【書評】『いま、非情の町で』
(鎌田慧著、岩波書店、1998.12.18.発行、1,700円)
失業者が戦後未曾有の規模と割合に達し、しかもその内訳では若年労働者の失業の増加という特徴を示している。この大不況・大倒産時代をもたらしたものとその有様について、具体的な現場から冷徹に見通しているのが本書である。
著者は今さら言う必要もない有名なジャーナリストであるが、その姿勢は一貫して、権力構造による抑圧に抗して闘う民衆や個人・地域・生活の側にある。それ故この視点からの主張は、必然的に日本の近代化・企業文化への痛烈な批判となる。
「日本の近代化とは、スクラップ・アンド・ビルドの別名であり、それは、企業の利益のための一方的都合によった」。
「他国の工場を蹴落とすのを至上命令としてきた日本の企業文化の精神とは、競争至上主義だった。(略)とにかく、なりふりかまわずドルを稼ぐ。そのためには、農業も漁業も衰退してもかまわない。なぜならそれら生産性の低いものは、稼いだドルによっていくらでも買うことができる、というのが、日本の産業政策だった」。
このような日本の、「がむしゃらな、バランスを欠いた官・政・財が結託した競争主義」は、いまや「空洞化とリストラ」という破綻を迎えることになったとされる。そしてその象徴が「企業城下町」の大規模な変化である。それはかつての基幹産業であった石炭や重工業にとどまらない。日本各地の元「企業城下町」で次のような光景が見られる。
「炭住など、企業城下町の社宅は廃墟となり、取り壊されて空き地となる。わたしは、これまで、全国でたくさんの草深い廃墟をみてきた。『兵(つわもの)どもの夢の跡』である。城主と重臣は立ち去り、行き場のない、足軽、雑兵の類いがかろうじて余生を送っている。(略)炭鉱は閉山、高炉は解体、ドックはつぶされ、工場は閉鎖されたのである。自動車のコンベアラインも、取り外しはじめられている」。
しかしこの無残な光景にもかかわらず、企業文化の精神(競争主義)はすでに、一致協力、秩序、同調化の強制等の特徴をもったまま、「清潔と排除の論理」として、工場の外部へと流れ出し、社会に蔓延してしまった、と著者は指摘する。このことは、公害、労災、過労死、自殺、精神障害、いじめ、交通事故の多発、汚染食品等々として結果しているのであり、さらにはこのような傾向を批判するべきであった、労働組合もジャーナリズムをも巻き込んでしまったのである。端的に言えば「日本では、戦後もなお、〈経済戦争〉のもとでの戦時体制だったのである」。
そしてこれに対して著者は、「非情の競争から連帯と共生へ。それが労働運動の精神のはずである」として、企業文化の精神(競争主義)を打破する可能性を、地域の住民運動と、反骨の人びとの精神に探ろうとする。本書の内容では、「沖縄の生きる力」や「三井三池炭鉱閉山の陰に」等のルポルタージュが前者のそれであり、丸木俊、今村昌平、家永三郎、浅野史郎(宮城県知事)、土屋正忠(武蔵野市長)等へのインタビューが後者のそれである。これらは、「いままでの政策が破滅への突進であったとすれば、これからはさまざまな産業を活かす、複合的な生き方である。それこそは、子どもたちの将来にさまざまな可能性を生かすことができる」と位置付けられ、「共生であり、共成である」生き方への一筋の道とされる。
「いま、サラリーマンたちが、必要以上に失業の不安におびやかされるようになったのは、依拠するものが喪失しかかっているからである。会社の永遠性と生涯雇用の約束はもはやない。倒産と失業に対抗するための労働組合には信頼性はなく、連帯感は断ち切られたままだ」。
このような状況に置かれながらも、「孤立してなお抵抗するようには生きてきていなかった」人びとに対して、「無理をせずに、ともに生きる関係とはどういうものか」を考えさせる素材として本書はある。(R)
【出典】 アサート No.257 1999年4月17日