【コラム】ひとりごと–警察の相次ぐ不祥事に思うこと–
◆最近、警察の不祥事が相次いでいる。マスコミも連日、取り上げて、いささか変わり映えのしない意見であるが、筆者もなんやかんやと言いたいので、「そうだ!そうだ!」と気楽に読んでいただきたい◆まず許し難いのは、神奈川県警でも新潟県警でもそうだったが、嘘に嘘を上塗り、それをよくもしゃあ、しゃあと公の記者発表で言う態度。特に新潟少女監禁事件では、最初の少女発見時に、保健所の再三の派遣要請にも関わらず、怠慢に拒否していたのに、記者会見では警察が発見と発表。しかし、保健所職員が発見したことをマスコミに言われてしまって、その後の記者会見では「第一発見者の保健所に迷惑をかけてはいけないと思ったから」との言い訳。誰が聞いても「怠慢のごまかし」としか言いようがない。また数年前には母親が、息子(犯人)の家庭内暴力を警察に相談した時も、適当にあしらっていたとのこと。母親が不起訴になったのは、この時の状況を、後の裁判で明らかになるのを恐れてかと疑いたくなる◆それに更に呆れるのは、発見時における警察特別監察中であるはずの県警本部長と関東管区警察局長。酒を飲み、麻雀をしながらの指揮に「それで的確な指揮ができたのか?」と聞かれ、「はい、そのとおりです」と言ってのけるのだから、別の意味で「あんたは大者!」と揶揄したくなる。せめて「酔った勢いで、嘘の記者会見を許してしまった」と言って欲しかった◆その後、二人の処分を巡って国家公安委員会が辞職を理由に不問にしたが、これもまた、最初の保利国家公安委員長の国会答弁とは違って、論議抜きで決まったとか。こうなれば「嘘つき大会の警察天国」と冷やかすしかしようがない◆こうした事態の中で、国家公安委員会のあり方やキャリア制度についての見直しなども論議され始めている。そこで筆者も多少、まじめなコメントをしてみたい。まずは、キャリア制度なんてのは、前近代的なのも甚だしい。何で最初の採用の入り口で一生の昇進レールが決まってしまうのか。これほど学歴本位主義の最たるものはない。筆者も社会人の端くれとして思うのだが、人間には「学力能力」と「仕事能力」と「人つき合い(人間関係)能力」とは、ある程度、別々にあるものだ。いくら試験的な能力があっても、仕事をさせてみれば、じれったいくらい鈍な人もいる。つまり企業でも役所でもそうだが、ある程度の学力が備わっていれば、その後の昇進・評価は、その後の本人の努力も含めた総合的な能力で測られるべきだし、またいつでも、誰でも、昇進・評価される可能性を持たせることが、平等というものではないか。その意味で、この際は大卒・高卒採用といった垣根を取っ払い、更に年齢制限も廃止または緩和して、一定の学力のみを考査する採用システムに改革すべきではないか。もちろん、これは国のキャリア制度のみならず、官・民問わず、求めたいものだ◆それと国家公安委員会に関しても一言。そもそも、こうした行政の委員会制度や審議会制度なるものは、その制度の本来的な趣旨とは別に、行政・権力が、あたかも民主的に判断しているかのような隠れ蓑に使われていることが多い。従って選出する委員も、行政・権力にとって当たり障りのない人が選ばれることが多いし、また選出された委員も名誉職のように思い上がる人も多い。評論家 桝添氏は、国家公安委員に連合などの労働団体が入っていないことを問題指摘しているが、仮に連合からも選出されたとしても、またもや行政に取り込まれ、御銚子に乗るだけとも思える。そこで、これもまた非現実的な原則論かもしれないが、やはり本来趣旨どおりに立ち返り、こうした委員会制度には全て、公選制としてはどうか。それが直ちに無理なら、せめて最高裁判所の裁判官のように国民ー市民審判制度を導入してはどうかと思う◆いずれにしても警察権力の最終・最高のコントロールシステムは、やはり国民・市民に、より委ねるものでなければならないだろう。なぜなら、警察を捕まえる警察はないのだから。(民)
【出典】 アサート No.268 2000年3月25日