【投稿】何が問題か--戦後思想の課題
アサート246号で、「戦後民主主義を問い直す」を投稿されておられる織田さんから、「依辺さん。再度、本格的に論じてもらえませんか」と、依頼(?)を受けた。何を論じればよいものか、私自身よくわからなが、最近、考えていることを述べて、問題提起としたい。
【議論なんてしない?】
昨年の秋だったと思うが、出身大学の学生たちと話す機会があった。3回生だという男子学生の話を聞いて、私や同席していた私と同世代の友人たちが、あまりの文化的ギャップに一種のショックを受けたことを覚えている。
その学生は、「ぼくたちは議論なんかしません」といともあっさり言い放ったのだ。もちろん我々とて、昨今の学生が、社会問題や人生について侃々諤々の議論をしているなどと考えていたわけではないので、その意味するところをもう少し尋ねてみると、次のようなことだった。
ぼくたちは、議論というものはしない。たまに、オタクっぽい奴が滔々と自説を述べることがあるが、誰もが聞いているだけで意見は言わない。誰かの意見に反論がなされ、議論になったりすると雰囲気が気まずくなるからだ。
そこで私の友人が更に彼に尋ねた。どんなことでも何かを多数の人間と一緒に行うためには、話し合いや議論は不可欠ではないか、と。それに対する彼の回答は、次のとおりだった。
ぼくたちのやることは、所詮「関西ウォーカー(イベント・飲食店などの情報雑誌)」に載っている範囲のことだ。つまり、この本に紹介されているどの店へ行くか、どこへ遊びに行くかということぐらいしか決めない。だから、議論など必要ない。いやなら、いやな人だけが話にのらなければいいのだから、と。
【「公共性」の軽視】
私は、今、その話をドイツの哲学者ハーバーマスの思想と重ね合わせて考えている。
現代の思想潮流は、人間の理性を疑うポスト・モダン思想が圧倒的な主流である。その中で、あくまでも人間のコミュニケーションへの信頼、すなわち、人間相互の平等な対話によって支えられた合理性の実現こそが真の秩序を生み出すと主張するのがハーバーマスである。
彼の思想に立ち入る前に、「公共性」というテーマについて少しふれておこう。
実は、戦後政治思想が大きく欠落させたテーマの1つが「公共性」にまつわる議論である。このあたりの問題について、最近、特に注目される論者が、佐伯啓思(レッテル貼りが好きな人は、彼に西部邁と同じく保守主義者というレッテルを貼るだろう)である。
彼も述べているが、ヨーロッパの民主主義には、長年積み重ねられてきたギリシャのポリス以来の自治都市の厚い伝統がある。
例えば、「パブリック」(公共)の上に成立したのが「リパブリック」(共和国)であるというように、語源の上からも両者は分かち難く結びついている。それゆえにヨーロッパでは、民主主義の土台となる「公共性」や社会規範に関する論争が、今でも活発に行われている。
ところが戦後日本の政治思想の中で、「公共性」は胡散臭いもの、否定されるべきものとしてしか扱われてこなかった。それは、「公共の福祉」という憲法上の文言が、権利制約の理由付けの言葉として登場していたため、「民主主義」にとって「否定」すべき概念と映ったからである。また、最近では「公共事業」などというと、無駄や利権と同義であるかのような風潮すらある。
しかし、民衆が、自己の私的利害、得失を離れて自己を超えた公共的見地にたたなければ、民主主義なるものは私欲の最大限化を図るための「欲望民主主義」に変質する。従って、「公共性」という概念は極めて重要なのである。
【「国家」の否定】
「公共性」という問題を議論すると、公共空間としての「国家」や「地域」の問題に至る。それはまた、「公共性」の源泉に関わるテーマである。
1980年代の英米圏における大きな政治哲学上の論争には、リベラルズ(自由主義者)とコミュニタリアンズ(地域主義者)の論争があった。もちろん、コミュニタリアニズムには、ハーバーマスとも共通する、ポストモダンの思想状況を踏まえた近代的自我への根本的な反省や自由主義の根本的な軌道修正を含んでいる。
従って、1989年のベルリンの壁崩壊以降に「市民社会」が論じられる場合の「市民社会」とは、「ブルジョア社会」の言い換えだととらえるマルクス主義的な前提は通用しない。少なくとも、それが世界的な思想状況である。
