【寄稿】「小野義彦と私 –敗戦前後–」
小野 みどり
この寄稿は、アサート 287号(2001年10月20日)と288号(2001年11月24日)の2回に分けて掲載されました。
目次:石切軍刑務所から宮城刑務所へ/東京大空襲/政治犯釈放命令、そして宮城へ/釈放そして山口へ/戦後、山口で/父のこと/力石・武井・安仁と小野義彦/
<石切軍刑務所から宮城刑務所へ>
一九四五年三月十日、東京下町、本所・深川・浅草方面は米軍B29の大編隊の空襲を受け、一夜で焼け尽くされ、死者十万人に上ったと報ぜられたが、その二ヵ月後の五月二五日、B29は山の手方面を大空襲した。その時、私は東京世田谷下北沢の小野の家にいた。
小野義彦は一九四三年十月、オーストラリアに近いタニンバル島にて日本からそのためにはるばる派遣された憲兵によって逮捕され、日本の石切軍刑務所に入れられたが、軍籍剥奪、懲役五年の判決後は民間の堺刑務所へ送られ、その年六月、東京豊多摩刑務所に更に移された。当時、山口で、結核で倒れた弟の看病をしていた私は、月一回許された刑務所での面会にも行けず、文通だけが唯一のコミュニケーションの手段であった。翌四四年二月豊多摩刑務所で、顔一面に赤くシモヤケとヒビに覆われ、薄い獄衣をまとった彼に面会した時、そして外の廊下を看守と共に歩いて行く痩せ細った亡霊のようにヒョロヒョロと歩いていく赤い獄衣の人を見たとき、このままの状態が続いたら、彼は必ず獄死するだろうと感じた。月一回の面会許可は三ヵ月後には、累進処遇によって月二回になった。面会日に私は秘かに面会室の屑入れにバター・ヴィタミン剤・焼いた餅やパンなどようやく手に入れた食物を入れてきた。もしもそれが看守に発見されたら小野は刑務所内での苛酷な懲罰(エビ手錠という両手を背中で斜めに縛られ、食事も用便もそのままの状態でおこなう)を受けることは明らかであった。しかし、何とか続けなければ彼は死んでしまう。
こうしてその年五月、B29の空襲によって刑務所が全焼し、囚人全員仙台の宮城刑務所に移されるまで、秘密の差入を続けることができた。
<東京大空襲>
月に二度、中野の豊多摩刑務所に面会に行くことは、話の内容はそばの看守にすべて記録されるという形のものではあったが、私にとって唯一の心の救いであった。そして同時に月に二度だけの休息の時でもあった。中野からの帰り、新宿で中央線から山手線に乗換え(小野の家は世田谷下北沢)運良く座席に坐れた時、私はそのまま山手線が新宿から新宿まで何周か走る間、その座席に坐り続け一時間余りの休息を取った。
三月十日のB29の下町大空襲のあと、アメリカは日本の地方都市を次々空襲し、東京にも殆ど毎夜のように空襲警報が発令され、安眠できない夜が続いた。五月二五日夜、いつものように空襲警報が発令され、敵機五〇〇機が横浜方面から侵入し東京上空へ向かっているという。私は身支度(といってもモンペを履き、防空ズキンを首に結びつける)して二階へ上がり、はるか北の空でB29が赤い雨を降らせるように焼夷弾を落とし、その度にその方面の空が赤く燃え上がるのをワクワクしながらも半分は火事場の野次馬根性で高見の見物をしていた。何分たったか、はるか遠く中野のあたりが一面に燃え上がった。ああ、豊多摩刑務所がと身体が震えた。そしてハッと気がつくとB29の編隊が下北沢の真上の空を掩い、焼夷弾の雨がシャーッと音を立てて降り出した。義父は丁度軍司令官が戦況を判断するように、鉄カブトを被り、軒下に立ち、義母は気が狂ったように庭の土を掘って御飯の入ったままの釜や煮物の入った鍋を埋め出した。私は、大森で焼け出されてころがりこんでいた若い人と一緒に家中の雨戸を閉め、雨戸を濡らすためにバケツの水を必死にぶっかけ続けた。そのうち、家の横の道路は北の方から焼け出されて逃げて来る人たちで一杯になった。彼らはあとからあとからまだ焼けていない南の方面へ少しばかりの荷物を背にぞろぞろと走り去っていく。煙があたりに充満し眼もあけていられず、降る火の粉で着ているものが焼けそうになる。もう全てを棄てて逃げる外ない。義父に続いて、まだ焼けていない東側の崖下に逃げるため庭の冊を乗り越えかけたとき、空が白々と明け、さっきまでの地獄のようなB29の影もなくなっていた。夜が明けて家の前の道へ出てみてあっと息をのんだ。家から五十メートル先の成徳女子商業学校を起点として北へ何百キロかはるか小田急線まで全くの無惨な焼け野原であった。しかし、われわれの家は幸運にも塀の外に一発焼夷弾が落ちた跡があっただけであった。
