【書評】『戦争が遺したもの—鶴見俊輔に戦後世代が聞く』

【書評】『戦争が遺したもの—鶴見俊輔に戦後世代が聞く』
   (鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、2004.3.10.発行、新曜社、2,800円)

 戦後60年近くを経た現在の時点で、紆余曲折はありつつも、この時代を見つめ発言し続けてきた思想家・鶴見俊輔(1922年生)に、「戦後世代」の二人—-上野千鶴子(1948年生)と小熊英二(1952年生)—-が聞くというかたちをとっているのが本書である。聞き手である上野は、女性学、ジェンダー研究で周知の東大教授、小熊は、『〈民主〉と〈愛国〉』(2002年、新曜社)で戦後日本ナショナリズム研究に気を吐いている慶大助教授である。年齢的に約20年ずつ離れている三人の会話の話題は、多岐にわたる。
 さて本書は、小熊の「戦後」という言葉についての問題意識から始まる。
 「現代を指す言葉として『戦後』はいまだに使われている。それはおそらく、現代を言い表わすのに適切な言葉がほかにないという理由だけではない。対米関係や対アジア関係をはじめとした国際秩序や、さまざまな国内秩序が、戦争の余波のなかで『戦後』につくられた枠組みの範疇にとどまっているからでもあるだろう」。
 「考えてみれば、かれこれ六〇年も、『戦後』が続くというのは奇妙なことだ。しかし『戦後』を相対化するためには、『戦争が遺したもの』と向きあい、『戦後』を理解するべく努めることしかないであろう。いまだに『戦後世代』でしかありえない私たちは、いまだに『戦後』でしかありえない時代を生きてゆくなかで、そうした努力を迫られざるをえない」。
 三人それぞれの「戦後」についてのこだわりを持っての座談は、鶴見のジャワでの軍隊経験から、8・15、『思想の科学』創刊の事情、60年安保、ベ平連と進んでいくが、主たる語り手としての鶴見の視点は、一貫して日本の近代化を進めてきた指導的エリート知識人(「一番病」)への批判と向かう。
 「これは、これから話す歴史の見方でも、重要なんだ。一番病の人は、歴史の評価でも、はっきりした基準があると思っている。歴史の進歩があるとか、民本主義より社会主義が偉いとか、そういうものがね。そういう基準で、『これこれの点がこの人物の限界であった』とかいって、歴史上のできごとや人物を、今の立場から採点しちゃうんだよ。/そういうふうにならないためには、日付のある判断というのが、かえって重要だと思うんです。明治五年なら明治五年で、このときはこういうふうに、ここまで自力で考えた、とみなすんです。(後略)/そういう日付のある判断が、かえって未来を開くという逆説的な関係があるんだ。日付のある判断というのは、これが当時の限界だったと評価するんじゃなくて、ここでこれだけ考えられたのか、と考える。そうしたら今度は、その後に進んだのとは別の可能性や方向があったんじゃないか、と考えられるわけでしょう。その後に実現した一つのものが、進歩とは限らないわけで、もっと別の可能性があったということがわかる。そうでなきゃ、思想史とは言えないんだよね」。
 つまり鶴見は、歴史を「進歩と退行」として同時に考えることで、その時点にまでもどって、多元的な可能性を探ることの重要性を語る。そしてこの見方のできない近代日本の知識人たちをこう批判する。
 「私が戦争体験から得たことというのは、一つはこういう考え方なんだ。大学を出ている人が簡単に転向して、学歴のない奴のほうに自分で考える人がいる。渡辺清(『戦艦武蔵の最後』の著者、戦後は「わだつみ会」で活動—-引用者)とか、加太こうじ(紙芝居作家、評論家、代表作は『黄金バット』—-同)とか、小学校しか出ていないような人のほうに、自分で思想をつくっていった人がいる」。
 このような視点から戦後の運動が語られる。この視点は、例えば皇国史観や「正統的」マルクス主義史観一辺倒の断罪評価を反省し、自分で「つくる人」を目指すという意味で、鶴見が繰り返し言ってきたことである。しかしこれに対しては、その柔軟性がまた、アイマイ性につながるという点で絶えず批判を浴びせかけられることになる。その代表例として本書では、慰安婦問題で、鶴見も関わった「女性のためのアジア平和国民基金」(1995年)についての上野とのやりとりがある。
 鶴見は、慰安婦に対する賠償は日本の国家が関与を認めて賠償すべきで、その国家賠償ができるところまで、基金の設立からずっと押して行くべきだった、しかし金を集めることはできたが、渡す段階で受け取り拒否が出てしまったのは、「誤算だった」、「あそこまで拒否が広がって問題がこじれるとは予測していなかった」と発言する。
