【書評】 『遺伝子組換え作物──大論争・何が問題なのか』

【書評】 『遺伝子組換え作物──大論争・何が問題なのか』
           (大塚善樹著、2001.10.31.発行、明石書店、2000円)

 「この本は、遺伝子組換え生物をめぐって世界中で巻き起こっている論争について、自然科学的というよりはむしろ社会科学的な視点から見ようと試みます。どうしてでしょうか。遺伝子組換え生物の問題は、単なる科学技術の問題ではないのでしょうか」。

 「この本では、様々な科学技術上の議論について、どれが正しくてどれが誤っている、といった直接の判断はできるだけ行わないようにします。科学的見解は、時が経てば変わるものです。だからこそ、科学の発展があるのですから。また、科学的事実は、誰が見ても同じというわけではありません。科学の世界でも、解釈の議論はつきものです。このような科学技術の不安定性は、実は『科学技術は社会のなかに埋め込まれている』ことを意味しています」。

 本書の「はじめに」は、このような視点が語られているが、現在焦眉の問題となっている遺伝子組換え生物について、本書は、この問題に言及しつつ、これを取り巻く近代社会における科学技術をめぐる構造にこそ焦点が合わされるべきであることを強調する。

 すなわち「遺伝子の働きや生態系の仕組みなど、まだよくわからないことが多い領域では、科学は全体のなかの一部についてしか質問することができません。答の引き出し方は客観的にできますが、どんな質問をするか、答をどう解釈するかは主観的にならざるを得ません。そこに、科学技術者集団の社会的な背景が入り込む余地が出てきます」。換言すれば、現在の遺伝子組換え生物の論争は科学の名のもとにおこなわれてはいるけれども、「議論が狭い『純粋な』科学の領域に閉じ込められ、『正しい科学』の主張をお互いが空しく繰り返すような事態」を招いているだけであって、「むしろ、私たちは、経済的・政治的・文化的な問題が、科学の名のもとでのみ議論されていることに驚くべきではないでしょうか」ということなのである。

 このような面から問題に光をあてるとき、われわれはそこに遺伝子組み換え生物が出現してきた経済的背景と科学技術との関係、そして遺伝子組換え生物にかかわるリスクの問題、さらにはこれらすべての背後にある社会構造そのものの問題が横たわっていることを認識する。

 本書によれば、遺伝子組換え技術とその成果としての生物は、1980年代、実験室からビジネスの対象となり、立ち遅れをとっていたアメリカ経済のキー・テクノロジーとして出現した。この技術は、端的に言えば、「世界的な農業の工業化と農産物貿易の自由化の流れのなかで」「工業化諸国の消費者をターゲットとした輸出用作物に対して」開発された(それはまた、「アメリカ型の肉食文化を支える作物」でもある)。「第一世代といわれる農薬や害虫に強い遺伝子組換え作物」──これはとくに、米国の集約化された農業での農薬使用量を減らすことで、生産コストを下げることを目ざす──では、飼料用・油糧用の輸出作物(ダイズ、トウモロコシなど)がメインであり、成分改良を特徴とする第二世代の遺伝子組換え作物(フライドポテトに適したジャガイモ、太らない食用油のためのナタネなど)は、品質管理の徹底による標準化・規格化に応えるものである。すなわち「遺伝子組換え作物は、農産物貿易競争に勝ち抜くための戦略的技術」をその本質とする。そしてここからまた、貿易の自由化と切り離せない問題として、知的財産権の強化の問題が出てくることにもなる。

 このような遺伝子組換え生物にかかわる最大の問題は、そのリスクについてであるが、本書では、「現象としての専門家のリスクと、行為としての素人のリスク」が概念的に大きく異なっていること、そして化学物質の毒性試験方法に比べて、食品のリスク自体が困難であることを指摘する。このため遺伝子組換え生物には、「実質的同等性の原則」(従来の食品との成分比較)や「ファミリアリティの原則」(熟知性の原則)が用いられているが、これらも科学的リスク評価ではなく、実は科学は遺伝子組換え生物のリスクを計算できていない(①)。

