【書評】黒木亮『アジアの隼』(上、下)
幻冬舎文庫 平成24年10月発行(上686円+税、下724円+税)
1990年代、ベトナムが舞台の経済小説である。かつて90年代の香港は、鄧小平の南巡講話をきっかけとした中国の経済回復と同時に、急速にアジアの資金調達センターとしての優位的な地位を確立していく。そしてこれとともにベトナムは、ドイモイ(刷新)により経済的急発展を遂げることになる。この成長期のベトナムで政府のプロジェクト案件を獲得すべく邦銀の日本長期債券信用銀行からハノイの事務所に送り込まれた真理戸潤なる人物が主人公である。当然のことながら、そこでは既に欧米の金融機関や「ベトナム詣で」の多くの邦銀が熾烈な争いを繰り広げており、しかも当時の日本とは異なった取引習慣—現在では至極当たり前のこととなったシンジケートローン(協調融資)やマンデート(借手による融資条件受託)等—に苦しめられることとなる。この百戦錬磨のつわものたちの間で、いかにマンデートを取って行くかの丁々発止の駆け引き、協調と寝返りが本書の見せ場であり、欧米金融機関のハゲタカぶりと徹底した合理性=冷酷無情の振舞いがすごい。
しかしその話の流れは本書で見ていただくとして、本書で語りたいのは少し違うところにある。それは例えば、真理戸がベトナム事務所開設の免許を取るための政府役人との交渉の次のようなシーンである。
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「ベトナムは今まで戦争で国造りが遅れたけれども、ドイモイ(刷新)により今後飛躍的に発展することは間違いないのです」(略)「この国のビジネス・チャンスは計り知れません。我々には天然資源に加えて、人的資源も豊富です。なにせ我々はあのアメリカに勝ったのですから」
ニエン(ベトナム政府金融機関局次長)が傲然とした視線を向けた。
真理戸は、これ以上自慢話を聞いてもしょうがない、と話の方向を変えることにした。
「では具体的には、私どもは何をしたらよいのでしょうか?」
「セミナーをやってもらいたい。それから日本で研修生を受け入れてほしい」
真理戸が投げたボールをニエンは間髪を入れずに打ち返してきた。(略)ベトナム政府のたかり体質は、つとに名高い。外国企業にセミナーをやらせるときは、外国から来る講師の旅費、宿泊費、日当は当然のこと、参加者に対する一日十ドルの日当、さらにはセミナー会場となる自分たちの役所内の会議室の使用料という名目で一日あたり千ドルをも払わせる。許認可権限を悪用した賄賂の強要以外の何ものでもない。それをベトナム側はコー・オペレーション(協力)と呼んではばからない。(略)
「日本での研修の方は、何人位をお考えですか?」
「こちらとしては五人から七人を考えている」
仮に五人を一週間東京に呼ぶとすると一人あたり五十万円として二百五十万円の金をどぶに捨てなければならない。
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次は、軽工業関係の国営企業との交渉シーンである。
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案内された部屋で待っていると、やがて副社長以下六名がぞろぞろと入ってきた。副社長の年齢は六十歳くらい。(略)背が低く、枯れ木のように痩せている。煙草のヤニガこびりついた歯は朽ちてぼろぼろで、育ち盛りの頃に栄養状態が悪かったことが窺える。おそらくベトナム戦争の勇士なのだろう。国営企業ではこの手の北ベトナム軍出身者が能力とは関係なく、論功行賞で幹部の地位を与えられているケースが多い。(略)
(評者註・・・この後交渉が始まるが、通訳、財務部長の女性ともにファイナンスの問題が皆目分からず、ピンぼけが続く。)
副社長は当然のことながら実務のことは何も知らない。口では「ファイナンスはわが社にとって非常に重要だ」と繰り返し言うが、いざ具体的な話になるとさっぱりだ。最近の輸出状況について質問すると、「ああそれは国際部長に訊いてほしい」、繊維製品の売上動向について訊くと「それはマーケティング部長に照会するとよい」、プロジェクト・ファイナンスについて興味があるかと訊くと「それはここにいる財務部長と話をしてくれ」(略)
