【投稿】いじめは誰の責任か
愛知県におけるいじめを苦にした中学生の自殺により、またもやいじめの問題がクローズアップされている。こうした陰湿ないじめはもちろん今に始まったことではなく、脈々と続き、むしろ拡がっているのではないかと思われ、いろいろな場で解消にむけて真剣に取り組まれているにもかかわらず、一向に解消される気配はない。今回のようなショッキングな形で表に出るたびに問題にされるが、有効な処方箋は見つかっていないというのが現状であろう。
私自身は教師ではないが、教育行政の一端に携わる者として、現場とはまた違った感覚で、この問題で考えていることがある。解決の方向性といえるものではないが、日々感じている点を述べていきたい。
<いじめは学校の責任か>
今回の問題を契機としたマスコミの論調は「なぜ学校は気付かなかったのか」「もっと有効な手立てが打てたのでは」「事件後の学校の対応は問題だ」といった形で、事件前後の学校の対応のまずさを指摘し、日々の学校の体制なり、体質を問題にしてきた。その後の各地からの報告や投書などでも同じような論調が目立っている。教師の対応の中には、確かにまずい点がある場合もあろう。被害者からの訴えを相手にしなかったり、ましてや加害者になっている場合もある。しかし、一様に「いじめの責任は学校にあり」とすることには少々違和感を覚えるのだ。
いじめの契機なり実際の現場は確かに学校である。加害者・被害者ともに同じ学校であることがほとんどであろう。その中で「いじめをしよう」などと教育している学校などはなく、「いじめをやめよう」「いじめをなくそう」という形で取り組まれている筈である。それでもいじめは起こる。それもできるだけ担任や学校側にはわからないように巧妙に隠しながら陰惨と行なわれるのである。加害者は担任の前ではいい子でいるか、いじめとは別のことで目立っていることが多い。
一方、教師はと言えば、日々の授業や教材研究といった主たる仕事の上に、「問題」行動を起こす子供や登校拒否になっている子供に目を向けることで精一杯の状況にある。それも当然のことであろう。ルーチンワークだけでも結構大変な上に、たったの数年間で40人ものいろいろな個性をもっている人間の一人一人に十分な目を注ぐことなど不可能に近いのである。いくら副担などをつけたところで、少々楽にはなっても事態はそれほど変わらないであろう。いじめに耐え、苦しんでいるのは目立たない「普通の子」であり、できるだけ教師の目を盗んで密かにいじめは行なわれるのだから。仮に気付くことができたとしても、加害者がいじめをやめるまで十分にフォローアップすることは非常に難しい。 学校側の体制も心もとない。必ずしも指導力に秀でたものが学校長になるわけではない今の状況である。束ね役の教頭もたったの1人だということも問題があろう。同じことは教育委員会の指導主事にも言えることだが、こうした教委-学校の体質・体制の問題については、また別の機会で述べたいと思う。
いじめの基本は人権意識の問題である。人の身体や心を傷つけること、物事の善悪を判断することの問題は、加害者がいかなる人権意識を持っているかによる。そうした人権意識が基本的に形づけられていくのは家庭、すなわち親の教育がどこまで徹底しているかによると考える。子供の人格形成や人権意識には親の影響を多大に受けるのであり、間違った方向に進んでしまった場合も、それを是正するのは親の責任である。教科指導や学力といった面での教育を学校という行政機関に委ねているとしても、人格形成までも委ねてしまってはならないのである。これは経済的な責任よりも重要な親の責任ではないだろうか。そう考えれば、最近のマスコミ等の論調の中で、加害者の親や家庭の問題があまり取り上げられていないことが不思議に思える。何より最も追及されねばならない点であるにも関わらず、あまりに学校側の問題ばかりを取り上げすぎではないだろうか。
つい先日、いじめが問題となったある学校のクラスの保護者会の議事メモに目を通す機会があったのだが、まず加害者側の保護者のほとんどが欠席しており、出席した保護者は、我が子の被害の実態を訴えている被害者の保護者に対し、「被害者だって悪いところがある」と何ら反省の色もなくいけしゃあしゃあと攻撃しているのである。「うちの子はちょっと元気なだけで、たまに行き過ぎてしまうのだ」とさえ言っているのだ。言語道断、まさしく無責任の極みである。しかし、こうした風潮は世間に結構広まっているのではないだろうか。少々粗暴な子供は「やんちゃ」の一言で、とがめを受けるよりはむしろ歓迎される。自分の子供がいじめられたどうしようと心配する親は多いが、自分の子が人をいじめたらどうしようと心配する親は少ないのである。
学校は社会の縮図であると言われる。そうであれば、いじめが蔓延している大人社会の反映として、学校でいじめが起こっているのは、ある意味ではしかたのないことなのかもしれない。だからこそ、大人たちは自分たちとは同じことにならないよう、徹底して子供たちを教育し、加害者を作り出してはならないのであり、万が一、我が子が加害者になってしまった時には、親の責任において被害者に謝罪、補償し、その姿を子供の目に焼き付かせ、子供に対して事の重大性をわからさなければならないのである。それが親の責任というものであろう。
一方、別の意味での親の責任もある。いじめにおいて被害者には一片の責任もないというのは当然であるが、被害者の親には責任がないとは言えない。いじめられていることを言えない家庭の雰囲気や信頼関係をつくりだしているのは、親の責任である。また、被害にあった時にすぐさま学校に訴えるが、本当の矛先は加害者であり、加害者の親なのである。代理人たる親同士で徹底的に話し合い、謝罪と補償をさせなければならず、二度といじめをしないことを確約させなければならないのである。学校に訴えたところで「指導を徹底する」ことしかできず、速効性を期待することができないのが現実であり、そもそも民対民の問題の解決を行政機関がすることはできないのである。
だからと言って、学校側が免責されるわけではない。教師にとって相手は40人であっても子供から見れば唯一のおとななのだから、その影響の大きさを考えて言動や行動には十分注意しなければならない。あたり前のことではあるが、過去、子供の前で他の教師の悪口を言う教師の多かったことを思い出すのである。事実、職員室の中でもいじめは行なわれているのである。そんなことで、子供たちのいじめがなくなろうはずがないのだ。
以上、飲み屋で一席ぶっているような整理のついていない話になってしまったが、あまりにも現場の愚痴や本音を聞きすぎたのかもしれないし、今の現状の裏の部分を知りすぎたのかもしれない。読者の方々には当然違った意見をお持ちであろうと思う。今回の事件が起こってから、教員のみなさんの意見を未だお聞かせいただいていない。ASSERT自身教員の方々の投稿が少なくなっているのではないだろうか。ぜひぜひ、建前でなく本音の意見を投稿いただきたいものである。 (江川 明)
【出典】 アサート No.206 1995年1月15日