【書評】『科学知と人間理解──人間観再構築の試み』 高橋準二著
(2002.9.25発行、新泉社、2,300円)
「この本は、一方に諸科学の新しい地平を見据え、他方に新しい時代展開や現代文明の問題性を見据えながら、人間観の刷新をはかろうとする、試みの書である」と編者「まえがき」にあるように、本書は、物理学者・科学史家の視点から従来の知的枠組みの再検討、再構築の問題を提起し、その新しい展開に取り組んだ著者–2001年5月、59歳で死去–の遺稿集である。
さて本書は3部に分かれ、その第1部は「生物学革命と人間理解」、第2部は「心身関係論・認識論・倫理学の再構築」、第3部は「現代文明への視座–危機および未来」と題されている。
第1部では、R.ドーキンスの『利己的遺伝子』(第1章)とJ.モノーの『偶然と必然』(第2章)が取り上げられ、それらの概説的説明とともに、著者の視点が語られる。前者については、個体の行動原理に関して遺伝子利益一元論に立つドーキンスの見地(真の生き物は遺伝子であり個体はその乗り物に過ぎないとする)を、「利他的行動も個体レベルでの見かけの利他主義であって、遺伝子利己主義の表われに他ならないとする発見の意味は小さくない」と評価しつつも、それが人間理解にまで及ばなかったことが限界として指摘される。また後者については、モノーの見地が、後の動物行動学等によって追求され、以下のような結論をもたらしたとされる。
「〈人間本性〉の中には、遺伝的規定性が優越する〈堅い部分〉と生活条件によってさまざまに変形される〈柔らかい部分〉があって、両者の相互作用が現実の人間をつくっていることに間違いはない」。そして人間の歴史の文明時代に入り、後者の部分が驚異的な速度で発展し、人間が自分の置かれた社会の中での行動によって、社会と文化を変えるが、「この人間の創造的行為と呼ばれるものも、〈人間本性〉の柔らかい文化的部分に限って反作用することができるということが、20世紀生物学の決定的な結論である」。
第2部では、「脳と心と唯物論–今日の脳研究に学びつつ」(第3章)において、脳と心の関係をテーマにしながら、唯物論の現在的イメージが探られる。
著者はまず、「唯心論と唯物論の対立において争点になるのは、物質一般では決してなく、心と関係深い特定の物質に他ならない」という、フォイエルバッハの視点を踏まえて、脳を形成している神経系が「エネルギー多消費型のシステムである(体重の2.5%しかない脳が安静時の全酸素消費量の20%を消費している)」ことによって、「少しの情報量で多くの内容を伝える仕組み」、「情報圧縮の機構」が発達したのではないかと考える。そして脳は中枢に行くに従って神経系の閉回路網が詰まっていることから、「脳の中に閉回路網が無数にあることは、脳内で自発的な興奮が発生し、またそれがひとりでに鎮静していく過程が頻繁に起こっているのではないかと推察」する。すなわち「われわれの意識の発生は大脳皮質各所で多元的に発生している神経ネットワークの興奮に由来する」のであり、著者は、この仕組みを「中央司令部モデル」ではなく、「いくつもの興奮パターンがヘゲモニーを争っているような脳内民主主義モデル」として考える。その際、脳については、「脳が社会関係の中で作られる」ことを強調する。すなわち「心は社会的観念として発達してきたもの」であり、「もともとはランダムに発生するものであったかもしれない神経回路の興奮」を「社会的関係の下で、他人と自己との関係に関する過去の記憶と合理的につながる一定の枠組みの中に流し込み、一つの人格を持つ存在として自分を組み立てるようにする働きが心であると解釈するのが妥当ではないだろうか」というのが著者の仮説的結論である。
第3部では、環境危機にともなう価値の問題を、「地球環境危機と経済・倫理問題」(第6章)において考察し、「人間にとっての価値は、経済的価値に限定されないということだけで充分であり、むしろ、非経済的価値(中略)が経済的な利益の追求によって脅かされていることこそが現代の深刻な問題である」ことを強調し、価値における「人間中心主義」の立場を採用する。
「現代文明の未来–現代世界論へのラフスケッチ」(第7章)では、「文明」という基礎概念をもって、「総体として現代世界をラディカルに読み直」すことを試み、人類の歴史上二つの大きな文明転換(農業革命と産業革命)の後に始まった近代文明においては「進歩への社会的合意」が特徴的となり、「科学の進歩」「社会の進歩」という理念が受け入れられ、さらには社会進歩を社会という有機体の進化と見ることから、「進歩」概念と「進化」概念との混同が生じたと指摘する。そして著者は、近代文明の基礎となった文明概念についての再検討を提起し、未来に対する予測の視点をこう捉える。
「未来世界を『そうあってほしい姿』として語ることは語り手の現在の願望の表明に過ぎず、『そうあるべき姿』として語ることは語り手の現在利益の押し付けに他ならないのであって、このような論じ方は、同一平面の上にさまざまな世界像を単に陳列しているにとどまるであろう。(中略)現代世界論のめざすことは、この現在利益の平面から頭を持ち上げることである」。
以上のように著者の諸論文の内容は多岐にわたっており、しかもそれぞれについて広範な知識と深い洞察が込められている。著者の姿勢が従来の学問の知的枠組みへの挑戦にあったとするならば、総体としての世界とその中に存在する人間とを包括的に捉えようとする試みは、現代の生物学的成果を取り入れた視点の確かさとともに、多くの示唆を含んでおり、そのことは、終章におけるラフスケッチにも如実に示されている。そして著者の次の言葉が、われわれには課題として残されていよう。
「生存は生存の意味に先行する。何のために何に向かって生きるのかという問をたてるのは生存者の特権である。人類史において目的の観念そのものが生存の手段であった。生存はそれ自体、未来へ向かった行為である」。
本書は、現代文明論、人間論としても、また未来論としても教訓的な書である。(R)
【出典】 アサート No.306 2003年5月24日