【追悼】藤田友治さんを偲んで

【追悼】藤田友治さんを偲んで
                      福井 杉本達也 

 昨年8月27日、大阪府岬町で「歴史・哲学研究所」を主宰されていた藤田友治さんが慢性解離性動脈瘤の手術中に亡くなった。58歳であった。藤田さんの代表作としては李進熙氏の「好太王碑改ざん説」を実証的に批判した「好太王碑論争の解明」(1986年・新泉社)があるが、拓本コピーの貼り合わせ作業から改ざんがないことを実証しようとする地道で緻密な研究スタイルがその特徴といえる。こうした研究スタイルは『三角縁神獣鏡』(1999年・ミネルヴァ書房)や『「君が代」の起源』(2005年・明石書店)等々最近の労作でも変わっておらず、病床にあっても次の原稿の構想を練っておられたとのことであり、原稿の1枚1枚が氏の命を縮められたであろうことは想像に難くない。
 藤田さんには13年前の1993年に福井で「 天皇制の”万世一系”神話と民主主義」という講演をしていただいた。当時、藤田さんは布施高校定時制の教師で茨木市に住んでおられた。茨木市には宮内庁が「継体天皇陵」と称している全長286mの太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやま)があり、そこから約1.5km東北東の高槻市側に本当の継体天皇陵とされる今城塚古墳(いましろづか:全長350m)がある。『日本書紀』によると、この継体天皇を生んだ振姫の出身が現在の福井県・越前国三国地方ではないかといわれており、「“万世一系”神話」を考えるということで、福井にゆかりのある継体天皇をめぐって話をしていただいた。
 継体の継は「つぐ」ということあり、漢風諡号(しごう・死後の贈り名・和風名は男大迹(おおど))であり、それ以前の武烈天皇系の王朝とは断絶していることを当時から万人が認識していたからこそつけられたものである。親王寛仁は『文藝春秋』2006年2月号・櫻井よしことの対談「天皇さまその血の重み-なぜ私は女系天皇に反対なのか」の中で、女性天皇や女系天皇の容認をめざす皇室典範の改正に反対して「ずっとピュアに考えていけば、やはり血統を守るための血のスペアとして我々は存在していることに価値があると思います。…天皇様というご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、連綿として万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり…その最大の意味は、国にとっての振り子の原点のようなものではないかと考えています。」と自説を披瀝している。対談中、継体天皇について「皇室の伝統を破壊するような女系天皇という結論をひねり出さなくても、皇統を絶やさない方法はあると思うのです。たとえば、継体天皇、後花園天皇それから光格天皇のお三方は、それぞれ十親等、八親等、七親等という、もはや親戚とは言えないような遠い傍系から天皇となられています。」と触れているが、藤田さんは、13年前の講演で「『日本書紀』、『古事記』をみても、今日の天皇家のルーツは神武までには辿りつきません。武烈のときに男子も女子も嗣子がなく絶えてしまうと書いてあります。だから、越(福井県)へ来て、振姫の子供である、応神の5世の孫といわれるが、どうも出身ははっきりしないが、越の重要視されていた人物である継体を大和へ迎え入れたわけです。だから、継体で系統は断絶しているわけです。だから、「万世一系」などではないということです。」と明確に“万世一系”論を否定していた。
 その継体陵とされる太田茶臼山古墳は2002年11月22日、宮内庁が発掘の結果を公開し、出土した埴輪や土器から五世紀半ばの築造であることがはっきりした(継体の没年は531年といわれる)。つまり継体の陵ではないことがはっきりしたのである。一方、今城塚古墳では65mに及ぶ最大級の埴輪の祭祀ステージが発見され、ほぼ継体陵であることが確定的となった(2002年11月29日・福井新聞)。こうした発掘の成果は藤田さんらの『天皇陵を発掘せよ』(石部正志・藤田友治・古田武彦編 1993年2月・三一書房)や『古代天皇陵をめぐる』(藤田友治と天皇陵研究会 1997年・三一書房)など一連の労作と、考古学・歴史学関係学会による天皇陵の学術公開を求める宮内庁への働きかけによるところが大きい。
 継体の出身地といわれる福井には、継体出現前夜五世紀後半の松岡二本松山古墳(全長89m)をはじめ大古墳が集中している。昨年7月「松岡古墳群」全体が国史跡に指定され、ようやく正統な歴史的評価を受けはじめたところである。9月3日に国史跡への指定を記念して、韓国慶北大学の朴天秀教授による記念講演が行われたが、その中で、「韓半島と北陸を隔離している海は、古代には両者を媒介にして結んでいた。北陸における古代の韓半島文化を象徴するのは福井県松岡古墳群出土の二本松山古墳の冠である。1978年、加耶地域の高霊郡池山洞32号墳から金銅製冠が出土し、二本松山古墳の出土品は加耶後期の中心国である大加耶の冠を模倣して製作されたことが明らかになった。…とくに福井県に大加耶産の文物が集中することが明らかになった。」と発表している。13年前の講演の締めくくりで、藤田さんは「福井県をはじめ日本海側の遺跡がいま非常に注目されています。…なぜ、継体が力を得たかですが、一つは製塩があったのではないか。武烈のころから敦賀あたりから塩を運んでいます。それに鉄です。鉄剣が大量に出てきますが、それによって、民衆に対する支配力がでてきます。そして、当時の畿内の分裂です。内部分裂の中で継体は割り込んで入ってきたといえます。それらを市民の方々と事実を再現していこうということです。」と結ばれたが、福井の古墳も詳しく研究していただけることを期待していた。
 親王寛仁は対談「天皇さま血の重み」で「神話の時代から延々と男系、父方の血統で続いてきたという希有な伝統であり。この血の重みには誰も逆らえなかったということだと思います。」(P106)と「血の重み」という言葉を何度も繰り返えしている。「憲法九条はわたくし達のほこり」という投稿で吉村励先生は、太平洋戦争の戦死者500万人、市民の死者50万人(計550万人)、太平洋戦争時の東アジア地域の死傷者1,882万人という膨大な人的被害数が推計している(「ASEERT」2005年1月)。「血の重み」=国体護持・天皇制維持のために、いかに多くの「血」が流されたか、特に最後の1ヶ月ほどは「振り子の原点」ではなく「振り子そのもの」のように決心をつきかねて揺れ動く中で、50万人もの民間人の血がさらに全く無駄に流されたということ、しかし、対談からは、親王寛仁はその流された「血」に対しては何の重みも感じていないということは明らかである。藤田さんは当時の講演の中で、在日韓国人のシン・ヨンエさんの昭和天皇の大喪の礼のときの集会での、「天皇葬儀 氷雨しきりと降りしくは 亡き同朋の無念とおぼしき」という歌を2度繰り返された。藤田さんはアジアの民衆の「無念」を晴らすべく、また、「血の重み」という“神話”“粉飾”の中身を1つ1つ丁寧に明らかにすべく熱い思い・計画を語っておられたが、道半ばで倒れられた。もう少し長生きして研究していただけたらと残念でならない。 

 【出典】 アサート No.338 2006年1月21日

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