【本の紹介】「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか

【本の紹介】「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか
                 –覆い隠された歴史の真実–」
               (謝幼田 著、坂井臣之助 訳、草想社 2006-07)

6月号で、毛沢東の犯罪を暴いた「マオ」を紹介した。その後、同じような中国の歴史を扱った書籍が出版された。「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか–覆い隠された歴史の真実–」(謝幼田著 草想社 2006-07)である。
訳者あとがきによると、中国の歴史学会では、抗日戦争における蒋介石と国民党軍の再評価が進んでいるという。2005年9月の抗日戦争勝利60周年記念大会が人民大会堂で開かれ、胡錦濤共産党総書記は、抗日戦争中、国民党軍が「正面の戦場」を担い、戦争初期には、上海などで「日本軍に打撃を与えた」と述べ、国民党の役割を初めて公式に認めた。もちろん、抗日中心は共産軍だったとの基本的主張は変更されていないが。
謝氏は、四川省社会科学院副研究員を経て、現在ハーバード大学フーバー研究所客員研究員の肩書きをもつ。本書は、「中共壮大之謎」として2002年に出版されている。
著者は、自序において、国民党軍の抗日戦争における役割の再評価が進む中、それでは共産軍は何をしていたのかについて研究を進めたと述べている。国民党関係の文献にとどまらず、最近北京で発行されている抗日戦争についての史書を読んでいった。それは党中央の文献でり、元帥・将軍たちの回想録であった。
そこには「中華民族が、(中国共産党に)裏切られてきた事実」があった。

<満州事変から盧溝橋事件まで–国民党の持久・対日戦準備期>
1931年9月の満州事変により本格的な中国侵略を開始した日本に対して、中国国内では軍閥の割拠状態にあり、国内勢力が統一して抗日戦争を戦う準備もできていなかった。その中で、蒋介石・国民党の基本戦略は、全面戦争を引き伸ばすと共に、国民党はじめとする国内勢力の統一であり、軍事的整備であった。日本軍に抵抗する一方で、「一面交渉、一面抵抗」の原則に則り、戦争準備の時間稼ぎを行った。1935年には、国民党第5回全国代表者会議が南京で開催され、分裂していた西南派も合流し、全党一致の団結が実現する。
一方中共は、満州事変から2ヶ月後、江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」を樹立するとともに、満州事変対処のため移動した国民党軍の隙を突いて、中共紅軍は勢力拡張の行動に出て、1932年の第一次上海事変に際しては、国民党の背後を突いて、湖北、湖南など7つの省で国民党に全面攻勢に出てきた。(謝氏によれば、抗日を訴えた中共軍は、満州事変から盧溝橋事件までの間、一発の銃撃も日本軍に行っていない。行っていたのは、背後から国民党軍攻撃と根拠地作りだけであったという。)
内外の敵を抱えた蒋介石は、1932年盧山で「外を攘うには内を安んじなければならない」と有名な「外攘内安」政策を提出、1935年の国民党5全会後には、数十万の国民党軍が中共の陝北根拠地を包囲しつつあるとき、西安事変が勃発、「外攘内安」政策は頓挫することとなった。

<中共秘密文書が語る抗日の実態>
第1次上海事件では、一撃で中国は倒れると豪語していた日本軍に対して、国民党軍はその不敗神話を打ち破り、日本の2度にわたる総攻撃を退けた。しかし、総力としての軍事力の整わない中国国民政府は、「一面交渉、一面抵抗」の考えから、日本との妥協の産物として3つの停戦協定、塘沽協定の調印、奉天・吉林・黒竜江3省と熱河の日本占領を認めざるをえなかった。
これに対して、中共は、「不抵抗」「売国」政策と批判し、抗日に熱情する青年や知識人を煽るとともに、抗日とは名ばかりの宣伝戦と根拠地作りを行い続けた。
「中共中央は、・・ソ連の利益に合致するが中華民族にとっては不利となる一連の文書を出しただけでなく、国民党政府転覆のために多くの軍事行動を起こした。これらの行動は抗日の旗印を掲げていたが、日本軍に対しては、一発の銃弾も撃たず、日本軍と正面から戦っていた国民党政府は再三にわたって襲撃を受けることになった」
著者は、この時期の中共の戦略について示している、二つの文書を挙げている。一つは1934年の「中国人民の対日綱領」であり、もう一つは、「中共が各省委員会、市委員会にあてた最重要の秘密指示書簡」である。
対日綱領では、「中国人民が自らを救い、国を救う唯一の方法とは、みなが立ち上がって武力で日本帝国主義を駆逐すること、つまり中華民族の武装自衛である」として、6項目の行動綱領を提起している。実際には、抗日戦を戦っている国民党軍とは、無関係に即時抗戦を呼びかけた。「これは、ソ連を背景とする中華ソビエト共和国を合法化し、中国において複数の指揮センターを樹立することである。言い換えれば、ソ連の利益のために全中華民族を犠牲にし、弱い国(中国)が戦争準備を必要としている現実を顧みず、人を惑わす表現で即時対日宣戦を主張したのである。」
二つ目の文書は、書簡の印刷を禁止し、必ず口頭で報告することを義務付けている。この中では、「自らの影響力を拡大し、力を結集して国民党政府を転覆させるために、大衆の抗日感情を利用しようと考え、抗日の旗印」を打ち出したことがわかる。戦争準備で総反抗の準備をしている国民党に対して、中共色の薄い人々を抗日で煽り、国民党を批判させ、即時抗戦の綱領をさせる。それに対して中共が賛同し、抗日統一戦線を樹立するという戦術であった。これらの二つの文書からは「国民政府を転覆させるという中共の根本政策は民族の危機が深まっているときもなんら変わらなかった。・・・すなわち抗日の名をもって、時間稼ぎをしながら戦争の準備をするという国民政府の重要な戦略宣伝を「不抵抗」と歪曲するとともに、人民を籠略するために即刻日本に宣戦するよう全人民を扇動した。・・・中共は抗戦の名によって抗戦を破壊し、内部から中国の抗戦を傷つけたのである。」