それから数日後、中野へ行った。豊多摩刑務所はまわりのコンクリート塀とわずかの建物を残すだけで殆ど焼け落ち、収容されていた囚人は全員仙台に送られたと知らされた。
それまで疎開をためらっていた小野の両親もそれ以後疎開を急ぎ、六月末郷里の山口県防府へ疎開し、私は山口後河原の家に一人で帰った。
<政治犯釈放命令、そして宮城へ>
七月二六日、新聞には日本の降伏を迫る米英ソ首脳会談の八項目にわたる条項が載せられた。そのなかに「日本政府は言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すべきこと」という項目があったのを私は見落とさなかった。思想の自由と基本的人権。いつ日本がポツダム宣言を受諾するか、祈るような毎日であった。そして八月十五日、日本敗戦の日。これで小野は解放される。その日私は母の里の田舎へ行っていて、天皇の言葉が放送されたのを知らなかった。夕方になって近所の人から日本がポツダム宣言を受諾し降伏したのだと聞いて、自分の国が三等国か四等国になってしまったのだと涙が出たが、同時に己が解放される喜びが実感として胸に広がった。十月四日遂にマッカーサーの政治犯釈放命令が出た。朝から晩までラジオの前に坐り続けてその放送を何度繰り返して聞いたことか。そして小野のいる仙台まで迎えに行く準備を始めた。仙台で泊まる宿に出すための五合あまりの米、規定より多い目の食糧切符、配給の度にためていたタバコ、ローソク、マッチ等必要となりそうなものをすべてリュックに詰め込んだ。「人間魚雷」として敵艦に体当たりするため海軍基地で待機していて、出撃直前に終戦となり家に戻っていた小野の末の弟が、防府の両親が用意した牛革の大きいスーツケースを持って見送りにきてくれた。小郡駅から夜十時発の東京行き特急に乗った。混乱の時期の女一人旅である。少しでも安全を願って二等切符を買っていたが、ホームに入ってきた汽車は二等も三等もない。デッキまで人が溢れて到底乗り込めない。弟の手をかりて窓からもぐり込み、スーツケースを窓の中へ放り込んでもらう。客車の中に灯火はなく真っ暗であったが、通路までギッシリ荷物が積まれ、私の居場所などどこにもない。誰かが通路の荷物の上に坐るように言ってくれた。
汽車が動き出してしばらくすると、その暗闇の前後から男の手が何本も伸びて私の足に触る。その時はじめて気がついたのだが、それは九州からの復員列車で、乗って居たのはすべて兵役を解除されたばかりの兵隊だった。出発準備でくたびれはてていたが、眠るどころではない。足を動かし続け、坐る向きをあちこち変えながら必死で男たちの手から逃れようとした。二、三時間経ったであろうか。汽車は広島に止まった。原爆投下の災害の跡を自分の眼で見ておこう。何人かが窓から飛び下りた後に続いて私も飛び下りた。私の眼の前には少し間隔をおいて左右に立てられた二本の丸太と、それに引っ掛けられた裸電球、そこに駅員らしい人が一人立っている。それが広島駅改札だった。そしてその背後に全く黒々とどこまでも続く静まりかえった焼け野原。鬼気迫る、異様な情景がそこにはあった。
午前四時過ぎ、外はまだ薄暗かったが、列車は動かなくなった。ここから歩いて幾つか先の駅まで(今は駅名は記憶していない)徒歩連絡だという。一ヵ月前の枕崎台風のために鉄橋が流され、汽車は不通になっていた。重いスーツケースを持って歩きだす。二時間ばかり歩いただろうか。そこからまた汽車に乗り(今度は復員列車ではなかった)、正午ごろ東京駅着。上野発仙台行きは午後六時というのに。上野駅に午後二時頃着いたとき、すでに上野駅は二重三重の仙台行きを待つ人々の列で取り巻かれていた。待つこと四時間、漸く駅の改札が始まって列車に乗り込んだが、座席はもとより、向き合った座席の間の空間も通路も人が詰められるだけ詰まっている。これでは仙台まで十数時間立ち通さねばと覚悟したところ、ただ一つの座席だけが空いている。すぐそばに占領軍の上級将校らしい白髪の米軍人とその副官らしい若い将校が一つのボックスに向き合って坐っていて、日本人乗客は誰一人そのボックスに敢えて坐ろうとはしない。しめた。私は年配の将校に向かって「ここに坐ってもよろしいですか」と英語で聞いた。昭和十二年学校を出てから八年ぶりの英語だった。快く自分の横を空けてくれたその老将校は仙台まで行くのだった。
