【投稿】2011.3.11 「東日本大震災」の日

【投稿】2011.3.11 「東日本大震災」の日
                               立花 豊(東京) 

 3月11日金曜日午後2時35分ころ、私はお茶の水の順天堂病院の前の路上で、仕事中であった。仕事はタクシーだが、当時は空車(お客様を乗車させていない)状態であった。赤信号で停止していた車を震動は大きく上下に揺るがせ、そして左右に揉みあげ、まるで荒海に漂う小さなボートに乗ったかのように、まったく制御の利かない状態になった。おもわず利いても意味のないブレーキを踏みしめ、ハンドルを握りしめ、視線は頭上に、意識は「このままどうなるのか」という恐怖でいっぱいになった。経験のない大震動に、生命の危険さえ思わずにいられなかった。周囲のビルからは中にいた人々が恐怖に顔をゆがめながらぞくぞくと道路上に出てきては頭上から何か危険物が落下してこないかと見上げている。狭い歩道上は人々でいっぱいになった。気がつくと、10メートル先の路上で手をあげ、タクシーを呼ぶ男性が目に入った。思わず私は、職業的な習慣で彼の前に車を移動させ、後部ドアを開けた。「日経新聞社へ」彼の指示で車を大手町の日経新聞へ向けた。
日経新聞につくまで、赤信号で止まらずとも、ゆるいスピードの車でも地震でハンドルはとられ、この震動がどのくらい続くのかと思わせるほど、長く続いていた。彼を日経新聞社の玄関でおろすと、いままた、手を挙げながら若い男性が車に乗り込んできた。「渋谷の神泉へ」という指示で、車は皇居前を横切り、目的地へ進んだ。皇居前にくると、1000人はいるとおもわれる建設作業員が全員白いヘルメットを輝かせながら、大きく揺れた建設中のパレスホテルの作業場から避難して集合していた。界隈のビルから避難してきたサラリーマンやOLが歩道上に何をするともなく上を見上げていた。まったく人の動きのないニュースフィルムをみるような光景を目にしながら、六本木通りを西に進んだ。目的地の神泉町につくと、男性は降りたが、すぐに別の男性がのりこんできて、今度は逆方向の六本木ヒルズへと指示がなされた。六本木ヒルズでさっきの客をおろすと、またすぐに中年の婦人が手をあげ、新宿駅へと指示された。
 青山1丁目を経由してそのまま外苑東通りから信濃町まできたら、信号が赤に変わり、私は車を停止させた。その時若い女性が歩道上から泣きながら近づき、車のドアを開けようとしたので、私は「どうしました」とウィンドウを下げながら聞いた。「実家がつぶれてすぐに千葉の家へ帰り、連絡したいのです」というので、「どこまで」と聞いたら、「千葉の安孫子近くまで」というので、空車タクシーが既につかまらない状況を察した私は、後ろの中年婦人に「同乗はよろしいですか」と確認のうえ、ドアを開け、女性を乗せた。とりあえず新宿まで婦人をおくると、地震発生からずっとラジオを切っていたため、地震の情報がなく、ラジオのスイッチをいれると、すでに震災直後ですでにすべてのJRも私鉄も停止し、回復は今夜中は無理と報道されており、移動手段はバスとタクシーのみを告げている。しかも高速道路もすべて通行禁止。バスはものすごい渋滞で動きが取れず、時刻表は意味をなさず。バス停にバスを待ってもいつくるかわからない。残るはタクシーだけである。ほとんどの交通手段を奪われた人々は多くが徒歩での帰宅を選択せざるをえなかった。
 私は水戸街道へ車を進めようとしたが、地震発生後2時間を経過した路上はすでに徒歩で帰宅を急ぐ人々で歩道からもあふれ、車道にまではみ出していた。こうした道路渋滞は結局、私たちの目的地の直前の柏まで延々と続いていた。その間、ときおり大きな余震が感じられたが、最初の大きな揺れのあとでは、たとえ震度4の地震でも、もうたいしたこととは思わなくなっていた。夕方4時半に信濃町をでてから5時間たっても、まだ葛飾区の四つ木をこえたばかりのところで、相変わらずの猛烈な渋滞に一向に前進できないタクシーを見限り、若い女性は「もう歩いていきます」と言って車を降りた。まだ安孫子までは25キロはあるが、しかたない。先の若い女性が降車してものの十数秒たつかたたないか、また別の女性が二人乗り込んできて偶然にも「安孫子まで」といった。私はそのまま水戸街道を下ったが、安孫子に着いたのは午前1時半であった。その間、東京を出て県境の松戸を越えても、道路の両側には延々と歩行での帰宅の人々が続いている。おそらく数百万人以上の人々が徒歩で十キロ以上の道を帰宅のため歩き続けたことになる。私は当然だが、飲まず食わずトイレにもいけず、運転を続けた。通常高速道路を使って1時間もあれば十分到着できる安孫子まで、9時間もかかったことになる。
 ここまで震災当日の首都圏の労働者の帰宅状況をタクシー運転手の目で見たことを書いたが、一歩情報が錯綜すれば、大変なことになることは自明のことだ。ここ1週間をみると、たまたま東京の被害が震源地ほどにはほとんどなかったからこそが、パニックもみられずある程度「冷静に」行動できた結果だろう。翌日からは承知のごとく震源地の状況、政府の危機対応への批判、被害の悲劇・深刻さ、日用品の買い占め・品不足、さらに原発・電力とエネルギーの問題へと、報道があふれ、そのテーマも日替わりに変わってきたが、阪神・淡路大震災の規模をおおきく超えんとする東日本大震災の被害が、今後の日本の政治や相互扶助の役割、マスコミ報道の責務、NGOや既成の労働組合の意味、地方自治と中央政府の関係、エネルギー政策の見直しなど、その解決方向への輪郭を改めて描き出すことははっきりしているだろう。市井にある私たちでもそのアウトラインをより強くくっきりとさせる役割を果たすことはできるのではないだろうか、阪神・淡路大震災の経験をふまえつつ。 

 【出典】 アサート No.400 2011年3月26日

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