 しかしこの原則による評価が一旦科学的事実として提示されると、行政当局によってリスク管理の根拠として使用され、あたかも客観的な科学的方法のように取り扱われる。この結果、専門家(企業の経営者や行政の専門家)のリスクを伴う行為(コスト・ベネフィット分析による選択)の責任は明確にされないままになる(②)。

 そして消費者である素人にとっては、「情報の非対称性」(遺伝子組換え生物に関する情報は、商品流通の下流にいけば行くほど少なくなる=不確実性は増大する)により選択の自由が制限され、リスクの回避もそれを冒すこともできない状況となっている(③)。

 これら①・②・③は従来、それぞれ科学者の問題(リスク評価)、企業や行政の問題(リスク管理)、消費者の問題(リスク・コミュニケーション)として、別々の問題・学問体系として分離されてきた。しかし遺伝子組換え生物のような不確実性の大きな科学技術の場合、この分業は有効であるのか、と本書は問う。すなわち「科学者だけでリスク評価はできるのか、行政や企業だけにリスク管理を任しておいてよいのか、そして素人は受動的なままでよいのか」という問いである。

 本書では、この問いかけに対して、新たなリスク管理の考え方=「予防原則」(科学的根拠が十分得られない場合でも、想定される危険に対しては、予防的対応策を取るべきとする考え方)を提出する。これは、リスク評価の領域へリスク管理がかかわっていくことを意味することになるが、さらにここに人々の意見をいかに反映させていくかというのが、今後のリスク・コミュニケーションの課題となる。(具体的には、行政への市民参加のルート〔審議会、コンセンサス会議等〕、NGOによる市民独自のリスク評価などの問題提起、マスメディアを通したコミュニケーションなどとなる。)

 そして以上の遺伝子組換え生物をめぐる論争は、その展開の中で、これが演じられている舞台そのもの──農業・食料システム──を浮かび上らせることになる。これは、農業から食料にいたる商品の連鎖が、産業や国家を超えて多くの集団(企業・行政)を巻き込んでいるネットワークである。この中で、巨大な多国籍アグリビジネス(農業関連産業)が成立し、遺伝子組換え生物が出現したのであるが、このシステムを貫く原理となっているのが、「マクドナルド化」(効率性、計算可能性、予測可能性、管理の強化を特徴とする)であると指摘される。すなわちマクドナルド化とは、生産工程や流通過程の管理の徹底によってコスト面での無駄を省くことであるが、この視点からすれば、遺伝子組換え生物も、非遺伝子組み換え生物も、マクドナルド化という現象の一部ということになる。というのも後者は、前者が商品化されてはじめて可能になるような「交付加価値化・商品差別化・管理強化の一形態」に過ぎないからである。具体的には、「非遺伝子組換えをブランドとして消費させるのもまた、遺伝子組換え開発企業とは別の企業や専門家の戦略」なのである。

 ここにいたってわれわれは、遺伝子組換え生物をめぐる問題が、現代社会の構造そのものに根ざすものであることを理解するであろう。この意味で本書の次の言葉は、鋭く示唆的である。

 「現代では、非遺伝子組換え生物も有機栽培も『自然』も、何も手を加えられていない自然の状態を表すものではありません。むしろその反対に、生産と流通の管理を徹底することによって、非遺伝子組換え生物であること、有機栽培であること、『自然』であることを、人為的に究めた結果なのです」。

 このように本書は、遺伝子組換え生物論争を切り口として、この切り口自体の重要さと、切り口を通じて見た現代社会の構造──「農業の工業化」、「マクドナルド化」の深刻さ──を認識させ、われわれ自身の問題として提示する書である。また科学の問題を「科学」の枠内の問題としてのみ議論するのではなく、「社会に埋め込まれた」問題として捉えるという視点の重要さも、本書では具体的に示されている。(R) 

 【出典】 アサート No.297 2002年8月24日

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