【書評】ネヴィル・シュート『渚にて—人類最後の日』

【書評】ネヴィル・シュート『渚にて—人類最後の日』
           (佐藤龍雄訳、創元SF文庫、1,000円+税) 
 
 『渚にて』の新訳である(ただし出版は2009年)。原著は1957年、旧版は1965年に井上勇訳で創元推理文庫版として刊行された。またグレゴリー・ペック/エヴァ・ガードナー主演のアメリカ映画『渚にて』(1959年)を、背景で流されたオーストラリア民謡「ウォルシング・マチルダ」とともに憶えておられる方もいることであろう。
 あらすじは次の通りである。
 第3次世界大戦が勃発、戦争を始めた中ソ(時代設定はこの時代である)はもちろんのこと、これにそれぞれの利害と思惑から戦争に参加した米英あるいは核爆弾を保有していた中小の国々が核爆弾を用い、全世界に4700個以上の核爆弾が落され、北半球の国々は死滅した。唯一南半球のオーストラリアがまだ無事であったが、放射性降下物は南下し、人類最後の日が確実に近づいていた。かろうじて生き残った米海軍の原潜〈スコーピオン〉は、メルボルンに退避してくる。しかし残された時間はわずかとなっている。この時間をどう生きるのか、これが本書の主題である。主な登場人物は,〈スコーピオン〉艦長タワーズ大佐—-家族はすでにアメリカ本土で死亡が確実と考えられる–、オーストラリア海軍の連絡士官ピーター・ホームズ少佐──妻と生後間もない子どもがいる—-等々である。
 この中で〈スコーピオン〉は、生きている人間がいないはずのシアトル付近から送られてくる無線信号の謎を解くために、また一部の学者が唱えている放射能に関する希望的観測—-大気中に浮遊する放射性降下物は急速に希薄化して地表や海面に落下して行くので、南下移動量が急速に減少するとする──の確認に向かうことになる。
 これに同行することになったホームズは、妻のメアリに、航海中にもし最後が来た時の問題を話す。赤ん坊のジェニファーを子ども部屋に連れて行く直前のことだった。放射能によって侵され、下痢嘔吐から始まるコレラのようなひどい衰弱症状が出て死に至るという話を一通りした後で、ホームズは赤い小箱を取り出して、もしあまりにもひどくて耐えられない症状になってきたら、この薬を一錠、飲むことを教える。
 「メアリはひとりでに終わった煙草を指から落とし、小箱を手にとった。表書きされている取扱指示の文言に目を通してから、口を開いた。『でも、どんなにひどい症状になったとしても、自分でそんなことなんてできないわ。そんなことしたら、だれがジェニファーのめんどうを看るの?』/『放射能は、すべての生き物が浴びることになるんだ。犬も猫も—-そして赤ん坊もだ。きみやぼくと同様に、ジェニファーも同じ目に遭うことになるんだ』/メアリの目が見開かれた。『あの子までが、そんなコレラみたいな症状になるというの?』/『そうだ。だれもがひとしく、同じ道をたどる』/(略)/ホームズはなだめるように努めた。『(略)ジェニファーの未来も同じ運命だ。でも幼い赤ん坊にまでそんな苦しみを味わせるのは忍びない。だから、もしもう手のほどこしようのない状況が訪れたなら、きみの手であの子を楽にしてやればいい。もちろんそうするのはとても勇気の要ることだけど、その勇気は持たなくちゃいけない。(略)』/妻の目がしだいに敵意に燃えてきた。/『はっきりいえば、こういうことでしょ』その声には刃がひそめられている。『わたしにジェニファーを殺せってことでしょ!』/ホームズは難局が訪れたことを悟ったが、しかしそれに立ち向かうしかない。『そのとおりだ。そうすることが必要な事態になったら、きみはそれをやらなければならない』/メアリは急に怒りを爆発させた。『あなた、どうかしてるわ』と(後略)」。
 この後の展開は本書を読んでいただくしかないが、生存可能圏が次第に狭まっていく状況で、どう生きていくか、というより、どう死んでいくかの選択が迫られる。〈スコーピオン〉の航海では、結局シアトルからの無線信号は、通信機と近くの窓枠の揺れとの連動であることが分かり、また放射能に関する希望的観測も打ち砕かれる。確実に滅び行くしかない人類は、かくして終焉を迎える。本書の最初に掲げられている、T.S.エリオットの詩が象徴的である。そこにはこう記されている。
「われらこの終(つい)なる集いの地にて/ものも言わず手探り彷徨(さまよ)い/
この岸辺にたどりつきけり/この広き流れの渚(なぎさ)に/
この流れこそ世の涯(はて)へと/(このフレーズが3回繰り返される)/
瀑音轟(とどろ)かずただ霧しぶくのみ」
 本書は、このように人類の最後をひたすら静かに描く。そこには近年の同種の映画や小説で見られる阿鼻叫喚の絶叫や暴力といったものはない。略奪について少し語られる程度である。核戦争のみでなく、環境や水や食糧といった問題でも人類の最後が言われる今日の状況とは、時代が違うからとも言えるが、しかし今日の方が問題はより多方面にわたり深刻であるとも言える。そうだとするならば、絶叫や暴力や死体を描き、パニックを強調することによって、我々の時代はむしろ全人類死滅への恐怖という本質を逸らせているのではなかろうか。本書はそのような時にもなお、人間性への理解と自覚を持つことが必要であることを示唆するが・・・。(R)
(付記:本書に登場する米海軍最後の原潜〈スコーピオン〉と同じ名を持つ艦は実在し、特に原著出版から10余年後の1968年に、アゾレス諸島沖で沈没し4000mの海底に沈んだままの原潜が〈スコーピオン〉であったということは、偶然の一致であろうが、評者の記憶に強く残っている。) 

 【出典】 アサート No.413 2012年4月28日

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