【投稿】天皇家で何かが起こっている
今年は、天皇家をめぐる話題が多かった。
5月ヨーロッパ訪問を前に記者会見した皇太子は、「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と、いわいる「人格否定発言」を行い、宮内庁やマスコミを驚かせた。雅子妃は、昨年12月宮内庁病院に入院したが、後に「ストレスによる心身の不調」が原因として、今年の春まで静養すると発表されたが、このヨーロッパ親善訪問に行く事はできなかった。
後に、雅子妃の病名は、適応障害と発表され、うつ病に近いものであると公表され、雅子妃は結局今年一年間はほとんど公的な場に姿を見せることがなかったのである。
一方、こうした皇太子の発言に対して、11月に弟の秋篠宮が「私も少なからず驚いたわけですけれども、(天皇)陛下も非常に驚かれたというふうに聞いております。記者会見において発言する前に、せめて陛下と内容について話をして、そのうえでの話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは残念に思います」と皇太子徳仁を批判した。
このように、従来、当たり障りのない発言しかしてこなかった皇室が、極めて人間的に発言することに当初は少し困惑もしたが、天皇自身が、「(君が代・日の丸について)強制でないことが望ましい」との発言をするに至って、天皇家・皇室・そして日本の天皇制そのものに、明らかに軋みが生じつつあると気づかされた。
私自身の記憶を辿れば、現天皇の美智子皇后との結婚がテレビ報道されたことにはじまり、、日曜日だったか「皇室アルバム」というテレビ番組が天皇家の「暖かい家庭生活」や「子供たちの成長」を伝え、幸せとはこういう家庭なんだ、というほのぼののした意識を持って(持たされて)いた事が、私の少年時代の記憶の中はある。
もちろん私も成長と共に、反天皇制の立場になるのだが、昭和天皇がなくなり、平成天皇の時代になって以降、にわかに天皇と天皇家をめぐるマイナスイメージの話題が増えてきた。皇后の「やつれた様子」から、皇室内の不和話がマスコミを賑わしてきた。
そして、皇太子の結婚問題では、花嫁候補の名前が挙がっては消えていくという展開の後に、外交官キャリアの経歴を持つ雅子妃の誕生となった。結婚したからには世継ぎの誕生を期待され、女子の誕生となったものの、今度は、憲法改正論議も絡んで「女帝容認論」が話題になってきている。
専門家ではないので、簡単に言ってしまえば、極めて人間くさい皇室の有り様が表に出てきているということだろう。明治以来の天皇制を引きずりつつも、皇太子は明らかに現代人なのである。雅子妃が適応障害という「精神的疾患」になるほど、様々な軋轢が存在している事にも、天皇制をめぐる現代的な歪が伺えるのである。イギリスの皇室のように、皇太子の不倫が堂々と報道され、ダイアナ妃との離婚が起こるなど、何ら一般人と変わらない姿が見えるのが、現在の姿であるはずであろう。皇室という看板の重圧と現代人の皇室の軋轢は、確実に天皇制そのものの変化を生みつつあるのであろう。
昭和天皇の場合は、帝国憲法下の戦争遂行者と戦後の人間天皇という二つの面を持ち、古い天皇制を引きずってきたが、現天皇と皇太子には、戦争の匂いも消え、高齢者はいざ知らず、若い世代にとっては、尊敬の対象でも敬愛の対象でもない。象徴天皇制という現在の位置づけすらも、若い世代にとっては、どれ程意味のあるものなのかどうか。国民統合の象徴として天皇を位置づけること自体に無理が生じていると言わねばならない。豊かになり自由を謳歌している世代にとって、囲いの中で不自由な生活を強いられた存在である皇室に対してシンパシイすら感じないのが現実ではないのか。
一方で、日の丸・君が代を教育の場で強制しようとする意図が一層強まっている。しかし上記のような天皇を見つめる若い世代の現実は、回顧的ナショナリストにとって皮肉なことに見事に逆風と言わねばならない。静かに進行している変化は、皇室の中にいる個人の葛藤に集中的に生まれていると言える。昨年来の皇室を巡る出来事がそれを示しているのだろう。
従来タブーとされてきた皇室をめぐる議論は、今後一層広がる事だろう。まさに、情報公開の対象なのだから。(佐野秀夫)
参考文書:
★「皇太子・雅子夫妻・愛子さまと戦後天皇制のゆくえ」(無名性の会 山口保弘氏-社会運動 297号-)
★『「個人を尊重する皇室」が皇室の存在意義のそのものを揺るがす理由』(原武史氏 (文芸春秋社 日本の論点2005)
【出典】 アサート No.325 2004年12月18日