【追悼】拉致と刷還、善隣と友好–辛基秀さんを偲んで–
辛基秀さんが去る10月5日、闘病の最中に亡くなられた。月刊誌への朝鮮通信使連載シリーズの最終回の口述筆記を終えられてしばらくのことだったと言う。71歳、まだまだ意欲満々、常に日本の現実と歴史に問題を投げかけ、日韓両国至るところひょうひょうと歩き回り、史料や史実を発掘し、人々に語りかけ、民衆の間の善隣・友好の先頭に立たれてこられた、実にかけがえのない人であっただけに残念なことである。各新聞紙上でも、「朝鮮通信使の資料を収集し研究してきた青丘文化ホール代表」(10/6付朝日)として相当に詳しく報じられている。
おりしも今、日本中が北朝鮮からの拉致被害者の方々5人の帰国、肉親との再会、一挙手一投足に至るまでがことこまかに報道され、問題の渦中に揺れ動いていると言えよう。確かに、「民主主義」と「人民」の名をはずかしめた共和国・北朝鮮の国家的テロ行為には怒りを禁じえないし、その愚かさには目を覆いたくなるが、ここぞとばかりに北朝鮮への差別感情と敵愾心をあおる週刊誌のタイトルのすさまじさには辟易させられる。「愚かなり小泉訪朝」(週刊新潮)、「なぜ小泉は金正日を怒鳴りつけなかったのか」(週刊現代)、「これは北朝鮮との戦争だ」(週刊ポスト)等々。しかし、こうした過剰反応とは一線を画して、「歴史に<もしも>と言うのはありえないが」、「日本による植民地支配がなかったら、過去の清算がもっと早くできていたら、拉致問題は起こらなかったのではないか」と問いかけ、「日朝平壌宣言 心から歓迎を」という在日コリアンの投書が掲載されてもいる(9/27、読売)。さらに辺見庸氏はサンデー毎日10/27号のコラム・「反時代のパンセ」歴史と公正(3)の中で、戦前の「朝鮮人連行」という国家暴力と、「日本人拉致」という国家テロをともに「わがこととして連想」するべきだとして、「二つの重大な史実は未来永劫帳消しにするべきではなく、相殺すべきでもなく、…こうした国家の暴力を繰り返さないためには、民衆の視点に立った史実をあたうかぎり正確に後代に語り継いでいかなければならない」と論じている。
しかし、日本側の拉致・連行は戦前の「強制連行」だけではない。さらに数時代さかのぼる豊臣秀吉政権が行った、文禄・慶長の役という壬申倭乱、この宣戦布告もなしに突如17万の日本軍が釜山に上陸し、七年にわたった(1592.4~1598.11)無謀な侵略戦争がもたらした拉致・連行は、陰惨極まるものであり、多くの悲劇をもたらした。日本軍側は、学者や医者、陶工や大工、石工から紙漉き工、活版工、農民に至るまであらゆる職業の人々を拉致し、厳重な監視下に置き、各大名の城下町には「唐人町」や村が形成され、その技術者集団は陶磁器などの生産拠点として日本の産業を支え、今日に脈々と受け継がれてもいる。秀吉軍の敗退と豊臣政権の崩壊、徳川幕府の成立を経て、朝鮮側との正常な友好・善隣関係を回復するには多大な努力と紆余曲折を要した。辛基秀さんは、まさにこの過程と歴史的事実の意味するところを明らかにされ、先人の誰もが未だなし得なかった史実の掘り起こしをなされたのだと言えよう。それは辛さんの努力によって日本の教科書にまで登場、紹介されるに至った。それが、朝鮮通信使である。
すでに室町時代150年間には、朝鮮との通信使の相互往来・善隣友好の歴史が存在していた。それを破ったのが豊臣政権であった。そして日本軍敗退後の1604年、講和のために朝鮮側から派遣された松雪大師に対し、徳川家康・秀忠は「わたしは壬申のとき関東にあって、この兵事(侵略)にまったくかかわっていない。したがって朝鮮とわたしの間には讐怨はない。和を通じることを請う」と言明し、1606年11月、朝鮮側の二つの和平条件(二度と侵略しない、王陵をあばいた賊を引き渡すこと)を受け入れ、翌1607年1月、467名の使節団が、それまでの「通信使」という名称を使わずに、「回答兼刷還使」として来日、江戸で徳川秀忠と会見、国書(日本側の綱渡り的な偽造・改作問題も付随した)を交換し、再び国交が回復し、1609年には日本側の使節300余名が釜山に派遣され、以来江戸時代末期まで、12回にわたって通信使が派遣されたのである。
この「回答兼刷還使」としたのは、家康の国書に答えるという意味と、日本へ拉致された人々を連れて帰る「刷還」という目的をはっきりさせるためであった。徳川秀忠の執政・本多正信に宛てた朝鮮国礼曹参判呉億齢の書契には、「前代(秀吉)の非を詫び改めるというのであれば、秀吉の行為を反省し戦後処理を早く行うべきである。連行され抑留された数万の同胞が幾年つながれてきたことか。六~七年間、対馬藩が刷還に努力してきたが、その数は九牛の一毛に過ぎない。両国が新しい和親を結ぶ前提として、捕虜になった男女のことごとくを刷還しなければならない」と強調している。以降、初めの三回は江戸幕府の使節派遣に対する「回答兼刷還使」として、後の九回は「通信使」として派遣されている。第一回刷還使が朝鮮に連れ帰ることができた俘虜は「男女あわせて1418名で、日本に散在している捕虜の数は幾万になるか不明。関白が帰国を許すと言っても、彼らの主人たちが隠して思いのままにさせず、捕虜にもまた帰る意思がなく、このたび刷還した数は九牛の一毛にすぎず、まことに痛感に堪えない」と記されている。事実、「回答兼刷還使」に対して各藩主はひたかくしにし、移住までさせて、帰そうとはしなかった。第二回刷還使は、321名を連れて帰国したにすぎない。(引用は、辛基秀著『朝鮮通信使 人の往来、文化の交流』(99年、明石書店)より)
こうした事実を世に問い、さらにこれら朝鮮側の刷還使・通信使の約10%が日本側の侵略軍から朝鮮側に降伏した「降倭」の人々で占められ、その「降倭」の人々の中に、この侵略戦争に大義なしとして朝鮮側に軍勢を率いて投降した加藤清正軍の鉄砲隊長・沙也可の存在とその重大な意味を明らかにされたのが辛基秀さんであった。沙也可の子孫の方々が住む韓国・大邸市近郊・友鹿洞(ウロクドン)を何度も訪ねられ、日本側とのさまざまな交流を組織し、大きく広げられたのは、辛基秀さんの存在を抜きには語れないことである。筆者自身もそのおかげで友鹿洞を訪問することができたことを感謝している。
拉致から刷還へ、そして善隣と友好関係の構築へ、辛基秀さんが明らかにしてくれた歴史の事実の重み、その冷静で粘り強い努力の必要性が今こそ問われていると言えよう。(生駒 敬)
【出典】 アサート No.299 2002年10月26日