<「抗日先遣隊」は、抗日を行わなかった>
1934年7月中華ソビエト共和国は、有名な「抗日先遣隊」を派遣する。6000名余りの部隊であったが、派遣された福建省、浙江省に日本兵は一人もいなかった。むしろ退却のための準備行動であった。朱徳も1973年にこの事実を認めている。「つまり紅軍の主力と抗日先遣隊が北上抗日したというストーリーはでっち上げられたものであり、まったく存在しない」。むしろ福建省と浙江省にいた国民党軍を脅かす存在でしかなかった。しかし、中共は宣伝戦において、「中国労農紅軍の北上抗日宣言」などの文書を出して、「一致団結して日本帝国主義を中国から追い出そう」「紅軍の北上抗日運動を擁護しよう」と大量の宣伝物(80万部)を印刷している。
そして、有名な「長征」も、後から名づけられた。1987年になって出版された「中国紅軍長征記」では「・・・この戦略的移転が始まったころは長征とは呼ばず、「移動」「長征行軍」「西征」と呼ばれていた。その目的は、生存できる「場所」を探し、そこに新たな根拠地を建設することであった。当時はあれほど遠くまで行こうとは、とりわけ陝北まで急いで行軍しようとは思いもしなかった。」と。
「マオ」によれば、「長征」とのちの延安における整風運動によって、古参幹部は退けられ、毛沢東の主導権が確立していくのであるが。

<誇大宣伝された成果–平型関の戦い>
第4章において著者は、中共紅軍による抗日戦の実例ととして挙げられている平型関の戦いを詳細に分析している。1937年9月第2次上海事変において、日本軍と中国軍が激戦となっていたころ、華北の日本軍は山西省に侵攻する。1938年最も激しい戦闘である徐州会戦が戦われる。日本軍は中国に存在した兵力の半分以上にあたる30万以上を投入、迎え撃つ国民党軍は、64個師団と3個旅団60万人が対峙した。
1937年山西に入った林彪の第115師、八路軍の2個師団も続いた。詳細は省略せざるを得ないが、平型関の戦役は、国民党軍を主力とする太原会戦の一部であり、9月25日八路軍の戦勝報告は、日本軍1万人を全滅させたとした。この報道は中国全土に伝わり、全国の民衆を大いに鼓舞したという。しかし、1983年の「朱徳全集」では、「平型関の一戦は、八路軍第115師が・・・日本侵略軍を待ち伏せ攻撃した戦闘である。日本軍精鋭の板垣師団第21旅団1000人余りを殲滅し・・・抗日戦争開始後初の大勝利である」と。しかし戦後北京で発行された「日本軍の中国侵略戦争」でも、日本軍一万人殲滅説を採用していない。一方、日本の資料に寄れば、八路軍が殲滅した日本軍将兵は、輜重・自動車隊282人で、車両140両余りを焼却したことになっている。
毛沢東は徹底して勢力温存にはしり、正面戦を禁じた。一方で、小規模の戦闘を誇大宣伝した。しかし、抗日戦の歴史資料をどう読んでも、この平型関の戦いと1940年の百団大戦以外には、八路軍の成果は見出せないのである。

<裏切られた民族>
本書では、続いて「百団大戦と彭徳懐の粛清」「情報工作員潘漢年の悲劇」「日ソ不可侵条約に喝采を送る」「巧みに利用されたアメリカ人」と続くのであるが、詳細はぜひ本書を読んでいただきたい。
中国社会科学院の劉大年教授は、「中国は世界の反ファシズムの主要な戦場の一つであった。中国という戦場があって初めて東方の反ファシズムの勝利があった。日本軍は、最も多い時で陸軍の90%を中国に投入した。1931年から1945年まで海外で死亡した日本人将兵は287万4千人で、そのうち89万人が太平洋戦争で死に、198万4千人余が中国の戦場で死んだ。中国は連続8年間日本に抵抗したのである。・・・中国が自らの力で勝利を勝ち取ったという地位を改変することはできない。」と述べている。もし、中共が国民党転覆を図らず、中国の抗日勢力を消耗させなかったら、この勝利はさらに輝かしいものになったと著者は言う。中国の代償は、中国陸軍においては、戦死者131万人、負傷者176万人、民間人575万人と言われている。中共は、これらの犠牲のもとで戦われた抗日戦が、中共の指導の下で戦われたと言い続けているのである。
私は、過去3回台北を訪れ、観光コースとして忠烈堂、蒋介石の中正祈念堂などを見てきた。国民党が内戦に破れ台湾に渡って以降の歴史は、また別の議論の対象ではある。一度蒋介石の伝記を読んでみようと思っているところである。
戦後61年の今年、特に侵略した側の立場から、「マオ」や本書を読み、戦争の歴史を振り返ってきた。事実を共有してこそ連帯も共感も生まれる。誤れる歴史観を葬る意味でも、日本のアジアにおける立脚点をしっかりさせるためにも、中国の側の歴史の検証作業に注目していくことは必要ではないか、と思う次第である。(佐野秀夫)

【出典】 アサート No.345 2006年8月26日

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