【投稿】『希望格差社会』を読んで

【投稿】『希望格差社会』を読んで

 正規の仕事に就かず、職が不安定な若者の数は400万人を越えると言われている。所謂フリーターという人々である。どうしてフリーターが増えてきたのか。彼らは今後も増え続けるのか。それが意味するものは何か。それを解明しようとしたものが、これから紹介する本書『希望格差社会–「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」(筑摩書房 2004年11月)である。
 
 著者は東京学芸大学の山田昌弘教授。パラサイト・シングル問題など現代の家族と若者の有り様を分析されてきた。こうした若者分析を踏まえ、それに留まらず現代日本社会が陥っている社会・経済状況を捉えようとされている。
 
 著者の結論を述べると、現代日本社会は、「将来に希望が持てる(少数の)人と、希望が持てない(多数の)人」に分裂しつつあり、それを「希望格差社会」と名づける。「希望格差社会」は、単に富めるものと貧しいものという現実の経済格差に留まらず、将来にわたって、富めるものと貧しいもの、将来に希望のもてる人と持てない人の格差が固定化し、二極化していく。それは経済的な格差だけでなく、心理的にも「希望」が持てない人々を固定化させる。希望が無いところには、努力も辛抱も苦労も回避する意識が生まれて、非合理的・非社会的な行動も生まれてくる。こうした流れに対して個人責任、努力だけでは抵抗できない。公共政策の介入が総合性とスピードをもって対応する必要がある、ということであろうか。
 
 本書の目的として著者は、現代日本社会の「リスク化」の実態を明らかにし、生活のあらゆる領域で、勝ち組と負け組が分かれていく状況を明らかにすること、そして「リスク化・二極化」が特に若者の心理に与える影響を明らかにし、その結果、将来の日本の社会秩序が脅かされる可能性について考察したいと述べておられる。
 
<リスク社会、社会の二重化・二極化の進行>
 著者によると、親と同居する成人した未婚者(20歳~39歳)が1200万人、未婚で若年のアルバイト雇用者(フリーター)は200万人、失業中の若者と未婚の派遣社員などを加えると400万人になり、さらに家庭の中にひきこもっている青少年50万人を加えると、500万人にのぼる若者が、従来型の正規就業者に含まれないフリーターとして現代日本に存在しているという。
 著者の分析によると、これらフリーターと言われる若者が出現してきたのは、1990年代以降である。それは、日本社会のリスク社会化が進み、同時に社会の二極化が進行していることと同時に進行しているという。
 本書の1,2章では、リスク社会・社会の二重化・二極化について分析されている。
著者はリスクを「何かを選択するときに生起する可能性がある危険」と定義し、特に1990年頃以降に、日本は急速にリスク社会に移行しているとされる。もちろん、日本特有の事象ではなく、先進国で共通の事象としてではあるが。
 1990年以降、つまりバブル経済の崩壊からの脱却過程において生起したのは、企業の急激なリストラやスリム化であったり、生産拠点の海外移転であったり、グローバリゼーションと呼ばれる経済の多国籍化の進展であろう。当初中高年のリストラが話題になったが、それ以上に企業が従来の企業内での職能形成–長期雇用形態から、中心的な労働者には長期雇用と待遇の確保をするけれど、それ以外は短期の外部市場からの調達ということで、派遣・パート労働者導入を図った時期でもある。(1995年から2001年の間に、正規労働者は125万人減少し、非正規労働者は175万人増加している)
 一流大学を卒業しても、就職できない。大学院を出ても希望する仕事がない。「生きがい」を求めて仕事を探しても求める仕事に就くことができず、アルバイトのような単純労働を続ける若者。親と同居することで、低賃金でも何とか暮らしてはいけるが、希望する仕事が就けない状況が続く限り、いずれ若者も30才を越えて、長期のフリーターとなれば、正規労働者への道は一層厳しいものになっていく。
 これらの現象は単に不況というだけでは説明がつかない。著者の分析は、若者の実態から積み上げている点で、非常に説得力があると思われる。
 
<家族・中間集団のリスク化>
 失業のリスクであったり、病気のリスクなど従来から予想されるリスクは存在していた。しかし、従来はそれらのリスクを緩和し、個人を守る機能を果たす中間集団が存在していた。家族、会社、コミュニティ、労働組合、業界団体などである。
 著者によれば、1990年頃を境にし、リストラ・失業による生活リスクが高まり、家族がリスクを引き受ける力が薄れるとともに、離婚や家庭崩壊と言われる状況のように、家族そのもののリスク化が起こっている。会社も社員を守る前に、会社のために社員を切り捨てるのが当たり前になるなど、中間集団が個人のリスクを引き受けられなくなってきた。益々、個人のリスク化が進んでいるという。
 そのような流れの中で、自己実現・自己責任という主張が出てきたが、著者は、現在進行している個人のリスク化は、自己責任という「やる気」で、果たしてすべての人が乗り切れるものなのかどうか、疑問を提起している。
 ただ、一般的に中間集団が個人を守れなくなってきているという評価と、労働組合がそうであるのか、は区別していただきたい、というのが私の意見ではある。本来連帯を基礎とする労働組合・労働運動は、個人のリスク化が進む現代こそ、その力を発揮すべきであり、その機能が発揮されていないなら、詳細な分析・評価が別途必要かと思われる。
 
