【投稿】『石原慎太郎知事誕生が警告するもの』への疑問
<レッテル張りではなく、正確な石原批判をして欲しい>
本誌前号(NO257)の生駒論文『石原慎太郎都知事誕生が警告するもの』を読んで、いろいろ違和感を感じた。「何故こういう書き方、論理展開になるのだろう。はじめから結論ありきで書いているからではないだろうか。」と思わざるをえなかった。石原都知事誕生を批判する事は、自由である。問題は批判の中身である。レッテル張りではなく、正確な石原批判をして欲しいと思うo「右翼民族主義のもっとも危険で差別意識丸出しの知事の誕生」と書いてある。右翼民族主義とは何なのか。差別意識丸出しとはなにをさしてそういうのか。石原都知事誕生そのものの評価とは別に、石原都知事誕生を批判する生駒論文の批判の内容に納得がいかないのである。
<南京大虐殺とシナ・核発言での程度の低さを露呈した人物か>
「石原は周知のように、これまで何度も虚言・差別発言を売り物にしてきた人物であり、南京大虐殺を『中国側の作り話』『うそ』と断言し、今回も平気でシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら耳らじる事のない程度の低さを露呈してきた人物である。核の問題についても『少なくとも、自前の核を持った国は、厭な、妙な言い方だが、それを盾にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる。』とする認識の程度である。こんな人物が『政治不信』を理由に国会議員を辞任しながら、今度は野心万々に同じ政治不信の伏魔殿とまでいわれる都政に乗り込んで、またもや責任放棄といった事態は十分にありえる事であろう。」と批判している。石原氏がこれまでどんな虚言・差別発言を売り物にしてきた人物か、私は知らないが、今回その根拠として生駒さんがあげている点については、納得がいかないのである。
<いまだはっきりしない「南京大虐殺」の真偽>
生駒さんは「石原は南京大虐殺を『中国側の作り話』『うそ』と断言し・・・」と批判している。「南京大虐殺」の真偽については、現在論争の真っ只中にあることについては周知の事実である。
この問題について石原氏は4月19日の産経新聞(99年4月20日朝刊)のインタビューで次のように応えている。「(当時を知る日本の代表的な有識者に何人もあって)聞いた限りでは、『私たちは見なかった』としている。南京陥落から五日目に(現地に)入った人たちだ。ニューヨーク・タイムスの記者も『おかしい』と言っている。日本軍が攻めてくる前に、ずいぶん、南京で中国人が中国人を殺したんだ。焦土作戦のためにね。・・・日本軍が南京に入る時の人口は20万人足らずだったと思うが、それがなんで30万人になるのか。一万、二万の兵隊、市民は殺したかもしれない。ゲリラとも見分けがつかずに。・・・短期間に三十万人を殺すと言うのは余程計画的でないとできないし、無理な事ですよ。やはり作戦指導(計画)とか日本側にもいろいろあり、(そうした公文書は)改ざんできないのだし、そういう物を(日中)両方でキチツと資料として出し合って、すみやかに検証する必要がある。日本軍が悪い事をしなかったと言っているわけではないのだから。日本政府がやらないのなら東京都が金を出したっていい。大事な事だから日本民族の汚名をそそがないと」
石原氏の発言は、極めて常識的であり、政策的にも重要な事をいっている。「従軍慰安婦」論争と同じく「南京大虐殺」論争も未だ決着がついていない。論点は出尽くしているのである。あとは、韓国政府、中国政府と日本政府が共同して本格的に検証して決着をつけるべき問題なのであるが、不思議にその動きが出てこない。「日本政府がやらないのなら東京都が金を出したっていい。」と主張する石原氏のどこが右翼民族主義者なのだろうか。
<「シナ」は中国への差別発言か>
