【投稿】憲法九条はわたくし達のほこり(吉村 励)

【投稿】憲法九条はわたくし達のほこり(吉村 励)

 昨年の6月大江健三郎氏らの創立した「憲法九条の会」は私達に勇気と運動の方向を与えてくれました。しかし、私達はこの「憲法九条の会」を単なる広告塔として孤立させず、草の根の「憲法九条の会」のネットワークでもって、おぎなわなくてはならないのではないかと思っています。都道府県毎に、都市毎に町や村毎に職場や町会やマンションや部落ごとに「九条の会」をつくりましょう。
 なぜなら、今年は憲法の年といわれ、議会はすでに3分の2以上が改憲勢力によって占められているからです。彼らが現実的行動(改憲)に出るまでに、彼らがたとえ議会で改憲を決議しても国民投票では必ず敗北するという予想を与えることが、彼らの改憲策動を封じる唯一の方法だからです。
 もちろん、私達は制定(1946.11.3)公布(1947.5.3)以来50数年を経過した憲法が個々の条文において古くなって改正を要するものがあることを否定しません。しかし、現在日程に上がっているのは個々の古くなった条項を口実とする憲法の全面的改定であり、日本を「普通の国」(戦争のできる国)に変えるための憲法改悪だからです。ねらいの中心は憲法九条です。それゆえに、私達は憲法九条を守りぬかなければならないのです。
 では、なぜ私達は憲法9条に固守するのか。
 理由は明瞭です。憲法9条は、戦争放棄を定めた世界にほこるべき条文だからです。
 では、何故、憲法9条は私達のほこりなのか?
 まず表1「1894~5年の日清戦争から太平洋戦争の敗北にいたる50年間(正確に言えば51年間)に18の戦争・事件・出兵を日本国民は経験していることを表は示しています。戦争・事件・出兵のなかったのは、1896年から1900年までの4年間、1901年からの3年間、1912・13年の2年間、1923年から26年までの4年間の計13年です。表では、満州事変の1931年(上海事件の1932年)から、日中戦争の37年まで5年間の空白がありますが、歴史書の多くが31年から45年までを15年戦争と規定しているように、中国では小規模の戦闘行動が続いていたと思われます。この5年間を平和期としても平和の年は18年間、後の33年間は戦争・事件・出兵の年でありました。ざっとした計算で51年間の6割6分が戦争の年であったのです。
 太平洋戦争までの戦死傷者は77万9000人(1000人以下は省略)で、太平洋戦争の戦死者500万人、市民の死者50万人(計550万人)を加えると627万9000人になります。(この死傷者の中には台湾征伐、義和団事件、朝鮮軍隊叛乱鎮圧、シベリア出兵、山東出兵<第1回~第3回>、上海事件、張鼓峰事件の死傷者は入っていません。私達の力不足で調べられませんでした。)
 この627万9000人の死傷者は、日本側の被害であり、相手方の被害は太平洋戦争までの戦死傷者約806万8000人です。これに太平洋戦争時の東アジア地域の死傷者1,882万人を加えると計2,688万8000人となります。(日清戦争、台湾征伐、義和団事件、シベリア出兵、山東出兵、満州上海事件の死傷者は入っていません。)
 日本側と相手方(もしくは被占領国)の死傷者の合計は3,316万7000人となり、これは実数をはるかに下まわるものと思われます。

     (参考)
     表1 1984年から1945年まで日本がかかわった戦争
     表2 太平洋戦争の人的被害の推計(死者のみ)

 これらのことを総括すると、日清戦争から太平洋戦争の敗北までの50年間は約7割が戦争の年であり、戦争被害者は3,300万人にのぼる「血塗られた50年間」であったといえます。
 この戦争の50年に比べて、1945年からの60年は、戦争はなく戦死者はなかった。憲法九条のおかげです。60年間の平和の時代と50年間の戦争の時代のちがいは、戦争に起因する死傷者ゼロの時代と3,300万人の死傷者に血ぬられた50年の時代とのちがいです。
 一人の死傷者に泣く人は、親兄弟姉妹、夫婦親族、友人、恋人をいれて平均10人と想定すれば、3,300万人の死傷者は、3億3000万人の涙の対象でありました。それ故に戦前の50年は、3,300万人の血にまみれた50年であり、3億3000万人の涙にぬれた50年であったといえます。
 私達は、憲法九条を「ほこり」と思うのは、まさにこの理由によるものです。60年間一人の戦死者もなく、戦争によって殺した一人の人間もないこと。私達はいくら世界に誇っても誇り足りないという自信をもつべきでしょう。
 もし、私達を「平和ボケ」という人があれば、戦前の50年間に戦争・事件で3,300万人以上が死亡し、3億3000万人以上が愛する人のために涙を流し、時には生活そのものの基盤を失ったことを忘れたものこそ「平和ボケ」だと、自信をもって言い返そうではありませんか。(2005・1・13)
 
(読者へのお願い:お気づきのように表1、表2ともに空白部分があります。この空白部分を満たす資料をおもちの方は御一報ください。今後も私達はこの空白を埋める努力をしますが、皆様にもご協力いただければ幸甚です。)

 【出典】 アサート No.326 2005年1月22日

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