【資料紹介】「9条の生みの親」を知ろう

【資料紹介】「9条の生みの親」を知ろう
      1、田英夫議員のHPより
      2、亀田得治弁護士の弁論より

 以下に紹介するものは、2004年3月16日発行の、田英夫とジャーナリストの会「直言極言」第13号、「 ◎憲法の原点を見つめよう」に紹介されたものである。憲法九条の戦力放棄を明確に規定した「9条の生みの親」は、実はアメリカから押し付けられたものではなく、日本帝国主義の敗戦の年、1945年10月に内閣を組織した幣原喜重郎首相であったという、しかも幣原氏自身が、思い付きや、「一時的なものではなく、長い間考えた末の最終的な結論だ」と語っているという、これまでほとんど知らされていなかった貴重な事実である。
 「こんなことを知っていましたか?」と筆者の大先輩である小坂貢さんに聞くと、「いや初めて聞いた」と言って、すぐに朝日新聞社発行の『現代日本 朝日人物事典』で幣原喜重郎の項を調べていただいた。そこには幣原喜重郎について江口圭一氏が相当詳細に解説し、「外人記者と会見する首相」の写真が掲載されており、その説明にも「知米派、反軍といった評判で首相に就任したが、時代の流れはそうしたレッテルのはるか先に進んでしまい、晩年は保守色が目立った」と記されてはいるが、「9条の生みの親」であったという最も重要な事実についてはまったく触れられてはいない。これを書いている筆者自身も、学生時代に「憲法研究会」等で活動してきたにもかかわらず、そうした事実を知らなかったし、多くの憲法学者の著作からもそのことを知り得なかった、あるいはひょっとして見過ごしてきたのかもしれないが、この「直言極言」第13号を見るまで、少なくともその重要性を指摘したものにはめぐり合わなかったという情けない現実である。今からでも遅くはないので、ここに紹介する次第である。(生駒 敬)

▼「9条の生みの親」を知ろう

田英夫 憲法についてよく「押しつけられたもの」という説があるが、憲法9条は、実は当時首相だった幣原喜重郎さんが考えてマッカーサーに提案したものだった。

 彼は、第1次大戦後、不戦思想が世界に広がっている時期の外相だった。1921年(大正10年)のワシントン軍縮会議の代表でもあった。戦後首相をしたのだが、引退後に平野三郎さんという衆院議員に話したことが残っている。実に明瞭に言っているから、君たちも読んでほしい。幣原さんは同じようなことを著書、「外交50年」(原書房、1951年)で書いているけれどね。(注1)

 要するに、「戦争をなくすには世界中が軍備を廃止するのが一番良いが、それができないならまず日本がやる」というんだ。確かに今までの常識では非武装宣言は狂気の沙汰だが、では、戦争のための武装は正気か、という。世界は一人の狂人が必要だで、そうならないと蟻地獄から抜け出せない、というんだ。彼の話はマッカーサーの米議会での証言にも裏付けられている。マッカーサーは最後に幣原の影響を受けたんだろう。

「米国は戦争廃棄の用意があるというべきだ」という非武装論者になったような発言もあるよ。(注2)

 -確かに、これを読むと感動しますね。戦争をしてはいけない、という決意はすごい。こういう話を無視してはいけないですね。

 注1:「幣原提案」についての文書
 「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について-平野三郎氏記」(内閣憲法調査会事務局、1964年2月)の抜粋。

 ○平野:第9条は占領下の暫定的な規定か。

 ○幣原:そうではない。一時的なものではなく、長い間考えた末の最終的な結論だ。

 ○平野:丸裸のところへ攻められたらどうする。

 ○幣原:一口で言えば「死中に活」だ。確かに今までの常識ではおかしいが、原子爆弾ができた以上、世界の事情は根本的に変わった。それは今後さらに発達し、次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小の都市が灰燼に帰すだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。

 ○平野:日本だけがやめても仕様がないのでは?

