【書評】『疑似科学と科学の哲学』

【書評】『疑似科学と科学の哲学』
      (伊勢田哲治、2003.3.10.発行、名古屋大学出版会、2,800円)

 『疑似科学と科学の哲学』と題する本書は、科学哲学の書として「科学」自体を分析の対象とするのではなく、現代の正統派の科学(物理学、化学、生物学等)の立場からは「科学のようで科学でない」として批判否定されている「疑似哲学」を分析の対象とする。「疑似科学」とは、創造科学(ダーウィンの進化論を認めず、キリスト教の聖書の天地創造を正しいとして、これに「科学的な」根拠を提示しようとするもの)、占星術、超心理学、中国医学、ニューサイエンス等の分野を指すが、著者は、これらと正統派の科学とを区分する、いわゆる「線引き問題」が、なかなかすっきりしない困難な問題であることを指摘する。
 例えば、科学と科学でないもの(疑似科学)との「科学らしさ」には、「はげ頭論争」に似た関係があるとされる。それは以下のようである。
 「前提1:はげでない人から髪を1本抜いてもはげにはならない。
  前提2:髪が10000本ある人ははげではない。」
 これについて著者は、これらの前提を認めると、「髪が9999本ある人ははげではない」という結論が導かれ、さらに「髪が9998本ある人ははげではない」という結論が導けて・・・・遂には「髪がゼロ本でもはげではない」という結論が導けるとする。つまり科学と科学でないものの区別はつかなくなって、本質的な差はないことになる。
 しかしこれについては、「何かおかしい」ということで誰でもが一致する。それでは「明確な線を引けないけれども厳然と差はある」ことについて、どう考えていくのか、というのが著者の問題提起である。
 ここから著者は、さまざまな科学論—-クーンのパラダイム論、ポパーの反証主義、「過小決定」の問題、ラカトシュのリサーチプログラム論等—-を取り上げて検討する一方で、科学における「観察の理論負荷性」や「通約不可能」についても言及する。これら諸項目については、本書で詳細に述べられているので、そちらを見ていただきたいが、いずれの検討も困難な事柄が出てきて、線引き問題は解決に至らないことが示唆される。
 そこで著者は、別のアプローチ—-「線を引かずに線引き問題を解決する」方針を探る。それは一つには「統計的検定」よって確率(頻度)を計り有意を得る方法であるとされる。これは、二つのグループ間の違いを知るために、逆に、「二つのグループ間には違いがない」という仮説(ゼロ仮説)を立て、そしてこの仮説が棄却されることで、間接的に本来の仮説=「両者に違いがある」ということが支持されるというものである。しかしこの方法は、適用範囲が狭く融通のきかない面が多いので、これをもう少し融通のきく方法で補おうというのが、ここで提唱される「ベイズ主義」である。
 「ベイズ主義」とは、推定統計学の一つの立場で、確率を徹底して主観説の視点から理解していこうとする。つまり、「仮説の確率=確からしさとは、われわれがその仮説をどのくらい信じるか、という『主観的』な信念の度合いを表わしている」とする。要するにベイズ主義の手法とは、事後確率(証拠Xを考えに入れた後の仮説の確からしさ)を、事前確率、予測確率、裏予測確率(これらについても詳細と事例は、本書で読んでいただきたいが)から導き出すというものであり、「ベイズ主義が扱うのは、われわれと独立に起きている世界の出来事ではなく、それについてのわれわれの認識である、という意味での『主観的』な確率なのである」。「そして、そうした確率のわりあては、科学的方法論が客観的でありうる限りにおいて十分客観的でありうる」とされる。
 すなわちわれわれは、まったくの真空でものを考えるのではなく、「常に背景情報のもとで」考えているのであり、この「背景情報」のもとでの、ある仮説の確率、信念の度合いを検討する。そうすると、背景情報から考えてみてあり得ないようなものに対しては、高い事前確率を与えるわけにはいかないだろう、というわけである。
 冒頭であげた「はげ頭論法」問題では、ベイズ主義では、このように解決される。
  「前提1:ある人から髪を1本抜いてもその人がはげかどうかについての信念の度合いはほとんど変わらない。
  前提2:『髪が10000本ある人ははげだ』という信念の度合いは極めて低い。」
 この二つの前提からは、先に述べたような論法(「髪が9999本ある人は・・・」、「髪が9998本ある人は・・・」)を採用しても、「したがって髪が0本の人がはげだという信念の度合いは極めて低い」という結論は導けない、と著者は主張する。何故なら、髪1本についての信念の度合いは、「ほとんど変わらない」が、それが積もっていく間に(髪が0本になるまでの間に)、前提2の「信念の度合い」が「極めて低い」から、100%近くまで押し上げていくことがあり得るからである。
 このような「程度」思考を、疑似科学にも適用すれば、疑似科学が科学であることの必要十分条件の厳密な検討で悪戦苦闘しなくても、「ある分野がどれくらい科学か」をはかることが可能になるだろうというのが著者の方針である。
 「つまりどの物差でみても成功した科学(正統科学—-引用者)とほとんど類似性がない分野は、やはり『はげ』だと見なされることになろう。わたしの提案は、線引き問題をこういうイメージでとらえなおすべきではないか、ということである」。
 このように本書は、疑似科学を対象としながら、科学の本質がどこにあるかを考察し、その問題解決として「程度」思考を提唱する。そしてこれは、科学の本質規定のみならず、科学政策の意思決定にも有効に寄与することが示される。やや専門的で読みづらい部分もあるが、しかし「科学」に対するこのような方向からのアプローチは興味深く、科学についての別の視点を与えるという意味で刺激的な書である。(R)

 【出典】 アサート No.316 2004年3月20日

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