「これは共産主義無能バリヤーですね」苛々している真理戸に尾白(真理戸の部下)がいった。
「何だい、その無能バリヤーって?」
「以前旧ソ連の共産主義国で経験したことがあるんですけど、決定権者に話がたどり着く前に、この無能バリヤーが何重にもわたって張りめぐらされてるんですよ」
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極めつけは、先ほどのセミナー後の日本での「研修」である。一行は五人。
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五十過ぎの女性がいる。一行の団長をつとめる人事部次長のアイン女史だ。スーツ姿の若者がいる。(略)金融機関局職員のタインらしい。(略)小柄で利発そうな女性がいる。これは国際関係部のハウ。
コートを着込んだ腰の曲がりかけた婆さんが二人いる。(略)政府の職員というよりは、ハノイの道端にしゃがんでサツマイモの天ぷらでも揚げていそうな感じだ。この二人が選ばれたのは何かの間違いとしか思えない。
(評者註・・・この「研修」と秋葉原での家電製品の買物等々で真理戸は散々な目に遭わされるが、彼らが帰った後、ナム(通訳)との会話でその事情を知ることになる。
「ところでナムさん・・・」真理戸が傍らのナムにいった。
「あの婆さん二人はいったい何者なんですか?英語も全然できないただの婆さんじゃないですか。ベトナム政府にとって、あんな連中を日本に研修に出す意味があるんですか?」
真理戸の質問にナムは一瞬白けた顔をした。
「真理戸さん、あの婆さんたちははなから勉強する気なんてないし、ベトナムの役所の方だってそんなことは期待していないんですよ」
「え!? じゃあ、なぜ」
「ベトナムの官庁や政府機関で偉くなるためには、まず下の人間から推薦してもらうことが必要なんです。いくら能力があっても、あるいは上の人の可愛がられていても、下の人間が推薦してくれないと出世はできない。共産主義体制ではそういう仕組みなんです。だから、推薦をもらうために上の人間は下の人間のご機嫌取りをするんですよ。ああいう無能な婆さんたちは上司にとっても結構厄介な存在なんです。助けにはならないが害だけは加えることができる。あいつらを黙らせておくためには時々海外旅行をさせてやる必要があるんですよ」
「うーん・・・」初めて裏の事情を知らされた真理戸は唸った。
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悪意を持って社会主義ベトナムの批判をするわけではない。しかし本書が小説であるということを考慮した上でも、いわゆる旧ソ連型の官僚制の果たしている犯罪的な役割を確認できよう。本書はこの後、タイ・バーツの暴落を端緒としたアジア通貨危機、金融市場の行き詰まりの中で、主人公の勤める銀行も破綻に陥るという結末を迎える。
以上のように本書は、アジア金融市場を舞台にした波乱万丈の経済小説であり、そこにはかつて実在し香港の金融市場の台風の目となった証券会社「ペレグリン」も登場する。 また巻末には日常あまり馴染みのない経済用語の解説も付けられている。一見とっつきにくい小説であるが、一種の経済情報小説としても読むことができよう。
しかし最後に付言すれば、60~70年代にアメリカ帝国主義に対して英雄的に闘ったベトナムに対して、微力ながらも「ベトナム戦争」反対の運動に参加した者としては、本書で苦い読後感を味わった。アメリカと闘ったベトナムの勝利が偉大であっただけに、その後の経済政策で行き詰まり、開放経済政策ドイモイで息を吹き返すという状況は、革命後の旧ソ連型社会主義の官僚制の弊害とともに銘記すべきであろう。このような中でもなおベトナムの民衆の底力を信じるという本書の姿勢は救いではあるが、現存する社会主義を見る限りはなはだ複雑な感情を持たざるを得ないというのが正直なところである。(R)
【出典】 アサート No.425 2013年4月27日