 ○幣原:世界中がやめなければ本当の平和は実現しない。しかし、実際問題としてそれはできない。すべての国はその主権を捨てて世界政府の下に集まることは空想だろう。しかし、少なくとも各国の交戦権を制限できる集中した武力がなければ世界の平和は保てない。
 二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生すると、平和的交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、威嚇手段として使われる。したがって二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され、ついに武力衝突を引き起こす。だから、戦争をなくすための基本は武力の統一だ。例えば軍縮が達成され、各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が世界警察として存在し、それに反対して結束するいかなる武力の組み合わせよりも、世界警察の方が強力というような世界だ。
 このことは理論的には昔からわかっていたことだが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾が出現した以上、いよいよこの理論を現実に移すときが来た。

 ○平野:そのような大問題は、大国どおしが話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならないではないか。

 ○幣原:負けた日本だからこそできる。軍拡競争は際限のない悪循環を繰り返す。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられないネズミの大群と似た光景だ。要するに軍縮は不可能で、可能にする道は一つだけだ。

 それは、世界が一斉に軍備を廃止すること。もちろん不可能である。ここまで考えを進めてきたとき、第9条が思い浮かんだ。「そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てたとしたら―」。
 非武装宣言は、従来の観念からすれば狂気の沙汰である。しかし武装宣言が正気の沙汰か? それこそ狂気の沙汰というのが結論だ。要するに世界は一人の狂人を必要としている。自らかって出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 ○平野:他日、独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらどうするのか。

 ○幣原:我が国の自衛は、徹頭徹尾「正義の力」でなければならないと思う。
 その正義とは、日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な世論に裏打ちされたものでなければならない。そうした世論が国際的に形成されるように必ずなる。なぜなら、世界の秩序を維持する必要があるからだ。

 ある国が日本を侵略しようとする。それが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。その第三国は、日本との条約の有無にかかわらず、日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するに、これからは世界的な視野に立った外交の力によって我が国の安全を守るべきで、だからこそ「死中に活」があるというわけだ。

注2:1951年5月5日、米議会上院軍事外交合同委員会公聴会でのマッカーサー元帥の証言(幣原平和財団「幣原喜重郎」=1955年刊=から)
「幣原首相は『長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争を無くすことだという確信にいたり、ためらいながら軍人のあなたに相談に来ました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないと思うからです』『私はいま起草している憲法に、そういう条項を入れる努力をしたい』といった。私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って『最高に建設的な考えの一つだ』『世界はあなたを嘲笑するだろう。その考えを押し通すには大変な道徳的スタミナを要する。最終的には(嘲笑した)彼らは現状を守ることはできないだろうが』。私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れた」

1955年1月26日、米在郷軍人会ロサンジェルス郡評議会主催正餐会でのマッカーサー元帥のスピーチ

「首相が来て、国際的手段としての戦争を廃止すべきだと主張した。賛成した私に『世界は私たちを夢想家と嘲笑するだろうが、百年後には予言者と呼ばれるだろう』といった。遅かれ早かれ、世界は生き延びるためにこの決定をしなければならないが、それはいつか。それを学ぶ前に、われわれはもう一度戦わなければならないのか。(略)先人たちが新世界に出会ったときのように、われわれは新しい考え、新しい思想を持たねばならない。われわれはいまこそ諸大国と協力して戦争廃棄の用意あることを宣言すべきだ。」

日本国憲法第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

【追加資料紹介】  
      自衛隊法違反事件裁判での亀田得治さんの意見陳述

 以上のような事実について筆者は、他にも幾人かの人々に尋ねてみたが、皆虚を突かれた感じであった。この4月3日に大阪で開かれた、自由ジャーナリストクラブなどが主催した「戦争と報道を考える集い」でも、筆者は講師の原寿雄さんに質問をする形でこの憲法第九条の生みの親の件について紹介し、尋ねてみたのであるが、やはり同様の反応であった。ところがその後、この集いに同じく参加されていた弁護士の松本健男さんから、以前に亀田得治さんが同趣旨の発言をされていることを教えていただき、公判での陳述資料を送っていただいた。貴重な資料なのであわせて以下に紹介したい。以下の発言は、1971年10月14日に開かれた新潟地裁での自衛隊法違反事件での弁護人としての発言であり、自衛隊は憲法第九条第二項に違反するとの理由をもって控訴棄却を求めた弁護人による意見陳述である。

