【投稿】雑誌「世界」誌上での「治水のあり方」論争について
福井 杉本達也
雑誌「世界」誌上で治水のあり方をめぐる論争が続いている。最近は学者・研究者も自らの専門分野の蛸壺に入り、他者を批判したりするような論争をあまり好まなくなっている。そうした中での専門的治水分野での論争は、最近の各地での豪雨災害などもあって注目すべきことである。新潟大学の大熊孝教授の「脱ダムを阻む『基本高水』/さまよい続ける日本の治水計画」(2004年10月号)による問題提起に始まり、福岡捷二中央大学教授による批判「大熊孝氏の『脱ダム』治水論を批判する」(2005年4月号)、さらにそれに対する大熊氏の反論「川とは何か、洪水とは何か/福岡捷二氏の二分的治水論に反論する」(2005年6月号)、さらにこの論争に積極的に大熊氏支持で加わる形での今本博健京都大学名誉教授の「これからの治水のあり方について/基本高水をめぐる大熊・福岡論争を読んで」(2005年10月号)、そして、福岡捷二氏による大熊・今本両氏への再反論「治水の計画とは、河川の管理とは/治水は合理的に論ずるべき」(2005年12月号)となっている。これに、読書談話室で神吉和夫氏の「基本高水論争と今本博健氏の所論を読んで」(2005年11月号)と朝日新聞の2005年10月23日の社説「議論は地に足を着けて」が加わって、さらに論争は広がっている。
<大熊孝氏の問題提起…治水の安全度は選択の問題である…について>
大熊氏は2004年10月の論文の中で、利根川や信濃川など「日本のほとんどの河川で、100年たっても完結しない治水計画だらけになってしまったのは、基本高水の決定に際してカバー率を100%にした結果である…これを実行可能なリーズナブルな計画にするには、基本高水のピーク流量を引き下げるしかない。どこまで引き下げればいいのかは、地域住民が安全度をどこまで望んでいるの、換言すればどこまで水害を受忍するかにかかっている。」と問題提起したことに始まる。ここで基本高水(きほんたかみず…業界用語で・土木用語辞典ではきほんこうすい)とは治水計画で防御対象とする洪水規模を流量の時間変化で表現したもので、治水計画の基本となるものである。それをリーズナブルなものにできないかと提起したことで、社会資本整備審議会河川分科会委員の福岡捷二氏の批判を受けることとなったのである。基本高水を下げれば、洪水を河道でどれだけ流すのか、ダムでどれだけ受けるのかという分担、川幅・堤防高・ダムや遊水池の規模など全てが変わってくる。一度作った計画を金科玉条のものとして進めたい国土交通省と審議会委員としては社会的影響が余りにも大きいと判断したのであろう。さらには、ここ数年、各地の豪雨災害で堤防が決壊し、机上の治水計画と現実のギャップが抜き差しならぬほどに大きくなりつつある。治水計画はあるがいつになったら整備されるのか誰にも分からない。その間に豪雨でまさかと思われた堤防が決壊し大きな被害をもたらしている。大熊氏の問題提起は「机上の空論」に対し、現実対応を図ろうとするものである。
<福岡捷二氏の反論…治水計画上の問題と危機管理上の課題は分離すべき…について>
福岡氏は2005年12月の再反論で「計画高水位を超える水位になっても破堤の可能性を『少しでも』減ずるための検討や対策は治水計画上の問題ではなく、実際の管理としての危機管理上の課題である…長期的な目標を明確にした上で、段階的に整備を進めていくことが治水の要諦である…減災対策の実施は万能の特効薬ではなく、あくまでも補助的手段」と位置づける。
そもそも、「河川工学」=「技術」は費用対効果=経済合理性を抜きにしてはありえない。原発美浜3号機の二次系配管破断事故でも明らかなように、設計段階から一次系の主要配管はステンレス鋼を使用していたが、重要性が劣ると評価されていた二次系配管では炭素鋼で製作されていた。福岡氏の言うように「そもそも基本高水の妥当性を計画の実現の見通しから評価すること自体が科学的・論理的であるとは言えない」とするならば、原発の全ての配管は、ステンレス鋼か特殊合金のインコネルなどで作った方がよっぽど安全である。しかし、そうすると原発の建設費は膨大なものとなり、「実現の見通しから評価」できない、とても採算のとれる設備ではなくなる。当時の設計段階で二次系配管を炭素鋼で設計したことが過小評価であったかどうかは別として、経済的合理性に従うならば、無限大に「科学的・合理的」であることはできない。必ず実現可能性で評価されねばならない。これが「技術論」の常識であろう。
次に、現実に対応できないようでは「工学」とはいえない。工学とはどこまでを取り上げ、どこからかを切り捨てることである。全てを救うことはできないのである。どうも日本人は1か0の議論が好きであるようだが、河川工学の基本高水論をめぐっても1を達成しようとして結果的に各地で災害が起こり、新潟水害などは破堤してはいけないカ所で破堤し、結果的に0となってしまっているのではないのだろうか。むしろ、大熊氏の主張するように「どこまで水害を受忍するか」を住民と共に行政が考え、その工学的基礎を提供することこそ必要なのではなかろうか。12月3日(土)午後1時から大阪弁護士会主催で「河川管理と住民参加」というシンポジウムが行われる。大熊氏を始め、河川事業の元締めである布村明彦国交省河川計画課長や吉野川第十堰の姫野雅義氏などが報告される。河川事業においても建設的・「工学的」・「技術的」議論を期待したい。
【出典】 アサート No.336 2005年11月26日