【書評】山本晴義著 『対話 現代アメリカの社会思想』
(2003.10.30.発行、ミネルヴァ書房、2,800円+税)
現在何事につけても話題に上がるアメリカについては、数多くの著作が現わされて、政治・経済・軍事・民衆等さまざまな側面が論じられている。しかしその中で、現代アメリカの社会思想に関する著作は、本書をもって嚆矢とする。本書は、これまでのアメリカ研究からスッポリと抜け落ちていた側面を照らし出す。この点に注目した著者の慧眼に敬意を表したい。
さて本書は、現代アメリカの社会思想を第二次世界大戦から今日に至るまで包括的に記述する。章立てに従うならば、(Ⅰ)戦後「アメリカ・リベラリズム」の発展、(Ⅱ)六〇年代「アメリカ・リベラリズム」の崩壊とニューレフト、(Ⅲ)八〇年代アメリカ「新保守主義」の台頭、(Ⅳ)八〇年代アメリカの左翼–アメリカの「フランクフルト学派」、(Ⅴ)グローバリゼーションとポストコロニアリズム、と戦後アメリカがたどってきた道筋を追っていく。
この道筋は、戦後直ぐの「アメリカ・リベラリズム」が六〇年代に崩壊し、ニューレフトの登場によって新しい局面が開かれるという第一の状況、これに対する保守化の反撃(「ニューライト」)の中で「新保守主義」(ネオコンサーヴァティズム)の進出という第二の状況、そして八〇年代以降グローバリゼーション下でのアメリカ「左翼」のさまざまな変革への試みという第三の状況、と大別して特徴づけられるであろう。この中で本書は、①権力に抵抗する勢力が、旧左翼から多様な諸集団の複数党派のネットワークへと拡大していること、②批判の立脚点が政治的領域から、カルチュラルスタディーズに見られるような、従来の問題提起の仕方そのものを見直すような深まりを持ち始めていることを指摘し、この視点を堅持する。すなわち本書は、現代アメリカの社会思想の検討を通じて社会変革への道を探ろうとする。
第一の状況において本書は、戦後のオプティミスティックな「リベラリズム」–D.ベル、T.パーソンズ等–の崩壊、諸矛盾の顕在化の中で、公民権運動、黒人運動、ベトナム反戦運動等の多様な運動の爆発を、「旧左翼」に対する「異議申し立て」でもあったとする。その中ではW.ミルズの「多元的なラディカルデモクラシー」やH.マルクーゼの「美的エロス的要求」、あるいはラディカル・フェミニズム(「個人的なものは政治的なものである」)などが取り上げられる。そしてこの時代は、「世界システムにおける『国家』と『市民社会』との力関係が大きく転換し、国家の枠を超えて『社会』の多様な集団(黒人、青年、学生、女性等)がその場に姿をあらわしてきた」、「政治と言えば、もっぱら『国家』あるいは『階級闘争』をめぐる問題(『政治革命』)だと考えられていたのが、社会のさまざまな領域でのいわゆる『ライフスタイルの政治』(『社会革命』)が論じられるようになった」と評価する。
第二の状況では、ラディカリズム、ニューレフト等の退廃的な現象もあいまって、人種問題から保守化の反撃、「ニューライト」の運動が起こる。政治区分で言えばレーガン大統領の時代に「新保守主義」(ネオコンサーヴァティズム)が台頭する。D.ベルは「『動揺するアメリカ』を解決する鍵を、失われた『プロティスタンティズムの倫理』にかわる『超越的な連帯感』、『公共の哲学』に求め、「自律的な人間」の形成のために「『聖なるもの』の感覚、『宗教の核心となる、何か超越的なものの感覚』を追及すること」を主張するに至る。
そして第三の状況では、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマス等フランクフルト学派の思想が精力的に吸収されたこと、また他方では、フーコーやデリダ等の「ポスト・モダニズム」もアメリカ思想界を風靡したという経緯が指摘される。そして本書は、これらのうちでハーバーマスの「生活世界をシステムの植民地化から解放するために、言語コミュニケーションによる、生活・生命の論理」にもとづく「異議申し立て」を評価する。しかし同時に彼が「1968年を境に展開した(中略)ヨーロッパの『近代』に対する知的確信が揺らぐ中で、あくまでも『未完のプロジェクト』としての『近代』を擁護し、未完の啓蒙のプロジェクトを継承しようとする」、すなわち「終始、西欧近代世界の内部、『西洋中心主義』を出ない」姿勢を保持していることを批判する。