 これに対して上野は、「政治的な行為が誤算だとわかったときには、『結果は思わしくなかったが誠意はあった』という心情倫理ではなくて、結果に対する責任倫理が問われます」として、基金の人たちが、その場合の二つの選択肢—-個人的に責任をとって呼びかけ人を辞任する(三木睦子など)か、もしくは国民基金の方針を政治的に変えるよう努力する—-のいずれも取らなかったことを批判する。そしてこれについてどう責任をとるのか、またこの基金が残したものは何だったのか、と総括を迫る。
 「鶴見:私は少なくとも、それまで日本政府が公式には認めてこなかった慰安施設が存在したということを公開して、記録に残し、世の中にも広く知らせる火をつけたということ、それはできたと思います。国民基金が最低限できたことは、それ一点だと思いますね。
  上野:でも最初に火をつけたのは、日本政府じゃなくて、告発した女性たちのほうですよ。日本政府は火をつけられた方です。
  鶴見:それはそうですが、国民基金もその効果を担ったでしょう。
  上野:いまおっしゃった『火をつけたという意味で、国民基金はなかったよりはあった方がよかった』というのは、誰にとってよかったということでしょうか。私には、日本にとってよかった、日本人にとってよかったというふうに聞こえます。(中略)被害者の方にとってよかったかどうかは、どなたがどう判定なさるんでしょう。
  鶴見:『日本人にとって』なのかな。ああいう事実があったということを明らかにし、戦争というものを把握することは、アジアの人びと全体にとって必要だったんじゃないですか。被害者個々人にとっても、インタビューや記録などをきちんととられる機会になったと思いますよ。/もちろんそうした記録の作業などが積み重ねられて、それがもとになって私が関わったことへの批判が起きることは、甘受します」。
 ここには、上野の鋭い批判—-鶴見が「自分は叩かれつづけるサンドバッグになる」という覚悟を述べたとしても、「そのサンドバッグを叩きつづけなければならない立場に立たされる方にとってはどうでしょうか」—-に対するアイマイさと幅広さを持った鶴見の姿勢の特徴が確認される。
 この問題についてはここで小熊が割って入って、これに絡む日本の保守政治の現実に対する認識が問題とされるのであるが、上の点は今後、国民基金の総括で重要な課題として残されている。
 本書ではその他、鶴見の関わってきた運動での出来事—-60年安保の「声なき声の会」のデモ、1960・6・15(樺美智子が死んだ日)国会通用門前での吉本隆明とのエピソード、また1967・10・8の羽田闘争で山崎博昭が死んだ現場を反対側の土手から見ていたという話(ついでに言えば、上野は京大で山崎と同期で、そのすぐ後の11・8第二次羽田闘争に行ったという話も出ている)—-など、今から見て興味深い話も多い。
 さらには話が前後するが、60年安保の後、「さしあたってこれだけは」という共同声明—-谷川雁が起草し、鶴見、吉本、関根弘、藤田省三、武井照夫などが参加した—-について、当時まだ党員であった藤田が、共産党からの査問を受けたという話も注目に値する。藤田が余りに動揺するので鶴見が党本部まで付き添って行って、部屋の後ろの方に椅子を与えられて査問に同席した、また査問をする本部の二人の口調も丁寧で穏やかだった、というものである。およそわれわれが抱いている査問のイメージからは程遠いが、藤田(2003年5月に死去)に代ってこの話はしておかなければならないと、鶴見が語っている。後日談として、それから半年くらいしか経たないうちに、この査問に当たった二人—-内野壮児と内藤知周—-も、改革について共産党に進言したが除名されたという話もついている。
 以上のように本書は、戦後社会運動史の一側面を、鶴見の関わった時点と人間関係から照らし出すものであり、公的な歴史とは一味違った運動史となっている。もちろん鶴見の視点の妥当性、有効性については今後検証評価されていかねばならないであろうが、社会運動が人と人とのつながりである以上、こうした側面の解明は重要である。
 本書全体を通じて、運動に対する鶴見の大きな肯定と否定—-それは鶴見の自己自身への退行計画と日常生活レベルでのアナーキズム(非権力)という姿勢の結果として出てきたものと筆者は見るが—-と、諸問題に対する小熊の真面目な姿勢が印象深い。これと比べれば上野の質問には、女性問題に関しては鋭いところがあるとはいえ、批判枠の狭さ、頑なさを感じさせる。
 なお鶴見には、自叙伝風の対話本(『期待と回想』上・下、1997年、晶文社)もあるので、参考にされたい。(R)

 【出典】 アサート No.321 2004年8月21日

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