亀田弁護人 約六〇分しか時間がございませんので、きわめてかいつまんで私の意見を申し上げたいと思います。
 その第一は、憲法九条の由来と意義ということを若干申し述べたい。憲法第九条は日本国憲法の最大の柱である。そしてまた世界で初めて完全非武装というものを明記した条章である。その条章が本件裁判において論争の対象になっておるわけです。私は、第九条についての詳細な法律論、あるいほその法律論の裏付となる自衛隊の実態論、こういうようなことについては他の弁護人から詳細に申されると思いますので、一切省略いたします。
 ただ、私が長い間国会活動の中で、憲法問題には相当集中的に取り組んだつもりでありますが、その中で得た各種の資料に基づきまして、若干歴史的にこの問題を見てみたいと思うんです。なぜならば、この第九条を正しく理解するためには、単なる文字だけの解釈、簡単な条文ですからいろんな理屈がつけられると思いますが、それだけでは足らないわけでありまして、どうしても成立当時の事情というものを頭に入れてもらわなけれはならないと思うのであります。こういう立場から申し上げまして、いろいろ問題があるわけですが、二つだけ私、この際申し上げたいと思います。
 その一つは、この憲法第九条、これは敗戦という悲惨な日本民族の体験の中から日本人自体が生み出した歴史的な所産なんだと、このことをひとつ大きな問題として考えていただきたい。日本国憲法については、たとえば総司令部から押し付けられたとか、いろんな憲法改正論者からの非難がご承知のようにございます。
 当事総司令部が若干日本国憲法の制定について介入したという事実、これは私も認めます。しかし、その介入の基は何であったかと、むしろ日本人としてはそこを反省すべきなんです。当時日本政府が閣議等で議論をしておりましたのは、松本国務大臣を中心として作っていた松本試案です。これは裁判所もご覧になっておるかもしれませんが、旧憲法と本質的には殆ど変りません。とてもそんなもので日本の民主化が進むようなものではありません。そこに司令部の介入があったことは、はっきりしている事実なのであります。
 しかし.そういう中においても、この憲法第九条だけは全く違った立場でこれが生まれたということを、本当に考えていただかなけれはならないと思います。端的に言うならば、この第九条は当時の幣原総理が初めて提案したものであります。幣原総理は、当時の閣議において絶対非武装というふうな自分の考えを持ち出しても、とてもそれに対して同調Lてくるような大臣諸公ではないと、そういうふうに見抜いていたようであります。
 それで幣原総理は、まずこの考えを総司令部に納得させる必要がある。これは窮余の策ですね。そうして総司令部の意向という形で出てくれぱまとめやすいと、こう考えたようであります。で、彼はそういう立場から、一人でマッカーサーに面会いたしました。これが昭和二一年一月二四日であります。
 丁度その前に幣原総理がかぜをこじらせて、何か肺炎になりかけたんですが、そういう時に、司令部のほうからぺニシリンをもらったようです。これは非常にきくからと、それをのんで直ったと、それで幣原さんとしては、薬をもらってそうして病気がよくなった、その礼を述べに行きたいというふれこみで、この日出かけたわけであります。本当に自分の気持をほかの諸君に悟られたくないという気持で、そのようなふれこみで行ったものと思います。
 当時のことはいろんな文献にも残っておるんですが、たとえばマッカーサーの書きました回想記、これは方々で引用もされる文章でありますから、裁判所もご覧になっているかと思いますが,しかし大事な歴史的な事実でありますから、ぜひ一つご記憶喚起の意味で聞いていただきたい。
 それによりますと、「幣原男爵は、一月ニニ日の正午に私の事務所を訪れ、私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は、男爵がなんとなく当惑顔で何かをためらっでいるらしいのに気がついた。」少しもじもじしておったんでしょう。言いにくかったんですが、「私は男爵に、何を気にしているかと尋ね、それが苦情であれ何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はない、と言ってやった。首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくい、と答えたか、私は、軍人だって時折言われるほど勘が鈍くてがんこなのではなく、たいてい心底はやはり人間なのだ、と述べた。首相はそこで、新憲法を起草する際、戦争と戦力の維持を永久に放棄する条項を含めではどうか、と提案した。」
 その提案の理由をその次に若干説明しておりますが、それに続いてマッカーサーの言葉ですが、「私は腰が抜けるほど驚いた。長い年月の経験で、私は、人を驚かせたり異常に興奮させたりする事柄には殆ど不感症になっていたが、この時ばかりは息も止まらんはかりだった。」と、こういう表現です。それからその幣原さんの提案にマッカーサーがそういう形で同意し、非常に両者の息が合ったようです。
