【書評】三浦英之『南三陸日記』

【書評】 三浦英之『南三陸日記』 (2019年2月刊、集英社文庫、550円+税)

「遺体はどれも一か所に寄せ集められたように折り重なっていた。」
「リボンを結んだ小さな頭が泥の中に顔をうずめている。
 細い木の枝を握りしめたままの三〇代の男性がいる。
 消防団員が教えてくれた。
 『津波は引くとき、川のようになって同じ場所を流れていく。
 そこに障害物があると、遺体がいくつもひっかかってしまう・・・』。」
「遺体は魚の腹のように白く、濡れた布団のように膨れ上がっている。
 涙があふれて止まらない。
 隣で消防団員も号泣していた。」
 本書は、震災直後から約一年間、朝日新聞に連載された「南三陸日記」という短いコラム(2012年に単行本化)に、2018年取材の「再訪」を加えて文庫化したものである。
 震災から9年を経た現在ではあるが、本書にはまだその当時の悲惨さ、深刻さを思い起こす文章が並んでいる。その内容は、短い文章の連なりではあるが、心を引きつける。
「誰のために記事を書くのか。
その命題を忘れないよう、毎朝通う場所がある。/津波で骨組みだけになった南三陸町役場の防災対策庁舎。
危機管理課職員だった故・遠藤未希さん(二四)が、津波の直前まで防災無線で住民に避難を呼びかけ続けた建物だ。
何度も顔を合わせる人がいる。/ 三浦ひろみさん(五一)。危機管理課の課長補佐として遠藤さんと一緒にマイクを握っていた夫の毅さん(五一)は、今も行方がわかっていない。(略)
あの日、公務員の次男(二〇)は、車の中で防災無線を聞いた。『避難しろ』と必死に叫ぶ父の声に促され、高台に逃げて助かった。/声は『ガガガ』という雑音にかき消された。
『どうしても彼に伝えてあげたいんです』と三浦さんは言った。/『メッセージ、ちゃんと届いたみたいだよって、そして、あなたと暮らせて、私はとても幸せでしたって』」
 ここで著者は立ち止まる。
 「まるで広島の原爆ドームのように、廃墟になった南三陸の町に建つ。/何を書くべきか。/答えは『現実』が教えてくれる。」
 本書は、大震災の被害者とともに生活し、寄り添う中で彼らの心を駆けめぐる哀しみ、怒り、絶望、そして少しばかりの希望を描き出す。
 失なわれた命、新たに生まれてきた生命、被災地からの避難や学校や生活の再開等々、本書に載ったさまざまな切り口をぜひ読んでいただきたい。
 ただ巻末に新たに書かれた「再訪 二〇一八年秋」から、少しだけ引用する。上に出てきた遠藤未希さんの夫であったAさんと著者の会話である。
 「Aさんとの会食は取材が目的ではなかったため、私はそれまで未希さんのことにできるだけ触れないようにしていたが、Aさんが突然未希さんについて話し始めたので、私は禁を破って一つだけ彼に尋ねた。
 その回答を、私は一生忘れないでおこうと思った。/私は彼にこう聞いたのだ。
 『今でもやっぱり未希さんのこと、思い出す?』/
 彼は答えた。/『いや、全然』/『全然?』
 『「忘れた」ことなんてないんです。だから「思い出す」こともないんです──』
 そう言うと、Aさんは腕全体で体を隠すようにして、低く声を上げて泣き始めたのだ。」
 今も続くこの現実をどう受け止めて進むべきか。
 時折りしも東北大震災の慰霊式が、来年で10年を迎えるということで政府主催が取りやめになるというニュースが2020年1月21日に出されたばかりであるが、課題はまだまだ山積されたままであることは言うまでもない。本書が、コラムの一ページごとに挿入されている写真とともに、大震災の風化に歯止めをかけるささやかな一歩であることを願う。(R)

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