【本の紹介】『原爆の記憶 - ヒロシマ/ナガサキの思想』
著者 奥田博子(南山大学外国語学部准教授)
発行 慶應義塾大学出版会 2010年6月25日発行 3,800円+税
<<「唯一の被爆国/被爆国民」というスローガン>>
著者は、本書発行元である慶應義塾大学出版会ホームページ上で「なぜ、いま、原爆をあらためて考える必要があるのか?」と題する特別寄稿の中で、
「65年前の広島と長崎において、一体何が起こったのか。なぜ、広島と長崎に原子爆弾/核兵器が投下されたのか。その後、広島と長崎の原爆体験はどのように語られてきたのか。原爆投下という史実と原爆被害の実相を批判的に検証するうえで、日本政府が唱道する「唯一の被爆国/被爆国民」というスローガンは、アジアひいては世界で日本の立ち位置を模索するとき、障碍としかなりえないことを指摘できる。なぜなら、事後的に創られた「平和(文化)国家」日本という表象のもとで、広島と長崎の原爆体験や被爆の記憶をめぐる議論と想像力に枷を嵌めてしまうからである(なお、この点については拙著のなかで詳細に検討を加えている)。」と指摘している。そしてさらに、
「国境を越えて共有されうる、また、共有されねばならない原子爆弾/核兵器に対する日本の道義的責任も忘れてはならないだろう。地球環境を含む私たちの社会そのものを考えさせるこの道義的責任は、ほんの少しの他者への思いやりと言い換えることもできる。他者と“触れ合う”なかで、いま、原爆をあらためて考えることは、私たち誰もがヒバクシャであり、ヒロシマ/ナガサキが訴える「核なき世界」を実現する役目を背負っているという責任を自覚することへと繋がってゆく。」と訴える。
本書は相当に長い序と結論を前後に、以下の通りの目次にわかるように、日本の戦争被害者意識を正当化する「唯一の被爆国/被爆国民」という「集合的記憶」というものに焦点を当て、自らの戦争責任や戦争犯罪に対して免罪符を与えようとしてきた日本政府やマスメディアが、被爆地をどのように表象してきたのかを詳細に分析し、これらを歴史的かつ批判的に考察し、「ヒロシマ/ナガサキを私たち自身の問題として引き受け、考えていく意義」を提起した力作であり、その意義は大きいものがあるといえよう。
目次
第I部 軍都「廣島」「長崎」からヒロシマ/ナガサキへ
第1章 なぜ、広島と長崎が原子爆弾の投下目標となったのか?
第2章 広島と長崎では何が起こったのか?
第3章 広島と長崎はどのように想起/忘却されてきたのか?
第Ⅱ部 日本のなかの「ヒロシマ」「ナガサキ」
第4章 爆心地を再生する――広島と長崎の戦後復興
第5章 歴史/物語を保存する――広島平和記念資料館と長崎原爆資料館
第6章 記憶を記念=顕彰化する――広島平和記念式典と長崎平和祈念式
第7章 過去と物語・記憶を表象する――全国紙vs.地方紙
第8章 原爆体験を思想化する――かつて、いま、そしてこれから
第Ⅲ部 グローバル化のなかのヒロシマ/ナガサキ
第9章 検定歴史教科書のなかの原爆投下
第10章 「記憶の場」のなかの原爆体験
<<「内閣総理大臣の挨拶」>>
その「第6章 記憶を記念=顕彰化する」は、8・6/8・9のそれぞれの広島平和記念式典と長崎平和祈念式、平和宣言、日本政府の関心、という項目に続いて「内閣総理大臣の挨拶」という項目があり、1960年以来の「唯一の被爆国民」という内閣総理大臣挨拶の類型が表として整理されており、その特徴が次のように述べられている。
「広島平和記念式典および長崎平和祈念式で読み上げられる内閣総理大臣の挨拶には、四つの特徴を指摘することができる。第一の特徴は、「唯一の被爆国であるわが国」という決まり文句である。・・・つまり、「唯一の被爆国」ないし「唯一の被爆国民」というナショナルなアイデンティティ/神話には自己憐憫的な性格が強いという指摘ができる。・・・日本政府は、広島と長崎の原爆体験を日本の戦争被害と読み換えることによって、「恒久平和の樹立」と「核兵器の廃絶」に主体的に関わってゆこうとする意志を表明する。この主体性を明確にする「誓い」のことばが第二の特徴となる。・・・第三の特徴としては、日本政府による「原爆被爆者」と「被爆者援護」への言及が挙げられる。・・・第四の特徴は、「国是である非核三原則」という決まり文句である。」
