【書評】池田晶子『14歳からの哲学──考えるための教科書』
(2004.3.20.発行、トランスビュー、1,200円)
「試しに訊いてみようか。生きていることはつまらないって悩んでいる君、じゃあ生きているとはどういうことなのか、わかっているのかな。生きていることはつまらないって君の言う、その『生きている』とはどういうことなのか、本当にわかっているのかな。
生きているってことは・・・・・生きていることです。ほら、君はそれ以上まだわからないね。だからこそ、これから、考えるんだ。悩むのではなくて、考えるんだ。さあ、生きているということは、本当は、素晴しいことなんだろうか、つまらないことなんだろうか。『生きている』って、そもそもどういうことなんだろうか。」
本書は、このような問いかけで、中学~高校の年代に当たる14歳の読者に、「悩む」ことではなく、「考える」ことを呼びかける。平易な表現による—-しかしその内容は必ずしも平易ではない—-哲学的書物であり、大人が読んでも考えさせられる書である。上の問いかけは次に、ソクラテス風にこう展開される。
「生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるのか。それが僕にはわからない。だって、それを思うことができるのは、僕が生きているからなんだけど、僕には、僕が生きているということがどういうことなのかが、わからないんだ。でも、それがわからなければ、生きていることがすばらしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるんだろうか」と。
この問題を捉える手がかりとして、「言葉」が取り上げられる。著者の視点は、「言葉」という媒介—-それは次には「観念」という媒介に発展するが—-によって、「自分」、「心」とこれにつながる世界を規定していこうとするところにある。
「言葉は自分の中にある、と君は思うだろうか。なるほど、自分が話し、自分が書く限り、言葉は自分の中にあると言いたくなる。でも、言葉の意味を決めたのは君じゃない、(後略)。だとしたら、言葉は、自分の外にある。言葉というものは、自分の中にあると同時に、自分の外にある、そういう不思議な存在なんだ。だとすると、この『自分』ってそもそも何だろう。それは、君がそう思っているほど、確かな何かなんだろうか」。
ここから著者は、「現実とは目に見える物のことである、とただ思い込んで」いる大人に対して、「言葉こそが現実を作っているという本当のこと」を主張する。すなわち「目に見える物は、目に見えない意味がなければなく、目に見えないこともまた(美、正義、善等々—-引用者)、目に見えない意味がなければない。『犬』という言葉がなければ、犬はいないし、『美しい』という言葉がなければ、美しい物なんかない」。「言葉がなければ、どうして現実なんかあるものだろうか」というわけである。
同様のことが「自分」の「体」と「心」についても言われる。外見の「体」(物質としての体)に対して、「内から感じる体」、すなわち「調子がいいとか悪いとかの感じそのもの」は、目に見える物ではない。この意味で「体というのは、見えるけれども見えないという不思議な二重のあり方をしている」。そしてこの目に見えない「思いや感じ」を「心」と呼ぶとすれば、「目に見えない体とは、じつは、心のことではないだろうか」ということになる。
かくしてここに目に見える物によって説明をしようとする「科学」では説明できない「心」が、本書の中心に据えられることになる。では、この「心」とは何であるのか、それは、こう説明される。
「『心』という言葉があるせいで、人はつい、そういう何かが物みたいにどこかにあるようなつもりになってしまうけど、その意味では、心なんてどこにもない。だって、君が悲しい気持ちでいる時、その悲しい気持ちはどこにあるだろう。(略)ただ悲しいという気持ちが明らかにあるだけじゃないだろうか。(略)その悲しいという気持ちが、すべてを悲しくしているんだから、その意味では、心とは、すべてなんだ。体のどこかに心があるのではなくて、心がすべてとしてあるんだ」。
換言すれば、世界は、「自分が見ているその光景」であり、「すべてが自分として存在する」。この「自分」とは、この「小さい自分」であるとともに、「大きい方の自分」につながるという意味で、「自分は自分でしかないことによってすべてである」とされる。
このように著者の立場は、「言葉」によって(それ故「観念」によって)囲まれた世界—-それはまた全宇宙であり、自分でもある—-を確立し、そこから、家族、社会、規則、友情と愛情等々を論じていこうとする。そしてそのそれぞれの項目においては、それなりの、時には鋭い主張がなされている。しかし「現実」の社会に関わる側面では、例えば、こういう問題を含む姿勢となる。
「で、『社会』というのは、明らかにひとつの『観念』であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。(略)『社会』は、観念として自分や皆の『内に』存在しているものなんだ」。
つまり、社会とは、皆が思っている観念の外への現れであり、人びとの思い込み(幻想)であるとされる。
「社会がそうなら、国家というものもそうなんだ。『日本』という国が、国旗や国歌や国土以外のものとして存在しているのを、君は見たことがあるかい。(略)その日本なんて、どこにもない。人々の観念の内にしかない。なのに人は、『日本』という国家が、外に物のように存在していると思って、それが観念であることを忘れて」行動している、と著者は言う。
ここに至って、著者の視点の意味するところが明確に浮彫りにされる。「社会」「国家」は、共同幻想体としてのみ、人々の「観念」の中に存在しているに過ぎないとされるわけである。この姿勢は、他の項目、例えば規則と自由について考える章でも、規則に対する個人の関心の有無によって、自由を感じるか否かを論じるという個所でも例証されている。
それ故ここからは、社会を変えていこうとする視点では、現実の諸矛盾を認識、分析して運動を構築していこうというのではなく、「社会を変えようとするよりも先に、自分が変わるべきなんだとわかるな」とする方向が説かれることになる。
以上簡単に見てきたが、本書には、自分の頭で考えていくことを強調する割には、それが社会での動きとどのような関係を有しているかについての視点が決定的に弱いようである。デカルト風の考察による自己の精神の確立と、カント的理性吟味の論議から、論理実証主義的言語世界へと進む本書の展開は、「観念」による「幻想共同体」へと至る。しかし「現実」の視点から言えば、自分の頭で考える行為自体が—-心の形成、意識自体が—-社会性を持っていること、さらには社会、国家等々が、幻想ではなく、さまざまな抑圧機構—-露骨な暴力的抑圧装置から社会的教育的イデオロギー的制度に至るまで—-を通じて、日常的に人々を管理していることを看過するわけにはいかないであろう。
社会的にいろいろと話題を呼んだ書ではあるが、本書が話題性を持ったということ自体が、現代社会のメディアシステムによってであった、ということは事実である。このことが本書の最大の特徴であるとするのは、皮肉に過ぎるであろうか。ともあれ自分の頭で読んで考えてみる書ではある。(R)
【出典】 アサート No.319 2004年6月26日