【書評】松浦範子『クルディスタンを訪ねて–トルコに暮らす国なき民』
(2003.3.15.発行、新泉社、2,300円)
時おりしもこの地域を世界が注視している。「世界の警察官」を自認するアメリカが、自らのヘゲモニーを貫徹させようとし、これに反発するアラブ・イスラム諸国の抵抗が続いている中で、多くの複雑な要因が作用している。しかしどちらに転んでも貧乏くじを引かされる位置に置かれているクルドの人々が本書の主人公である。
「国を持たない民族としては世界最大」といわれるクルド民族は、メソポタミア文明発祥の地、チグリス・ユーフラテス川の上流地域に古くから暮らしてきた。その総人口は二千五百万~三千万、中東では、アラブ人、トルコ人、ペルシャ人に次ぐ規模である。彼らの居住地域は五十万平方キロメートルに及び、古くから「クルディスタン(=クルド人の土地)」と称されてきた。しかし第一次世界大戦後、その土地は、トルコ、イラン、イラク、シリア、旧ソ連などの国境線で分断され、クルドの人々は、それぞれの国においてマイノリティとなり、さまざまな差別・同化政策に直面してきた。この彼らの生活をカメラに収めることを通じて、アメリカ対アラブ・イスラムという対立図式では割り切れない問題が存在していることに気づかせてくれるのが本書である。
フォトグラファーである著者がクルド人問題へ関心を持つようになったきっかけは、次の出来事であった。トルコの「絨毯織りの女たち」の取材でイスタンブールから現地を訪れたときのこと。著者は、トルコ東端の町ドウバヤズットで、興味本位から偶然警察の装甲車に載せてもらうことになる。しかしドライブの途中から自分の無鉄砲さと警官たちの不気味な態度に不安を覚え、乗ってしまったことを後悔する。ようやく装甲車から降りた著者に、ホテルで様子をうかがっていた二人の青年から冷ややかな言葉が投げかけられる。
「警察を信用するんじゃない。下手をすれば命取りになる。警察はそうやって観光客に声を掛け人のいないところに連れて行き、乱暴した後に殺してしまうなんてことを平気でする連中なんだ。(中略)あんたたちはこの国の警察のことなんてまるでわかっちゃいないようだな」。
「警察は何かというとすぐに賄賂を要求してくる。(中略)ましてや、ここはクルディスタンだ。トルコじゃない。住んでいる僕たちはクルド人だ。トルコ人じゃないんだ。だか余計に差別され虐げられてきた。僕たちにとって、警察というのは守ってくれる存在どころじゃない。敵さ」。
このことにショックを受けて後、著者の関心は、絨毯を織る女の人生から、クルドの人々とクルド人の土地(クルディスタン)へと移っていく。
トルコ政府は、国内のクルド民族や少数民族に対して厳しい同化政策をとっているが、これには、トルコ共和国建設の父、ケマル・アタチュルクの掲げた「トルコにいるものすべてがトルコ人」の国是(=民族的文化的に統一した近代西欧国家を目ざす)がある。この政策は、一方で(「クルド人たることを主張しない限りにおいて」)すべての人間に同等の権利を与える。しかし他方で、民族固有の文化(言語から祭祀、民族衣装にいたるまで)は、厳しく禁止された。この強圧的な政策は、民衆の反発・反乱を呼び起こしたが、これに対して政府側が凄まじい報復措置を取り、このため事態は悪循環の泥沼に入り込むことになった。
特にクルド民族の解放を求めて1984年から武装ゲリラ闘争を開始したPKK(クルディスタン労働者党)に対しては、トルコ政府は、容赦ない弾圧と同時に、クルド人内部に分裂を生む政策をとった。すなわちPKKとの単なる接触すら反逆罪とされ、ゲリラの温床となる村は焼き払われた。そして政府側は、大幅な予算を割いて民兵組織(村落防衛隊=キョイ・コルジュ)と密告者(アジャン)の網を張りめぐらした。この結果クルド人の中での疑心暗鬼は高まり、事態はますます混迷の度を深めることになった。
著者は、このようなクルドの人々の姿──先祖の土地の山岳地帯で伝統的な生活を送る人々、政府に反抗し山に行ってPKKに入ろうとする学生や若者たち、イスタンブールに出て努力と苦労の結果大成功を収めた商人、クルド民族の権利のために政治運動に参加していく人々、これとは対照的に都会育ちで南東部での出来事を知らず、クルド語もわからないクルドの若者たち等々──を撮り続ける。
著者は、クルド人問題に関わっていく中で、警察や軍関係者からの執拗な妨害に悩むが、その眼は、クルド人全体を取り巻くトルコの人々の根強い差別意識、悪意ある偏見にも向けられる。例えば本書では、1999年8月にトルコ北西部で六万人以上の死傷者を出した大地震の後のテレビ街頭インタビューで、トルコ人の一老婦人の言葉が紹介される。
「どうしてイスタンブールやイズミットでこんなひどいことが起こってしまったのかしら。地震なら、ディヤルバクルで起こればよかったのに」と。この発言は、まさしくトルコ人の中でのクルド人に対する意識を端的に表わしている。
このように著者は、彼らをめぐる社会的政治的歴史的状況、彼ら自身の内部で複雑にうごめいている諸問題を探る。そして「何が正しくて何が間違いなのか」と言う問いかけが、「考えてみれば、子供でもわかるような非常に簡単なことのはず」であるにもかかわらず、一向に明らかに答えられないでいるのは何故なのかを問う。本書をひもとくことで、われわれは、近代国民国家や民族自決の本質についての再検討に否応なく向き合わされる。そしてこのことは同時に、われわれに、日本における少数民族の問題、国家権力の問題をどう考えていくのかという姿勢、視点を迫ることになる。
もとよりこの問題についての即効的な答はないが、しかし著者の視点の持つ意味は大きい。本書にはまた多くの写真が収められているが、破壊された町並みの悲しみとともに、その中でもなお生活に立ち向かっている大家族や民衆の集まりの写真、中でも子供たちの笑顔にクルドの人々の将来を見たいと思う。(R)
【出典】 アサート No.305 2003年4月19日