私はできるだけなにげなく、自分は英語のカレッジを出たこと、そして学校時代読んだ本や日本の有名な古典の話など思いつくままに英語でしゃべった。相手も楽しそうに聞いてくれた。どれくらい経ったか、私は前夜来の疲れでいつの間にか眠っていたらしい。ふと気がつくと眠っている老将校と私のひざの上には膝掛け毛布が掛けられていた。副官が掛けてくれたのであろう。翌朝仙台駅に着くまで、敗戦直後の殺人的な満員列車の中で、日本人としては私だけがゆっくり腰掛けて行くという幸運を得たのだった。
仙台駅前の粗末な宿を取った後、休む暇もなく、仙台市番外地という宮城刑務所へと重いカバンを持って歩き出した。駅前からその番外地までどれくらいの距離があったのか、回りがどんな風景だったのが、全く記憶がない。私の心はただ小野を迎えにいくということだけで一杯だったのだろう。
<釈放そして山口へ>
刑務所の受付で面会の手続きをすますと、受付の指示で小野のいるという事務所に入った時、目の前に小野がいた。そこに私が現れるなどということは全く予期していなかった彼は、驚きの声を上げ、すぐに自分たちの釈放の日が明日であることをいつもの快活な口調で喋り始めた。私が駅前の宿をとったことを告げると、傍にいた教戒師が、今夜は自分のところへ泊まったらとすすめてくれた。その申出を断ってその日はもとの汚い宿へ戻ったが、食事の貧しさも、布団の粗末さも何も気にならず、三日ぶりに初めて身体を横たえて眠れたのであった。
翌十月九日、その日出所できた十人余りの人々と共に私は刑務所が出してくれたバスで仙台駅へ向かった。小野を除いた他の人々は刑務所支給の茶色のコールテンの上着とズボンを着ていたが、小野だけは私が持参した軍服を着ていた。それは私が山口を出発する時小野の両親が私に持たせたスーツケースの中身だった。小野が山口に帰ったとき、軍隊から召集解除となって帰還したと親類や近所の人たちに思わせるための苦しい工作だった。
治安維持法違反という罪名は小野の両親にとっては破廉恥罪と変わらぬものであった。小野が豊多摩刑務所にいた時、義母は一度だけ面会に行った。その日は雨が降り、今なら傘で顔が隠せるからといって、私と同道した。義父は行こうとしなかった。
仙台駅で東京行きを待つ間、私はリュックの中の乾パンを皆に配ったが、手からこぼれて雨の泥水に汚れてしまった乾パンを、すばやく拾って口に入れたひとがいたのには驚くと同時に、彼らのこれまでおかれていた状況の最低の厳しさを思わせられた。汽車に乗り込んだ人々はみな興奮状態で殆ど夜通ししゃべり続けた。
十月九日、早朝東京着。その夜東京成宗の兄鈴木健一郎の家に泊めてもらった私たちは、昭和十五年五月山口駅を出征して以来、というより、知り合ってから六年目初めて全くの二人きりになったのだった。
翌日私たちは焼け跡のまだ生々しい東京を友人を訪ねて歩き回ったが、前日まで私が持ち歩いたスーツケースもリュックも彼が持ってくれた。私は生まれて初めて大切にされ、いたわられ、夫とはこんなに有り難いものかと自分の境遇の大きな変化を身に滲みて感じた。苦難の連続であった仙台行きの旅に比べて、山口への帰りの旅はいま四四年後に振り返ってみても、涙のでるほどのうれしい旅であった。荒廃した窓外の景色、布はなくむき出しになった木の座席。乗り合わせている乗客の粗末な服装。すべて敗戦国日本の状況がそのままそこにはあったが、そのことに感慨を促すとか、敗戦を悲しむとか、そんな心の余裕はまるでなかった。そして私がずっと住み続けていた山口後河原の家でのわれわれ二人の生活が始まった。
