暴発」はあるかも知れないが、たとえばロシア・ナロードニキの歴史の先例にあるとおり、ますます空しい「個人」テロリズムの徒花と化し、七〇年代日本独占にとって、体制反動化にもっとも好都合な口実・契機としてつかわれることもあるであろうが(註5)、全体として新左翼運動の敗北は明白であろう。

註5 小寺山康雄氏の 「構革派解体におけるわたしの責任」(「現代の理論」七〇年十二月号)について一言ふれておきたい。いくら年少であるとはいえ、またいくら小グループたりとはいえ、政治指導者の「責任」とは政治についてであって、それは自己の選択により生まれる「結果にたいする責任」である。この政治学のいわばABCが、小寺山君にはわかっていないらしい。「手をよごす」とか「よごさない」とかいった心情的あるいは宗教的(「汝ら罪なきものこの女をうて!」)レベルの問題とはちがうのだ。事実をまず卒直に事実としてみとめ、敗北を敗北として客観的に承認し、そのよってきたるゆえんを冷静に追求することである。新左翼の青年の(全部とはいわぬが)「薄弱な『過保護』の精神は、『挫折』すべき骨さえもっていないのではないかとうたがわれているわけだ」という本誌創刊号の私の感嘆にたいして、かれはかみついているが、君は一体全体の状況をどう考えているのか。なるほどごく一部には地にひそみ闘いを継続する部分はあるだろうが全体としてどうなのか。闘いが一見後退したかにみえながらじつは実力が貯えられており勝っているのだ、とでもいいたいのかーそれならば日共がこれまで大きな政治的転換=敗北期にいつも行なってきた「勝利」の総括、かれらが歌ってきた「ひかれものの小うた」の同類でしかないだろう。もっと冷静に客観的に自己と自己の政治的責任をみつめてほしい。残念ながらわたくしはこの小論からは構革論の継承と革新につながるような芽を見出すことができなかった。新左翼と同類の—あるいは中間派的—心情トロとはぎれの悪い自己弁護しか見出しえなかった。「内部からつきあげてくるわたし自身への批判」が、このような薄っペらなものでしかないなら、つまり、われわれの構改理論にこれこれの部分がかけていた、グラムシをほりかえして新テーゼー—「工場評議会」を見出し、これだ、これが欠けていたからわれわれは負けたのだ、という姿勢は、かつて経験した一つのパロディを想起させる。すなわち、五一年夏コミンフォルムの所感派支持発表で国際派の人々がすっかりまいっていたとき五〇年金学連の指導者の一人が誇らかに叫んだ。「もう安心しろ、もう大丈夫だ、おれたちがまちがい、失敗したことの理論的証明ができた!」と。どうも私には、中間派の「責任」や「総括」がこのパロディと二重うつしになってみえる。しかしこれらのくわしい検討は次号にゆずろう。マルクス主義にとって、理論はどこまでも行動の指針である。そして政治指導者はこの実践・行動に責任を負うものである。だから政治指導者の自己批判や責任は、心情的なもの—「政治が問題になるとき小ブル的倫理をもってする」最悪の政治的誤り(レーニン)—であってはならないし、また抽象的な学界討論的なものであってもならない。理論と現実の運動との間には、一定の媒介項があるのであり、これが組織なのである。構改派がその政治集団を「理論の切りうり」屋として自己規定せぬ限りこのような理論研究会的総括は政治的総括にはならないと思う。
 こうして日本構改派は解体し「死んで」しまったのである。読者の便宜のため日本構改派の系統図をかかげておこう。

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