「今回もシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら恥じる事のない程度の低さを露呈してきた人物…」と批判している。これにたいして石原氏は「最近になって(過去の歴史において中国側がシナと言う言葉に)傷ついた史実が合ったらしいと言う新たな発見をした。(それでシナという言葉は最近使っていないが、もともとは)フランス人がシーヌ、イギリス人がチャイナと言うのと(同じ意味合いで、それとは)違って、同列に日本人がシナというのは(けしからんと中国側がいうのは)、日本とは歴史的に特殊な関係があったからで、それならあえて言う事はないと思った。取り消したわけでもないし、いわない事にしただけだ。」と応えている。インタビュウーの要旨記事だからちょっとわかりにくい点もあるが、石原氏の考えはそれなりに分かる。シナという言葉を使う事によって、石原氏は中国差別をしていることになるのだろうか。生駒さんは、シナという言葉が何故に中国差別になるのか、その根拠を示さずに中国差別の発言と決めつけ、差別意識丸出しの知事の誕生と批判している。シナという言葉が、中国差別であると言う根拠をまず示すべきである。
<核で「駄々」をこねているのは北朝鮮>
「少なくとも、自前の核を持った国は、厭な、妙な、言い方だが、それを盾にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる」とする認識の程度だと生駒さんは石原氏を批判している。この石原氏の発言はどんな文章の中での発言か、生駒さんはここだけを抜粋して批判しているので分からない。この文章を読んで「核で世界に駄々をこねているのは、まさに今の北朝鮮だな。」と真っ先に思ったものである。核を持つた国が世界に向かって駄々をこねられると言うのは、世界政泊をリアルに見た場合の一つの真理である。だからどうするのかが問題なのである。そこの論理展開を抜いて、石原氏のここの発言だけを取り上げて、こんな認識の程度であると批判しても、説得力に欠ける。石原都知事誕生を批判する事は自由である。しかし批判にはその根拠を正確に提示しなければきめつけ、レッテル張りになってしまうのである。
<「日の丸・君力く代」を認める人は右翼民族主義者か。
「石原の『YES,NO』の基準が、『日の丸・君が代』を基軸とした民族主義と右寄りのスタンドプレーと暴言であるだけに、多くの予期せぬ事態をもたらしかねないであろう」と生駒さんは批判しているが、「日の丸・君が代」を基軸とした民族主義と右寄りのスタンドプレーと言う内容が語られていない。「日の丸・君が代」を国旗、国歌と認める事が民族主義になるのか。それの法制化を認める事が民族主義になるのか。もしそうだとすれば、石原氏に限らず国民の大半が民族主義者と言う事になってしまう。ここでも民族主義とは何なのかと言う事は全く明らかにされていない。生駒さんは、自らが批判する民族主義の内容と日の丸・君が代の関係について明らかにする中で、石原氏の批判を展開すべきなのである。
<「日本をほめよう」キャンペーンヘの深読み>
3月17日の全国紙朝刊3紙や地方紙など全国の55紙見開き右側に「ニッポンをほめよう」と大きな活字、その下に「日本の強み、日本のいいところを、ポジティブな姿勢で見つけ出し、見直していこう」などの文書が記され、左側には故吉田茂元首相の顔をアップにした一面大の写真が、製造、金融、サービスなどの広告主59社と、それを掲載した新聞社の計60社による意見広告として掲載された。
生駒さんは「3・29の記者会見で民主党の羽田幹事長が『これは、現在の政府や現状を批判するなと言う事だ。これは民主主義を踏みにじろうとする危険なものだと思う。この時に、何故、こんなキヤンヘーンが行なわれているのか』と厳しく批判したのは当然の事と言えよう」と述べている。
わたしの感じ方と全く違う。わたしはこれを見たとき「いいタイミングで、いい広告をだすなあ」と感心したものである。長く続いた日本経済の不況、政治、官僚、財界の不祥事の連続の中で自信をなくしていた日本。今年に入って経済にも少し明るさが見えかかってきた時に、「ニッポンをほめよう。日本の強み、日本のいいところを見つけ出し、見直していこう」という意見広告が掲載された事が、どうして民主主義を踏みにじろうとする危険なものになるのだろうか。現在の政府や現状を批判するなと言う事にどうしてつながるのか。深読みすぎるのではないだろうか。しかしこれはそれぞれの感じ方の問題であり、どう感じるかは自由である。