そしてこれに対して、「真の思考は・・・思考自身に抵抗しつつ思考しなければならない」と「否定弁証法」によって「非同一的なもの(他者)」の存在を主張するアドルノ、「ロゴスを基準の中心にしない思惟の可能性を説き、理性を、理性とは別のもの、『理性の他者』との関係のうちで、脱中心化」、「脱構築」、「差延」(ずらす)ことを主張するデリダ、「常識的な思想史、つまり知の連続的、同一性の歴史ではなく、『知の考古学(アルケオロジー)』」、「非連続的で断層をふくんだ知の『歴史』を説くフーコーの主張の持つ意味に注目する。そしてこの展開の中で、「ハーバーマスの視点とアドルノやフーコー、デリダの視点を緊張した統一と考える必要がある」ことを強調する。
この意味で本書では、近代ヨーロッパ社会を国民国家単位のパラダイムではなく、「世界経済システム」として–「中核諸国家」と「周辺地域」およびその中間の「半周辺の地域」に分かれた一つの有機体として見るウォーラースティンが評価される。つまり「経済発展(中核)と低開発(周辺)は同じコインの背中合わせの両面」(ウォーラースティン)であり、相互に関連しつつ同時に進行するとされる。「だから周辺における労働形態は、古代や封建制の残存ではなく、中核部の賃金と同様、資本主義世界システムにおける労働の一形態」なのである。
この「『周辺』の視点から『非同一的なもの(他者)』をも包摂していこうとする」ウォーラースティンの視点は、八〇年代から九〇年台にかけてのグローバリゼーションの拡大、ポストココロニアリズムの発展の中で、サイードとスピヴァクの特徴的な思想としてあらわれる。
サイードは、『オリエンタリズム』において、「歴史的にヨーロッパ(西洋)はオリエント(東洋)を自己とは正反対の他者として措定し、世界をヨーロッパ対オリエントという二項対立によって、自己のアイデンティティを獲得しつづけてきた」として、オリエンタリズムを「オリエントに対するヨーロッパの支配の様式」(サイード)と批判する。しかもそれは、「東洋を生産し再構成するフーコー的ディスクール(言説、話し方)」として存在し、「ディシプリン(規律=訓練)」によって自発的に服従する主体へと仕立て上げられるとされる(「オリエントのオリエント化」)。ここからサイードは、「現在、巨大なグローバリズムの支配の下で、不幸な西洋人と非西洋人がもつ『共通体験』、『重なり合う領域』、『からまりあう歴史』において、西洋と東洋との二項対立を解体する新たな可能性を探ろうとする。
またスピヴァクは、『サバルタンは語ることができるか』において、サバルタン(「従属的な社会集団」あるいは「下層の人々」–A.グラムシが最初に使用した概念)の声がどのように聞き取られているかという「語る側と聞く側の相互関係」、「知識人主体のあり方」を問題にする。すなわち「問われなければならないのは、自民族中心主義的な主体があるひとつの他者を選択的に定義することで自己を確立してしまうのを避けるためにはどうすればよいか」(スピヴァク)と提起する。
かくして現代世界のグローバリゼーションに対抗して、「『周辺』、ポストコロニアリズムの視点を包摂して、地域、国家、人種、性差、文化を超えて発展している、『集団的にして個人的』な、多様な運動、『アソシエーション革命』を推し進めていくことが最優先の課題となり、そして『それはマルクスが言う『国家の社会への再吸収』の過程であり、社会主義の世界システムへの過程』となると本書は結論づける。
このように本書は、現代アメリカの社会思想が、社会変革への道につながっており、拡大深化していることを確信する。もちろんこれに対しての国家権力側からの抑圧の形態の変化やあるいは社会的変化の諸問題(例えば、効率性、計算・予測可能性、管理強化を特徴とする、いわゆる「マクドナルド化された社会」等)についても、今後さらに検討されるべき課題は残されている。しかし本書が提起した視点は、アメリカ社会の考察についての一つの大きな基礎を与えた画期的なものと言えるであろう。過去の総括とともに未来への展望を備えた著者畢生の労作が、多くの読者に向かえられて、運動の糧とならんことを。(R)
【出典】 アサート No.313 2003年12月20日