今年の菅総理大臣の挨拶も、この類型パターンと酷似するものであった。
著者は、「原爆体験や被爆の記憶に対する私的な感情と「唯一の被爆国」ないし「唯一の被爆国民」という公的な政治見解との混同が、ヒロシマ/ナガサキが訴える核兵器廃絶と反戦/平和という普遍性のあるメッセージを空洞化させてきたことは間違いない。」と指摘する。
そして「首都東京を中心とするナショナルな言説とは対照的に、一地方都市である広島と長崎は、被爆地として、原子爆弾による死者の鎮魂と抗議を介して人類が抱えている生存の危機を忘れてはならないと警鐘を鳴らしている。かつての帝都東京からのまなざしは、軍都「鷹島」「長崎」の原爆体験を鳥轍図的に「受忍」として表象する傾向にある。一方で、核時代のなかでポスト核時代に生きるヒロシマ/ナガサキは、虫撤図的なまなざしから、一国中心的な枠組みを超えてかつてキノコ雲の下で起こった「被害」を問い続ける。原子爆弾がどのように非戦闘員である一般市民を殺したのか、そして生き残った者に今なお何をもたらしているのか。ある意味で、ヒロシマ/ナガサキは原子爆弾/核兵器の致死的な影響や放射線の後遺症に対する現代の医療の無力さを象徴しているかのようでもある。さらに、原子爆弾という科学技術の進化を象徴する核兵器が高性能となり、殺す側の負担は小さくなってゆく。しかしながら、もう一方の殺される側の「いたみ」が変わることはない。殺される側の人々が発する声はどこへゆくのか。自らの痛み/傷み/悼みをともなわない戦争は広範な戦争容認論を引き出すだけではなく、戦争の意味を大きく変えることにもつながるだろう。」と指摘する。
<<「クリーン」かつ「グリーン」という誤った考え>>
著者はさらに、「原子力/核エネルギーは、近年の地球温暖化ないし気候変動をめぐる環境問題との関連で、「クリーン」かつ「グリーン」なエネルギーというイメージ作りがなされている」ことにも警告を発し、「核の軍事利用」と「原子力の平和利用」はこのように明確に区別されるものではなく、原子力エネルギーの「平和利用」ないし「安全性」を肯定する科学的な根拠は何一つ存在しない、と主張する。
「第一に、核兵器の製造過程と原子力エネルギーの製造過程、つまり核燃料サイクルは同一である。原子力発電所と再処理工場、そして濃縮工場があれば、広島型ウラン原子爆弾と長崎型プルトニウム原子爆弾どちらの核兵器も製造することが可能である。これが核拡散の根本的な問題であり、「核の軍事利用」と「原子力の平和利用」を区別することができるという大前提に妥当性がないことの証拠でもある。第二に、電気出力一〇〇万キロワットの原子力発電所を一日稼動すると、三キロの核分裂生成物、つまり「死の灰」が生成される。この量は、広島に投下されたウラン原子爆弾がもたらした「死の灰」の強さに匹敵する量である。ストロンチウム九〇、セシウム一三七、沃素一二九といった長半減期がきわめて有毒な放射性物質が含まれる「死の灰」を処理する方法はいまだ見つかっていない。さらに、原子力発電所のもたらす放射性物質の影響は、温排水、長期微量放出、事故漏洩、放射性廃棄物の処理、そして使用済み核燃料の再処理を通じ、大量かつ長期間にわたるものである。水や土、空気といった自然環境、そして人類や生物が汚染され続けるのである。こうしたことから、原子力/核エネルギーは「有害汚染物質を含んでいない”clean”」かつ「環境に配慮した”green”」なエネルギーであるという誤った考えは問題視されるべきであると考える。」
「結論」の中で、著者は「本書では、広島と長崎の原爆体験を一枚岩に捉えるのではなく、国民国家的な価値観との軋轢を抱えながらもナショナルな集合的記憶として記念=顕彰化されてゆく過程で取り残されている多声性(ポリフォニー)から捉えようとした。なぜなら、敵味方である以前に、人間が人間に対して行った行為として「国籍化」された「ヒロシマ」「ナガサキ」を「ヒロシマ/ナガサキの思想」として普遍化してゆく必要があるからである。それは、他者にどれだけ〝共感〟できるかという問いかけでもある。」と述べている。本書を「ヒロシマ/ナガサキの思想」とする所以でもあろう。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.393 2010年8月28日