【書評】韓流の原点を求めて–辛基秀と朝鮮通信使の時代
(明石書店 上野敏彦 著 定価2500円)
(1) 映像で日韓の近世の歴史を甦らせた人
もう今は三年が過ぎた。畏友辛基秀さんを哀しく送る棺を、一緒に担いだ知人の上野敏彦さん(共同通信社)が、永年の努力の末、この本を上梓された。
一九七九年辛基秀は、「江戸時代の朝鮮通信使」の映像を作り世に出した。
江戸時代、二代将軍秀忠の時代(一六〇七年)秀吉の朝鮮侵略後の日朝の国交を修復し戦時、大量に、連行された被慮刷還を兼ねた五百名余の朝鮮大使節団が、初めて日本を訪れた。以後十二回に亘り、日本を訪れたこの使節団は、朝鮮通信使と呼ばれることになる。通信使と初めて聞けば、何やら文書のやり取りや、手紙の配達便と間違えそうだが、信(よしみ)を通ずる使節団という大変な国と国との友好使節であり、双方の文化交流を果たす代表団だったのである。約二百年に亘る国をあげての世界でも稀有といわれる友好交流の歴史は、何故か明治以後から、僅か二十余年前まで、日本でも、朝鮮半島でも触れられることなく、歴史の闇に隠されていたのである。この埋もれた史実に光をあて、世に知らせたのが、「江戸時代の朝鮮通信使」の映像であった。
「朝鮮と日本の双方に、大きな災厄をもたらした秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の後、僅か十数年を経ずして国交が回復し、善隣友好のシンボル、朝鮮通信使が往来した史実に接したとき、あの残酷な侵略を二度も受け、倶に天を戴かない筈の日本と、どうして友好が回復したのか……。」
江戸時代のこの史実の映像化、資料の発掘収集、製本に生涯をかけ、世に知らしめた、辛基秀の足跡をたどり、その功績を改めて甦らせてくれたのが本書である。
(2) 映像の影響と縁地連のこと
この映画の上映の反響は、大きかった。辛基秀が兄事していた姜在彦(当時大阪市大講師)は、「自分でも通信使関係の翻訳をして朝鮮と日本の友好の歴史を紹介してきたつもりだが、この映画のインパクトには、かなわない、江戸時代の絵巻物や屏風に描かれていた外国人は、南蛮人か中国人かの区別しかなかったのだから。」と語っている。
当時の朝日新聞の夕刊のインタビュー記事は、「こうまで反響を呼んだ理由は何でしょうか。」(日本の場合、最大の理由は、こんなにも明るく絢爛豪華な交流があったことを知らなかった、それも知らされていなかったという、もう一つの驚きがある。日朝関係の歴史といえば、秀吉の朝鮮出兵、明治以降の征韓論、日韓併合といった暗い面ばかり教えられてきた。明暗のコントラストがあまりにも大きすぎる。)ある雑誌編集者は、「このように歴史的事実に、ほとんど無知だった私自身が恥ずかしい。」との記事を残している。
辛基秀は映像上映後、この映画を作る苦労を問われて、「各地に残る歴史的資料にライトをあてるためには、所蔵者の合意を得ねばならず、一つ一つを紡いで行く作業は「明治百年の思想による傷を癒すようなあたかも現代における通信使の役割を背負ったようであり、歴史の持つダイナミズムの回復作業には当然なことかもしれない」と毎日新聞の取材に答えている。
韓国のソウル、釜山から対馬、下関、上関、下蒲刈、鞆の浦、牛窓、室津、兵庫、大阪、京都、朝鮮人街道と彦根、大垣、名古屋、静岡、箱根、江戸、日光と朝鮮通信使のあとを幾度となく訪ね歩き、通信使たちにまつわる書、屏風、絵巻物、祭りの踊り、民芸品など、全国各地に足繁く通い記録し、収集し、写経し尽くした辛基秀の努力の足跡を丹念に調べ上げ紹介してくれる。
また、この朝鮮通信使の取材の縁で、今日では、日光から対馬まで十八の自治体と二十七にのぼる団体により朝鮮通信使縁地連絡会が生まれ、毎年一回通信使にちなんだお祭りと、交流会を持つまでになっている。辛基秀は学者の域を出たオルガナイザーでもあったことが解る。著者は、これもよく伝えてくれる。
やがて、辛基秀は、究極の資料集として、「善隣と友好の記録」「大系、朝鮮通信使」全八巻(辛基秀、仲尾宏 共著)の大作を完成し後世に残すことになる。