 幣原さんがその事務所を退出する時のことを続いて書いておりますが、「私の事務所を出る時は、感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら私のほうを向いて」、あとは幣原さんの言葉ですが、「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし百年後には、私たちは予言者と呼ばれますよ、と言った。」と。こういう事実、これを私は大事な事実として把握をしてほしいと思うんです。
 憲法第九条は、そういう意味で、当時の日本の代表者である幣原首相自身が戦争の苦い経験の中から考え出し、また当時の多数の国民の賛同を得て、そうLてこれが生まれた。本当にこれほもう歴史的な産物、世界でただ一つの条文、世界史的な意義を持っておる大事な産物だと私は思うのであります。
 それからもう一つ、私が特に裁判所に申し上げたいことは、そのようにしてできました憲法第九条、これに対する憲法制定議会における吉田総理の説明があるわけです。これも専門家の間では全く周知のことだと思いますが、しかしこれはきわめて大事な問題点でもりますから、再現をしたいと思うのであります。
 私は憲法第九条が完全非武装を決めたものであると、これはもう先ほどから申し上げた成立の過程自身で明らかであると思うんです。いわゆる政府が言うように、防衛のためなら戦力を持っていいんだと、そんな考えであれば、そんな考えは何もそれほど珍しいものではないし、マッカーサーにしたって腰が抜けるほど驚くわけはないんです。
 こんなことは明確でありますが、正式の憲法制定議会において、吉田総理が、この第九条について、これは完全非武装ということを決めたんだということを明確に公式の場で答えておるんです。これは普通の法律と違いまして、これは大事な説明だと私は思います。
 一つは、衆議院において昭和二一年六月二六日原議員の質問に対するものです。「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしておりませんが、第九条第二項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争もまた、交戦権も放棄したものであります。」と。これはよく言われることでありますが、自衛権自体はこの際も認めておるわけです。但し、自衛戦争はそれと区別してはっきり否定すると、これはもう明確な説明ですね。
 ところが、更に昭和二一年六月ニ八日、野坂議員の質問に対する吉田総理の答弁です。これはもっと明確な形でこの点を点を強く断定的に答えております。読んでみますと、「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることが有害であると思うのであります。」、ここで拍手が起きております。「近年の戦争は、多くは国家防衛権の名において行なわれたことは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが、たまたま戦争を誘発する所以であると思うのであります。」。ずっと続けて最後に繰り返して、「正当防衛権を認めるということ、それ自身が有害であると思うのであります。」と、「ご意見のごときは、有害無益の議論と私は考えます。」と、ここでまた議場では大きな拍手が起きております。
 つまり、正当防衛権に基づく戦争ならいいではないか、というような主張は有事無益だと、こうまで言い切っておるんです。こういうわけで吉田総理の説明、これは誠にはっきりしておるわけであり、またこの説明に対して、議場内だけではなく、大多数の国民が、当時これに対してはっきりと賛意を表明しておるわけであります。
 私は、憲法第九条をどう理解するか、解釈するかという場合に、こういう大事な、二つの事実、これを抜きにして考えることはできないと思うのであります。われわれの見解からするならば、そういう歴史的事実というものを念頭に置いておれば、憲法第九条、これはもう一見明白であります。完全非武装、一見明白であります。それに対していろんな異論を唱える。これはもう全く政策的な立場からする、殊更にする議論としか考えられません。
 私が先ほど申し上げた幣原総理の憲法第九条に対する提案、これに対してもいろんな改憲論者からの異論があります。それは幣原の提案であったかどうかわからないと、憲法改正運動に有利になるようにするためにそういう議論を投げかける人があります。しかし、この点については、私は先ほどマッカーサー自身の回想記だけを引用したのでありますが、そのほかにもたくさんの資料がそろっておるわけです。従ってその事実と、今申し上げた憲法制定議会における誠にほっきりした考え方、この二つを土台にして、ひとつ憲法第九条というものを正しくやはり見てほしいと思うのであります。

 【出典】 アサート No.318 2004年5月22日

カテゴリー: 政治, 歴史, 生駒 敬 パーマリンク