<雇用・家族形態の変容>
 そこで、それ以前はどうであったのか。少なくとも高度成長期は、発展する経済・豊かな社会への移行期ということもあり、ローリスクな社会であった。大学卒業者はそれなりに、高卒ブルーカラーも工場労働者であっても流通関係にあっても、それなりの生活を維持することができたし、結婚や家族の形成においても、努力すればという前提付きで、「人並み」の生活ができたのではないかと。
 少なくとも教育と言う面では、学歴社会・受験競争と言われつつも、「選別と納得」というプロセスを経て、高い求人倍率も背景に、それぞれ個人は一定の生活を確保・展望することができていたという。(大いに議論のある所だが)。現在は、著者が「教育のパイプライン」システムと呼ぶ選別システムが、出口以後(就職)が保障されないという事から機能せず、一部の条件の整った家庭の子弟のみを除いて、教育のリスク化も進行しているとしている。(第7章教育の不安定化)
 著者は「サラリーマン-主婦型家族」を高度成長期の典型的な家族類型とし、比較的ローリスクであった時代を対照的に提起している。
 本書の第4章戦後安定社会の構造において展開されているが、数点を除いて概ね同感できる内容であろう。確かに、それは私自身の経験と照らし合わせても、同感できるものである。1960年代に少年期を過ごした私も貧しくはあれ希望は持っていた。職業的な技能を身につければ、なんとかやっていけると信じることもできた。数年先輩の世代は、大学闘争などあれだけ暴れまわるリスクを賭けても、企業社会で結構な地位に就いた人も多い。
 ただ、「サラリーマン-主婦型家族」が崩壊していく現実は、必ずしも否定的なものではない。女性の社会進出があり、旧来の「家族」の揺らぎは、新たな個人の確立の過程と見ることも必要であろう。
 
<希望の喪失–リスクからの逃走>
 こうして現代の若者は、現在も不安定だが、将来もまた不安定な生活しか望めないという意識を持たざるをえない。そんな中では、どのような行動が起こるのか。「努力が報われない機会」が増大していくとどうなるのか。
 著者は、特に1998年がひとつの転換点だと指摘する。1998年は、大手証券・銀行が破綻し、中高年を中心に自殺者が年間3万人を越えた年である。実質GNPがマイナス1%となる不況の年でもあった。貧しさ故の犯罪ではなく、犯罪のための犯罪が起こるようになる年だったとしている。フリーターは1999年から急増しているという。1998年に就職できなかった若者が、そのままフリーターとなった。企業は正規雇用を減らし、パート・アルバイトを増やす。彼らが不安定就労の供給先になった。
 希望があってこそ、苦労にも耐えられる。苦労しても報われないなら、苦労から逃れようとする。引きこもりの増加もこの時期だと指摘される。
 そして、彼らが30歳、40歳を越えても、単なる単純労働者で、年金未加入・職能的な熟練も得られないとすれば、言わば「フリーターの不良債権化」が進行していく。
 
<希望格差社会からの脱却は可能か>
 このように著者は、希望という言葉をキーワードに現代の若者の意識と行動を分析する。「ニューエコノミーが生み出す格差は希望の格差である」「ニューエコノミーが平凡な能力の持ち主から奪っているのは『希望』なのである」。
 では、希望格差社会からの脱却は可能なのか。著者は「個人的対処から公共的支援」の重要性を提起する。市場原理主義者達は、自己実現・自己責任が基本だとして、努力の結果報われないのは、個人の責任なのであって、せいぜい生活保護程度の「セイフティネット」の保障で十分と主張するが、著者はこの立場は取らない。むしろイギリス労働党の若者政策に近く、公共政策として職業訓練や能力開発策を充実させ、努力が報われるシステムを総合的にスピードを持って実施すべきだとしている。
 現在求められているのは、経済的課題であるとともに、それ以上に心理的なアプローチであり、苦労・努力に報いられる希望の再建だとされているのである。
 希望格差という切り口は中々新鮮なものがある。確かに、現在若者と家族、社会に生起している様々な問題を解明・説明するに足る議論だと思う。しかし、著者が希望格差社会を生みだした根本には、ニューエコノミー化でありグロバリゼーションの進展があるとしているが、この流れは止めることはできないとしている前提そのものは、果たしてそうなのかという議論は必要であろう。
 従来の企業社会の枠に収まらない新しい経済システムはありえないのか、どうか。単純な社会主義論ではない展望を持ちたいものだと思う。(2005-01-07佐野秀夫) 

 【出典】 アサート No.327 2005年2月19日

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