【書評】ヤクザの視点から見た日本人論 ヤコブ・ラズ著/高井宏子訳
『ヤクザの文化人類学-ウラから見た日本』(岩波書店、1996・11・20・発行、2987円)
日本人とは何か、日本社会の本質とは何か、について数多くの日本人論・日本社会論が出されている。本書もそのうちの一冊といえよう。ただ本書のユニークさは、その手がかりとして、日本社会の中心から排除されて周縁を形成している集団とされるヤクザを取り上げたことにある。そしてそこにかえって日本社会の本質的特徴が逆照射されているとする。
著者によれば、ハイデガー同様、「他者とは所与の出会いにおいて暫定的に捉えられた自己の一形態」「自己の変形」であるとされる。「したがって他者であると規定し、その性質、つまりイメージをそれと指し示すとき、その規定の仕方は規定する本人の状況と深く関わっている」。それ故この前提を本書の主題にあてはめるとき、著者の主張があらわれる。すなわち
「ヤウザは日本人の中心的自我の-つの変形であり、逆もまた真なりと言える」。
「私の考えでは、ヤクザは伝統的社会から排除され拒絶されてはいるが、多くの点で日本人の文化的な自己の一部であって、しかも周縁とは言い切れない一部である。二つの社会が似ているからこそ排除や拒絶が起るのである」。
このことを著者は、ヤクザにかかわるアイデンティティとその呈示の仕方を検討することで解明しようとする。
ヤクザのイメージが、一方では、ヤクザ映画のヒーローや寅さん現象によってつくられる美学的放浪者であり、他方では、ヤクザジャーナリズム(実話誌)や極道文学によって宣伝きれる暴力的な集団というものであるように、ヤクザのアイデンティティとその呈示の仕方は、「排他性と包含性の二極間を往復して」いて、「どちらも一貫性に欠け恒常的でもない」とされる。
すなわちヤクザの「自己の呈示とはあるアイデンティティがあってそれが呈示されるというだけでなく、呈示そのものがアイデンティティに含みこまれる」のである。したがって「ヤクザの歩き方、話し方、服装などの自己呈示は、「完結し確定したヤクザ」という自我を表わしてなどいない」ということなのである。
換言すれば、「生得的なヤクザという人格などありえない。新参者はヤクザという人格を外見的な行動様式によって形作り、そしてそれを内在化するのである。つまりヤクザという人格は外見から始まって、内面へと広がっていくのであり、それゆえに後得的に獲
得される人格といえる。その意味ではそれは人格というより、獲得された(外的な)行動様式である」ということである。
そしてこのときに重要な役割を果たすのが、「ヤクザという烙印」であり、「逸脱」である。しかしこの「烙印」と「逸脱」は、一般社会(中心社会)との関係を抜きにしてはあり得ず、「中心社会の貼るレッテルの多くは、他者を作らずにはいられない必要性に基づいており、またそこから生じる次の必要性–中心社会の成員はこれらの他者とは異なっていて、その行動や振る舞いは別だと証明する必要性-に基づいている」。つまり中心社会の裏返しとしての周縁は、まさしく中心社会そのものによって形作られるのであり、しかもその周縁に位置する「ヤクザは、自らすすんでヤクザの烙印とイメージを自己のアイデンティティの中心にしている。一般の社会で用いられる言葉に劣らず強い言葉を使って自分たちをヤクザだと宣言する。実際カタギの人々が自己をカタギであると宣言するのと
同じようにヤクザは自分がヤクザであると宣言する」。このような逆転したメカニズムの中に、ヤクザは自己の存在を正当化する理由づけを確立していくのである。この意味で「ヤクザは日本人の中心的自裁の一つの変形」である、と著者は述べる。
そしてこのような中心/周縁関係は、日本社会において地域社会が存在していたことによってその関係・境界がある程度明確なものとされてきたとされる。
ところが1980年代の中頃から、そして1992年の暴力団対策法の施行によって、上記の関係は決定的に変化した、と著者は見る。すなわちその結果は、ヤクザの活動が暴力化し、警察の対応が厳しさを増し、また社会の方でもヤクザに対して逸脱性や犯罪の概念が先鋭化したことなどである。ヤクザに対して「暴力団」という呼称を与えてひとからげにレッテルを貼ったことも、この一つの例といえよう。かくして昔風のヤクザ
は姿を消し、ヤクザは、ますます暴力化していく「新しい日本のギャング派」か、あるいは合法または非合法の「ビジネス派」か、の対照的な二つの方向に分かれてきている。
そして著者は、「ヤクザが日本社会でこのまま許容され続けるか否かは、最終的には、警察が決めることではなく高度の政治的判断によって決定されることである。組織的犯罪を完全になくすためには膨大な資金とはるかに強力な法の制定が必要である」と締めくくる。
以上のように著者は、ヤクザについてのフィールドワークを通じて、「『カタギ』とヤクザの間に、腐敗企業などに関するレベルよりはるかに深い類似性がある」ことを明らかにしようとした。この点でわれわれ一般の市民の眠から見たヤクザ像よりもはるかに多面的かつ現実的なヤクザ像を提供し、それが通常の世界を補うもう一つの世界であることをかなり鮮明に示したといえよう。このことは日本人論としても特異な位置を占めるものであろう。また個々のケースにも興味深いものがある。
しかしながら、本書において決定的に不十分な諸点も存在する。それはまず、ヤクザが「日本的」なものをあらわしているというとき、「日本的」という言葉の意味する内容そのものの不定義、曖昧さである。また用語の問題でいえば、ヤクザの意味する内容(博徒、テキヤ、極道、暴力団、遊び人、右翼等々の区別と関連の問題)の曖昧さであり、著者がいう「ヤクザは心の一つの状態であり、一つの役割である」ということを認めるにしても、日本社会でのこれらそれぞれの位置が異なり/重なっていることの解明が不可欠であろう。
次に、著者の知り合ったヤクザの親分個人への共感・思い入れは理解できるが、ヤクザは、例外的に一匹狼であってもヤクザという集団に属し、ましてや圧倒的多数は組織に属しているという事実が存在する。
従ってヤクザ理解は、現代では組織の問題を抜きにしてはあり得ない。儀式・因習のかたちをとるとはいえ、ヤクザ組織は近代化せざるを得ず、組織暴力もこの視点からしか見ることができないのではないか。ギャング派にせよビジネス派にせよ事情はそれほど変わらないと思うが、本書においては組織への言及はない。
さらにはヤクザをも含むもっと大きな権力との問題が存在する。ヤクザと権力がウラの世界でつながっていることは社会周知の事柄である。ヤクザの活動資金の大きな部分を占めるこの世界との関連は、しかし本書の手に余ることかもしれない。ただ本書の中で法の強化について引用されている阪大法学部本間教授の次の発言が象徴的である。
「そのようなことを成し遂げるには、まず日本の中枢部の中でヤクザを道具として容認ないし助長してきたー派と対決することから始めなければならないだろう」。
本書は、現代のヤクザというよりも、少し前の古風なヤクザを分析検討した書という方が適切かもしれない。(著者自身も「あとがき」のなかで「その意味においては、本書で述べたことの多くがすでに過去の歴史となっている」としている。)しかし「日本では、法の道徳(厳密な法の世界)と共同体の道徳(社会的な共感の世界)の間に、一種の裂け目があるのだ」という指摘は的を射たものであり、この裂け目を埋める「顔の広い人」・調停者という意味でのヤクザの役割は、残念ながら現代においてもなお大きいと言わねばならない。(R)
【出典】 アサート No.233 1997年4月19日