問題にしたいのは、羽田幹事長や生駒さんの批判が、国と、時の政府をストレートに一体のものとみなし、国をほめる事が時の政府や現状を批判するなと言う事につながり、民主主義を踏みにじるものだと決めつけている事である。国をほめることと、時の政府をほめる事は直接的には結びつかない事は自明の事ではないか。この「ニッポンをほめよう」の広告のどこに時の政府や現状を批判するなと言う事がかいであるのか。本当に理解に苦しむ批判である。
<あいまいな低投票率批判の矛先>
生駒さんは今回の統一自治体選挙の低投票率を批判している。低投票率を批判するのも自由である。しかし低投票率批判の矛先があいまいなのである。「問題はこうした関心の低さ、投票率の低さを逆に良しとし、その土俵の上でしか政治を考えないようにし、政治を狭め、無関心層を増大させ、政治を馴れ合いと取り引きの場に変え、政界、官僚、財界の利益配分の場にしてきた現実、石原知事誕生はこうした現実にたいする警告であると言えよう」と生駒さんは書いている。この文書には、誰が、どの陣営がそうさせたのかと言う主体を欠落させているので、その意味がよく分からないのである。生駒さんは、意図的に今回の統一自治体選挙で低投票率に誘導したものがいるとでも言うのだろうか。おそらく、政府・自民党が誘導したとでも言いたいのではないかと推測する。これは現場で選挙戦を闘ったものの実感とは全くかけ離れている。選挙戦を闘うものは、投票率一般を上げる事を第一義に考えてはいない。個別の支持する候補者へのできる限りの支持を取りつけるために、決められたルールに従って死力を尽くすのである。その結果、投票率が上がる事もあるし、下がる事もある。それを決めるのは有権者であり、誰かが意図的に操作して低投票率にする事などできるわけがないではないか。生駒さんの低投票率批判の内容は本当に分からない。
<投票棄権も有権者の意志表示>
低投票率である事がそんなに批判されるべき事なのか。かねてからの私の疑問である。低投票率=政治不信、無関心層の増大と決めつけてしまっていいのだろうか。投票棄権も有権者の意思表示ととらえることができるのである。「私は投票を棄権する。この人にどうしても入れたいと言う人がいないから。しかし、投票の結果には従います。」と言う主張があってもいいし、現にあるだろう。投票は、誰かに強制されてするものではないからである。本人の意思で決めるものである。自ら投票を棄権した結果、その後の政治で自らに不利益を被ったと感じれば、自ずと次ぎは投票にいく場合もあるだろうし、また棄権する場合もあるだろう。それはあくまで本人の選択である。それが民主主義のルールではないか。選挙結果をまず素直に認める事である。みずからの政治主張と違った結果になったからと言って、その原因をみずからの政治主張の正当性を導くように分析するのは間違っている。何故、自らの思うようにならないのかと言う自らの政治主張の反省も必要なのではないか。そういう反省の中から、できるだけ選挙結果を客観的に分析し次のとりくみに生かしていくべきなのである。
<旧態依然の公職選挙法の改善を>
選挙戦の論評の中で決まって出てくるのが、「ほとんど政策対決も論議もない盛り上がりに欠ける低調な選挙であった」と言う批判である。何故政策対決も論争もない選挙戦となるのか。批判ばかりしていないでその原因を分析し、具体的改善策を提言すべきなのである。日本の選挙戦は旧態依然の選挙戦で、時代に全くあっていないと思う。公職選挙法の改正抜きに、選挙戦が政策論争を闘うものになるはずがないのである。誰もが感じているのに、その事が大きな声にならない。もっと、選挙活動を自由にし、地方のテレビ・ラジオを使って候補者間の政策論争の場を大胆に提供する。候補者個人が活用する活字媒介については一切制限せず、一定の限度で公的補助をする。「選挙公報」ももっとぶあつい冊子形式に改める。公開討論会も戸別訪問も自由にする。その代わり、街頭演説会を除き、スピーカーでただ候補者の名前を連呼して回る宣伝カーや駅頭での朝だち夕立などは禁止する。今の公職選挙法の改正をしない限り、候補者同志の政策論争などできるわけがない。
(1999・4織田 功)
【出典】 アサート No.258 1999年5月22日