( 以上 No287に掲載)
<戦後、山口で>
敗戦を契機として物価は急上昇した。それまで何拾銭単位で手に入っていたものは何拾円の単位にハネ上がった。先ず米の値段が上がった。それまで私の亡父母の残した貯金と恩給で生活していた私は、小野を迎えて忽ち収入の道を講じなければならなかった。小野が山口県庁の通訳として傭われ、小野の留守の時は私が代わりに県庁に通った。また、敗戦と同時に、当然使用されなくなった山口四二連隊(七年前小野が召集されて入っていた)の兵営は占領軍が入るため徹底的な掃除を要求され、その頃もまだ解消されず残っていた「隣組」の婦人たちにその仕事が要求された。私もまた「隣組」の一人として兵営の床を洗いに行ったが、米兵の命令を理解できない婦人たちに、自然に私が通訳をつとめる形となり、仕事が終わった時、その当時全くの貴重品であった固形洗濯石鹸を数個米兵から与えられて皆からうらやまれた。また占領軍は周囲の日本人と馴染む必要を感じたのか、「隣組」の女性を数十人単位で兵営に招待し、茶菓を振る舞った。そうした時も自然な形で私が通訳することになり、その都度謝礼としてクッキーや食パンをもらったが、当時そんな品は、町のどこにも存在しないものだった。そして兵隊の中には日本人と交際を望む者もいて、私は彼らをうちへ招待し、小野と共に友人として対等につきあった。
敗戦を契機として自らの社会的地位も経済的状況も一変した。義父母が家庭内で一番弱い立場にある私に向かって、その覚悟を投げつければやむを得なかったであろうが、そう我慢できなくて離婚を決意したこともあった。それは義父がそれまで住んできた下北沢の家を売って郷里の山口県防府へ帰るまで三年間続いた。私たちはその売れた金額の十分の一をもらって大崎に土地を買い、小さなテックス張りの家を建て、移り住んだ。一九四九年十二月のことであった。小野が見つけてきた土地は、品川区戸越で、私たちだけでは広すぎる。当時一番信頼し、親しかった内野壮児さんにすすめて半分ずつ買うことにした。こうして内野さんとは隣同士、塀も何もない地続きであけっぴろげな親友となった。
翌五〇年正月には横井亀夫氏が内野さんを訪れるようになり、自然私たちとも親密になったが、横井氏はその後内野さんが女医であった夫人の診療所のある大島(江東区)へ移転のあとを受けて旧内野家に移ってきたため横井氏一家とも親密な交流を続けることとなった。
一九四八年、小野は代々木共産党本部勤務から「アカハタ」機関紙記者となっていた。
<父のこと>
父は、私が十三歳の時亡くなったが、東京高商(現一橋大学)の学生時代、正岡子規の根岸庵に高浜虚子や荻原井泉水とともに出入りし、俳号を「芒生」といった。のちに季語のない荻原の自由律俳句に変わったが、その流れは次兄周二に受け継がれ、京大生だった兄が帰省し、月一回持つ句会には殆ど毎回当時山口に住んでいた種田山頭火が顔を出していた(これは句会の後夕食会で一杯できるのと、帰りに母から金一封を受け取るのが本当の目的だったかも知れないが)。
また父は画家津田青楓と親交を持ち、大正四年私が生まれた時丁度山口に滞在していた津田青楓が、後河原のみどりの美しさに感動して、「みどり」という名を生まれてきた子どもにつけたのだと、ものごころついてから父に聞かされた。安井曽太郎・岸田劉生・川端龍子・南薫造などの油絵が座敷の欄間に掲げられ、朝鮮京城(現ソウル)の高商の校長になってからは李朝陶器や李朝木工品を家から溢れ出るばかりに収集し、京城在住の民芸運動家、浅川伯教・巧兄弟と親密な交際を続け、その親密さは後に柳宗悦・外村吉乃介たち民芸運動家にも及んだ。また母千代野は明治末期東京女子高等師範学校理科を卒業し、父と結婚後も女学校の数学教師を長年にわたってつとめる一方、熱心なクリスチャンとしてというより教会に身を置いた新しい目覚めた婦人の一人として人々との交流の輪を広げた。ずっと後のことになるが、東京下北沢の小野の家の二階を誰かの紹介で共産党経済学者(当時立教大学教授)高川実氏に貸した時、「私は山口でみどりさんのお母さんが中心になってやっておられた集まりに出たことがあるのですよ」と言われ、全くの偶然に驚いた。(因に、高川氏は山口県出身である。)そして私が出た学校はあらゆる点でリベラルなアメリカ的合理主義で貫かれていた。