(3) 雨森芳州や教科書へのインパクト
各縁地の中で、特に滋賀県高月町にある雨森芳州庵は、印象深い。通信使の一行をして「日東の(抜群の人物)」と言わしめた芳州の業績を発掘し多いに心酔して世に現した上田正昭(京大名誉教授)と共鳴した辛基秀は、芳州の志を、ともに多くの機会に訴えているが、一九九〇年韓国大統領として来日した盧泰愚が国会演説した際、「互いに欺かず争わず、真実を以て交わる」という芳州の言葉を引用したことから、今では、国内はもとより、韓国からも、修学旅行生などが相次いで訪れるようになっている。また、この映画がきっかけで、朝鮮通信使は教育の世界でもクローズアップされるようになる。「小学社会6年上」に、大阪書籍、東京書籍、教育出版などが、(鎖国の中での外国との交流)(江戸を訪れた朝鮮通信使)など教科書が出版され、高校中学校でもバラつきがあるが、出されるようになる。
教科書は一種類で国定教科書の韓国の社会歴史にも登場している朝鮮通信使の扱いも紹介されている。この影響はかなり大きいといわねばなるまい。
(4) 沙也可・姜沆・李眞栄父子など
この本では、この朝鮮通信使のみならず、辛基秀の歩んだあとを追って多くの足跡を紹介している。司馬遼太郎の「韓の国紀行」によって知られ始めた、秀吉の朝鮮侵略に参加しながら、「この闘いに大義なし」と叛旗をひるがえし、倭の降将となり、部下とともに、李朝の武将として活躍した「沙也可」一族の住む韓国友鹿洞を度々訪ね、その十四代世孫の金在徳さんを日本に招き、以後、日韓平和友好の砦として双方の交流、交友が始まったのである。
また、四国の大洲の城址に建つ、姜沆の記念碑の建立は、辛基秀自ら基金の訴えや、地元教育委員会等への進言によるものだった。
言うまでもなく姜沆は秀吉侵略のとき、武将でありながら捕虜の身であったが、口述で四書五経を伝えて、近世日本の教育の源となる儒学を最初に日本に伝えたとされる。
また、姜沆とは対象的だった李眞栄・梅渓父子の記念碑の建立も、辛基秀の史実発掘によるものだった。文禄の役(壬辰倭乱)で紀州徳川家に虜われたり真栄は、故国に戻ることなく藩主学問指南役に梅渓を出し、儒学を教え、後の八代将軍吉宗なども大きな影響を受けたといわれる。一九九二年には李親子の顕彰碑も故郷の慶尚南道霊山に曲折の末、建てられ、碑文には辛基秀の書が刻まれている。
(5) あらゆる差別と闘った人間愛
容量の大きな辛基秀の残した仕事の中に、写真集「日韓併合史」の出版と、三時間二十分に及ぶ長編ドキュメンタリー映画「解放の日まで」がある。この六年の歳月をかけたフィルムは、江戸時代の朝鮮通信使と表裏をなすものであり、かつての日本各地の炭鉱や山間僻地のダム、鉄道建設などで、劣悪な労働条件で働かさせた、朝鮮半島出身者たちの資料や証言を元にしたものである。
ここには、民族差別に抵抗し生きる人間として権利を主張して闘った一世たちの強さ在日の誇りが描かれる。
あらゆる人間の差別を憎み、民衆の生きる連帯を求めていた辛基秀は、今でも、南北朝鮮に根強く残り、在日韓国人の中にも一部残っているといわれる「白丁」差別と向き合い、衡平社運動と日本の部落解放運動との連携にも労を惜しまなかった。
韓国一の名城といわれる晋州城前に、衡平運動の記念碑が立ったのは一九九六年のことである。
辛基秀は、大阪環状線寺田町のガード下に青丘文化ホールを開いて、この本にも紹介される多面的な活動の場を提供し、援助していた。著者の言う複眼的見識を持つ辛基秀の人間性と博識にひかれた日韓朝の世代を問わない多くの文化人、活動家の出入りがあった。
この本は、青丘文化ホールで知り合ったこれら友人たちの思い出も甦らせてくれた。
最後に、辛基秀の足跡の隅々まで、丹念に探し追った、著者に、心からの敬意と謝意を述べたい。また、掲載されている中野重治さんの「雨の降る品川駅」と、アサートの同人であった故五十嵐武さんの追悼の詩を読みながら、読者の皆さんも、是非、読んでくださることを願って拙文を送ります。
秋田三翁(奈良の住人)
【出典】 アサート No.335 2005年10月22日