【書評】近代社会のルールと自由主義

【書評】近代社会のルールと自由主義
水田洋『アダム・スミスー自由主義とは何か』(講談社学術文庫、1997.5.10 発行 760円)

「景気が悪くなると、アダム・スミスにお座敷がかかる。石油ショックの時がそうだったし、バブル崩壊の時もそうである。
スミスが経済学ではなく道徳哲学の教授であったことを、人びとは思い出す。しかも今度は、いわゆる社会主義の崩壊という伴奏がつき、ハイエクという外野席の応援団長がいる。本当のところ、この伴奏も応援もスミス理解にとって困りものなのだが、それぞれ反面教師としては利用できる」。
これは本書からの引用であるが、アダム・スミス(1723~90)といえば、かの「見えない手」の導きによる社会の調和という自由放任の主張のみが有名である。しかし本書は、そのスミスが「手放しの自由放任主義者ではなく、自由競争に内在するルールを想定していた」ことを強調する。著者によればこのルールは、上の引用文にあるハイエクに欠落しているのみならず、崩壊した社会主義の前提となった「後期資本主義」にも存在しなかった(もっと言えば、日本の資本主義にもない)ときれる。本書は、かかる視点からするスミスの伝記である。
では自由競争に内在するルールとは何であるか。それはスミスのいう商業社会もしくは文明社会が近代市民社会であること、つまり私有財産と営業の自由にもとづく社会であることを前提にする。この社会では、自由競争が行なわれるが、それは勝つためには何をしてもよいというのではなく、公平で中立的な観察者(「冷静な世間の日」)が同感する範囲内で全力をあげることを意味する。すなわち競争相手も自分と対等・平等の関係にあるのであり、さらには公平で中立的な観察者自身も、また自分では自分の利益を追求している。それ故この社会では、各人の信用失墜は社会・個人の双方にとって致命的であり、この意味でとりわけフェアな競争条件というルールの維持に関心がもたれる。
このようにスミスは、人間が自己中心的であり、自分の利益を第一にすることを前提にして、他人、社会の同感を考慮して自己規制することを求める。「したがって、この自己規制は、欲望をすてる自己否定ではなく、すべての人びとが欲望をおって競争するときの、ルールなのである」とされ、むしろ自己肯定の傾向が強い。そしてこの社会の目(=自制心)が個人の中に定着したとき、良心とよばれるものとなる(『道徳感情論』)。
スミスの主著『国富論』は、上の人間観に立って人間のこの世の幸福の物質的条件を求め、「およそ人が富裕であるか算乏であるかは、人間生活の必需品、便宜品および娯楽品をどの程度に享受できるかによる」として、生活資料の量-すなわちそれは諸国民の労働の有効使用に依存する-がその基準であるとする。その展開は本書の三分の一を占める「『国富論』の世界」の章に譲るとして、これまでの観点からすれば、個人のもっとも有利となる資本の使用法が(ルールの厳守において)なされるならば、それが全体としての富裕につながることが理解される。これが「見えない手のみちびき」の本来の意味であって、ここから国家の役割もまた規制されるようになる。
スミスは、このように個人間のルールを重視する観点から、「公共の利益」を説く者によくある偽善性を批判する-「公共の利益のために営業をするようなふりをする人びとによって、大きな[公共の]利益がえられたことを、きいたことがない」(『国富論』)。(なお著者もこの引用について、「スミスのことばの最後の部分は、二百年のちの日本の政治家たちのさまざまな汚職事件にもあてはまる」とコメントしている。)またフェアな競争条件を主張する点からは、独占や特権に対しても厳しい姿勢をとる(『国富論』におけるイギリスのインド・北アメリカの植民地支配批判)。
もちろん後の経済学理論の発展によって、スミスの理論の限界は明らかであるし、これのついては本書でも、「スミスは賃金を論じようというところで、・・・賃労働者の前身である独立小生産者の心情で語っている」と手厳しい。また「賃金・利潤・地代」や「資本の運動」や「労使の村立」についても説明不足や誤解が散見される点が指摘される。しかしこれらはいずれも、むしろスミスを踏台にしてこそ明らかになったものであり、スミスの不十分ささえもが後の理論の栄養素になったといえるであろう。
ともあれ本書は、スミスの生涯と学説を要領よく紹介したものとして、著者の社会批判の視点とともに読まれるべきものであろう。
なお蛇足ながら、本書の(注)における「市民社会」という用語についての説明は重要である。著者によれば、この日本語は、スミスの時代の“civilsoceity”の訳語として定着したが、「原語と訳語の意味のあいだには、かなりのくいちがいがあって、誤訳といってもいいほどである」。すなわち原語は「ほとんど有史以来の、私有財産と政治権力をもった社会」を意味するのに対して、訳語の方は「資本主義の矛盾がまだ顕在化しない、近代社会」を意味するとされているからである。「ようするに日本語の市民社会は西ヨーロッパ近代社会を理想化したフィクションであって、日本社会の非近代性を批判する足場なのである」。従ってそれは原語から遠く離れてしまった、そしてその上に、ドイツ語のビュルガリッヒェ・ゲゼルシャフト(burgerliche Gesellschaft)の用語法によってさらに混乱に輪をかけられて多義的な言葉となってしまった、というのが著者の見解である。それ故市民社会論といっても、「日本でスミスから抽出されてひとり歩きをした市民社会論」はそのような歴史的背景を有しているということが留意されねばならない。(R)

【出典】 アサート No.235 1997年6月15日

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