<力石・武井・安仁と小野義彦>
一九五〇年五月GHQ教育顧問イールズ博士の東北大学での講演を学生が妨害したため同大学長が辞意を表明、このことから東大、早大等に『イールズ闘争』が起こった。そして戸越の家には、力石定一・武井昭夫・安東仁兵衛氏等のイールズ闘争を闘っていた学生が集まるようになった。長男暸が生まれて二ヵ月余りのことだった。大振りのかごに寝かされていた暸の顔を見ながら「りょうという名前よりもペンさんという名の方がいいですよ」と言ったのは武井昭夫氏だったと思う。ペンというのは、小野がソ連一辺倒だという意味で、彼ら学生が小野につけた仇名だった。小野が彼ら学生をどのように指導していたのかは知らないが、「昭和史全記録」(毎日新聞社版)の一九五〇年5・5の項に「共産党・コミンフォルム批判後、分派的傾向の東大細胞・早大第一細胞の解散指令.5・6全学連書記局細胞に解散命令.6・2全学連執行委反論。学生運動指導に関し、共産党中央委員会と全学連指導部の対立強まる。」とある。これを見ると、当時の小野と学生たちの活気と自身に満ちた顔をまざまざと思い出す。
四九年から五〇年にかけて、東大学生だった力石定一、武井昭夫、安東仁兵衛氏たちが家に出入りしはじめた。イールズ闘争のための会議だと聞かされた。(GHQイールズの「各大学から赤い教授を追放せよ」という通達に反対して始まった)彼らがくるのは大抵夜間であったが、私は小野と共に彼らにも遅い夕食を出した。或る夜十一時頃来た安東仁兵衛氏に夕食を出したところ、「僕はこのイカの煮たのが大好きなんです。この匂いが僕をここに引きつけるのです」という。それは苦しい家計の中ながら、若い人たちへ食事を出す私への言い訳だったかも知れないが、その頃苅田のある店へ行くと、いつも赤くなってすこし臭いのするイカが安く手に入ったので、殆ど連日うちの夕食はイカの煮付けだった。またある時は武井氏と力石氏が数日うちに寝泊まりした。それは秘かに朝鮮に行くために待機していているのだという説明だった。(結局これは実現しなかったらしい)
またある日曜日、当時話題になっていた「米」という映画を見に品川まで行った時のこと、映画館の横で待ち合わせているところへ約束時間に遅れた安東仁兵衛氏が、大きい靴でドタドタと音をたてながら走ってきた。その時小野が「そんな大きな音を立てて走ってきたら、スパイの注意を引くことになるじゃないか」と彼をたしなめた。この時のことを私ははっきり覚えているが、それから四十年以上経った一昨年(九一年)たまたま安東仁兵衛氏が何かに小野のことを書き、小野の言うことが「朝令暮改」だったこと、「ある時小野から些細なことで強くたしなめられたということから、小野から離れていった」と書かれていて、人と人との接触がいつも必ずしもその意図通り受け入れられないのだということを強く感じさせられた。また同じ頃、平沢栄一氏がしばしば小野を訪ねてきた。そして必ずといっていいほどうちで食事をしたが、彼の食欲は旺盛で、私は内心ヒヤヒヤしながら食事を出していた。ずっと後になって平沢氏は「小野君の奥さんは、俺が東京の食い物をけなし、関西の食い物自慢をすると悔しがっていくらでも食い物を出してくれる」といっていたとか。平沢氏は太っていて、よく胸を広げては、その頃三ヵ月になっていた暸に乳房を含ませる恰好をして皆を笑わせていた。私は長女を出産したとき、できるだけ産後の休暇を長く取るため、出産ギリギリまで出勤し、「小野さん、もう休めよ」と見かねた同僚から言われるまで出勤したが、第二子の妊娠に気づいてそのことを外報部デスクに告げた時、「小野さん、もういい加減にしてヨ」と言われた。私はその言葉をおして出勤を続ける勇気がなく、休職の手続きを取った。
五〇年三月長男暸誕生。七月、新聞・放送のレッドパージ開始、私は休職のまま九月パージされた。
一方小野はアカハタ編集局で伊藤律と対立し、十二月出勤停止となった。そして私たちは全くの無収入となった。