【書評】アソシエーション論的転回による21世紀へのオールタナティヴを

【書評】アソシエーション論的転回による21世紀へのオールタナティヴを
捧堅二・宇仁宏幸・高橋準二・田畑稔『二一世紀入門──現代世界の転回にむかって』
(青木書店、1999.1.25.発行、2800円)

ソ連型社会主義の崩壊と余震の後、目指すべきであると思われていた社会は霧散した。しかし現存する資本主義体制は、米国一極中心に相変わらず矛盾の拡大を続けている。個のような時期に、「始まりつつあるこの21世紀はどんな世紀なのか」を問うのが本書であり、「現代社会をトータルに、また根本的にとらえなおす」という視点をもつ。
このため本書は、政治学・経済学・科学史・哲学という専門の異なる四人の著者たちの報告と、それをめぐる討論というかたちをとっている。著者たちの問題意識には、共通認識とともにかなりの差異があり、十全にまとまっているとは言い難いが、大筋では次の点に示されていよう。
すなわち「近代主権国家」、「成長経済」、「産業文明」、「近代世界システム」としてとらえられる現代の基本システムが、危機を伴いつつ、脱近代主権国家、脱成長経済、脱産業文明、脱近代世界システムへと向かう再編過程に入っているという認識である。
第一部(政治論)「現代世界とラディカル・デモクラシー」においては、近代主権国家の再編・止揚の主張と、これに代わるものとしての政治的多元主義、ラディカル・デモクラシー、「アソシエイショナルな革命」が説かれる。
第二部(経済論)「現代資本主義の構造変化と調整──成長経済を超えて」では、レギュラシオン理論の立場から、フォーディズムの涸喝の結果、「規模の経済」から「連結の経済」へ、「賃金の生産性インデクセーション」から「自由時間の生産性インデクセーション」への移行、「自由時間の非商品化」が提唱される。
第三部(文明論)「文明は自然を超えられるか」は、自然と文明との関係から、人間中心・人間の例外扱い(天動説的思考)が批判され、人間に対する「より客観的な見方」を主張する。その上で人類の文明史の三段階(狩猟採集文明、農耕文明、工業文明)の最後の段階である工業文明の行き詰まりの指摘と、「脱消費社会」への価値観の転換が重要であるとされる。
そして第四部(世界論)「世界とは何か、現代とは何か──現代と世界の三層構造」では、世界を「我々である我、我である我々」を包摂・囲繞するものの総体として考えるならば、「基本骨格としては、自然層─日常生活層─近代世界システムの三層からなる」構造として解明していくことが不可欠であるとする。そしてその中核をなす近代世界システムの構造的特質(ミクロの合理=マクロの非合理)が陥った危機からの変革のために、「アソシエーション論的転回」の必要が主張される。すなわち「システム─→危機─→闘争─→アソシエーションの実践という、この自生的に再生産されているダイナミズム」こそが、未来論のベースになるとする。
以上のように本書は、それぞれの視点からオールタナティヴの基本方向、基本価値を提示し、読者に呼びかける。しかしこれは、あくまでも第一歩であり、本書で提唱されている事柄も、現実との絡みで進展困難な状況に陥ることもあり得ると言わねばならない。この意味で以下にあるような指摘も、冷静な判断の材料として考慮に入れられねばならないであろう。例えばこうである。
「単純に市民社会を『善玉』扱いするのは危険です。先進国で途上国でも、市民社会は闘争の舞台だということは押さえておく必要があります。日本のNGOについての書物が描くように、(略)それを一律に単なる善意の団体とみるのはナイーヴすぎます。人道だけで動いているのではないことはいうまでもありません」(政治論)。
「貨幣を伴った交換のシステムが発達した状態を経済学者は市場経済と呼びます。しかし、市場経済という社会制度が単独で存在したことはないはずです。市場を通した取得と暴力(実力)による取得という二大方式がいつも競合・共存していたし、現在もそうなのです」(文明論)。
「近代国家が成立する直前のヨーロッパにおいては、私有財産を保護したり経済的契約の履行を強制したりする暴力機構が成立することと市場経済が普及することとは表裏の関係をなしていたことが分かります。今日でもその原理は同じで、経済契約履行の究極的強制力は暴力によって保証されるのです。それがなければ資本主義制度はありません」(同)。
これらの指摘は、現実の社会変革の困難と矛盾を象徴している。しかし本書のような共同研究を手始めとして、これらの面をも含み込んだ、より包括的で具体的な討論と実践が行われることを期待したい。(R)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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