ところが、日本のいわゆる「進歩派」と呼ばれる立場の論者には、その転換を理解しないで、昔ながらの前提で議論をする人が多い。
同様の問題が、「国家」というテーマにもうかがえる。そしてこれは、日本の特殊事情に起因していると思われる。
つまり、戦後の民主主義思想が戦前の思想、戦前の国家体制の徹底的な否定によって形づくられたがゆえに、あらゆる国家的なものが否定されてきたということである。
特に、明治天皇制による国家と政府の一体化が、戦争責任の追及による「(過去の、そして過去の政府を清算しない現在の)政府の否定」を、「国家の否定」へ論理的に飛躍させてしまった。
本来、政府(Government)と国家(「Nation」、アメリカ人なら「States」)は明確に区別された概念である。日本国憲法の前文で、「政府の行為によって(through the action of government)再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」とあるように、戦争は政府がとる行動(政策)と捉えることができる。
しかし、国家と政府が一体化してしまった明治以降の天皇制国家体制をマルクス主義的な仮説をもとに批判すると、そうした区分はあいまいにならざるを得ないのである。
国家を論ずることと、ナショナリズムは必ずしも同義ではない。素朴なパトリオシズム(愛国主義)とナショナリズムも異なるものである。もちろん、ワールドカップサッカーで日本チームを日本国の代表として応援することがナショナリズムというわけではない。
しかし、国家の影がちらつくものすべてをナショナリズムで危険なものと排斥し、「国家の脱構築」を進めたのが戦後民主主義であったという佐伯や西部の指摘は正しい。
【コミュニケーション行為】
さて、ハーバーマスの最も重要な哲学的基礎は「間主観性」という考え方にある。これを簡単に説明すると、我々は社会において他の人々との交流の中で生き
ていること、この他者との関係がまっさきにあるのであって、我々の認識はこの関係性の中ではじめて生まれ、分節化されるということである。これはフッサールの現象学からハーバーマスが取り入れたもので、世界や他者から孤立した主観を起点とする近代哲学の主
流である意識哲学と根本的に異なっている。
もっと具体的に述べれば、現代はすでにポスト慣習、ポスト形而上学の時代に入っており、真理、規範、民主主義、公共性などについて、超越的な原理や既成の規範への盲従は許されない。ハーバーマスは、そうした状況を受け入れながら、なおかつ価値相対主義に陥ることなく、対話的な営みの中に、先のような近代的諸価値を位置づけ直したのである。
いかなる強制からも自由な討議が制度的に保障された理想的なコミュニケーションの共同体においては、人々はより説得的な議論を他の人々に示すことができたもの(より良き論拠)だけを権威として認め、自分の意見や個人的な利害を捨てて、より普遍的と思われ
る意見に自分をあわせることになる。人々は自分たちの討議を通して、規範を、価値を作り出し、それを自ら生きようとする。ハーバーマスの思い描く極限的な理想のイメージはこのようなものである。
【対話や議論をはばむもの】
もちろんハーバーマスとて、このような状況が容易に現出するとは考えていない。詳しくは紹介できないが、彼は社会を、日常言語によるコミュニケーションとそれによる行為調整が有効な社会領域である「生活世界」と、貨幣や権力などの制御メディアによる行為
調整が有効な経済や行政などの「サブシステム」に分けて理解する。そして、後期資本主義社会では、システムの論理が生活世界を侵食する「生活世界の植民地化」が生じ、社会のコミュニケーション構造が基本的に変質するとしている。
また、ハーバーマスは、人間のコミュニケーションを情報交換と討議の二種類に分けて考えている。日常的には一定の規範のもとで情報交換が行われているが、その規範の正当性が疑問視されたとき、討議が開始されるとするのである。
とすれば、情報交換はするが、討議はしないという冒頭の若者たちは、彼らが徹底した消費文化の中に生きており、討議を必要とする生活世界が市場経済システムに侵食されて貧困化している結末なのだと言われれば、なるほどと合点がいく。
また、コミュニケーション構造の変質は、公共政策をめぐっても生じる。後期資本主義社会において市民は、国家の単なるクライアント(顧客)と化す。そして、この社会国家において民主的意思形成は、コミュニケーション行為による社会統合に向かうのでなく、
各人が社会的生産物を均等に獲得するための道具として機能するにすぎなくなるというのである(「公共性の構造転換」)。
【従軍慰安婦問題を通じて提起されたもの】
さて、ハーバーマスを引用し、長々と大仰なことを述べてきたのは、次のような理由による。
すなわち、「戦後民主主義を問い直す」という織田氏の投稿とアサート紙上の対応の中で、私が非常に興味深く感じたことが、氏がテーマとして持ち出されている「従軍慰安婦問題」そのものよりも、議論をしたいという氏の気持ちに反して、彼の主張を「右翼的ス
ローガン」と相手にしない雰囲気だったからである。
これは、もちろん、冒頭の若者たちが「議論をしない」というのとは違う性質のものだろう。一言で表現するならば、強い普遍性や狭い絶対性を主張する近代的理性ゆえの対話拒否である。
しかし、両者は同じ結果をもたらすものであって、織田氏が主張される問い直されるべき戦後民主主義の問題点とは、まさにこの点に尽きる。
ただ、従軍慰安婦問題の何を議論するかについては織田氏の提起は未整理である。強制連行があったのかどうかという事実関係を問題にするには、我々はあまりにも情報不足である。個人的な認識を述べるなら、軍による組織的な関与・強制があった事例もあっただろうし、本人の意思にもとづく従事もあっただろうというぐらいのものにすぎない。
しかし、「元従軍慰安婦に対する国家補償」という公共政策を実施すべきか否かをテーマにするのなら、私は日本の戦争責任や歴史観とは別の観点で、実施に対して懐疑的である。
例えば、元慰安婦が直接日本政府に対して補償を請求するという枠組みそのものに疑問がある。元慰安婦が軍と直接の身分関係にあったわけではないことは明らかなので、もし補償を課題にするなら自国政府を通じた国家間外交の課題とすべきである。また、対象者
をどの範囲とし、どのように認定して補償するのかという問題もあるし、戦争被害者補償をこの時期に拡大するのなら、他の様々な戦争被害者に対してどのように対処するのかも明確にする必要があろう。政策化にはあまりにも問題が多い。
しかし、このような各論のテーマはとりあえずこの場では意味がない。要するに、日本の戦争責任を明確にし、元慰安婦の人権を擁護すべきだと考える人々にとっては、自らが前提とする正当性に疑問が投げかけられること自体が認められないからである。
【おわりに】
私は本紙239号で、「ポリティカル・コレクトネス」という概念を紹介した。すなわち、「歴史的な法律・道徳・習慣・伝統などに照らしての正当性よりも、現在の人々が置かれている現実の政治的・社会的な状況に照らしての正当性を優先すべきだという考えとなっ
て、一定の定着をみている」ものである。
それは、「考え方だけをとればとても進歩的で立派なように見えるが、実際にはかなりおかしな現実を生み出す」。いわば「法や制度よりも『風潮が容認する正しさ』が優先される社会となるからだ」とする批判もあわせて紹介した。
強い普遍性や狭い絶対性を主張する近代的理性は、討議によってあらためて位置づけられない限りドグマに転落する。そしてそれは、単なる「風潮が容認する正当性」を前提とした公共政策につながり、その公共性を自らスポイルしかねない。人権、平和、環境など
近代的な普遍価値があらかじめ前提となっている政策分野では、特に注意が必要であろう。
「『アサート』は論争の場にならなければだめだと思う」「論争よ起これ!と言いたい」と主張される織田氏は全く正当である。しかし、それ自体の困難さと具体化のための営みが、日本の戦後民主主義の課題であり、我々が未来永劫背負わなければならない普遍的なテーマだと、私には感じられて仕方がない。(依辺 瞬)
【出典】 アサート No.247 1998年6月26日